第11話 紹巴の災難、犬山落城

 犬山城はその後、ふたりの家老が信長に味方することになって、あっというまに落城した。城主だった信清は、命からがら城をぬけ出し、東国へ逃げていった。

「あっけなかったのう」

 信長は犬山城に入り、木曽川のすずしげな流れを見おろしながら言った。

「町衆らの心も信清のぶきよどのからはなれておりましたゆえ、やすやすと城も落ちたのでございます」

「うむ」

 信長は城の物見やぐらに上がって木曽川を見おろした。対岸にそびえるのは伊木山いきやま。はるかに稲葉山城。小さくかすんで見えるのは伊吹山いぶきやま。琵琶湖をへだてて京都。天下への道筋が一望のもと見わたせる。

「気持ちのよいところだ。この山はたしか三狐地山さんこじさんと申したな」

「いえ、三狐尾地山さんこおじさんにございます」

「ちがいますな。三狐尾寺山さんこおじさんが正しゅうござる」

「なんと。三光寺山さんこうじさんにございまするぞ」

「ええい、どれでもよいわ」

 眼下には木々がつらなり、深い緑のそのはるか下に木曽川が音たてて流れている。山は、北はなだらかな断崖として川岸につながっていた。その川面から、涼しげな風がのぼってくる。信長は目を転じて、すぐ東隣の山を見た。

「あちらの山に見えるのは針綱はりつな神社であろう。あの山はなんと申したかな」

「あちらはたしか犬山峰いぬやまみねとか」

「いえいえ、白山山はくさんやまでござる」

「ふん、どちらでもよいわ」

 その東隣の山のほうが高く、町に面した南側のすそ野も広かった。てっぺんに針綱神社の屋根が見え、うっそうと茂る木々に守られていた。

「あの山なれば対岸の宇留間うるま城のようすも手に取るようにわかるであろうな」

 信長は川風にふかれて、つい、そこにすわりこんだ。

「みなで針綱神社にお参りして、今夜はここに泊まるといたそうか。われらで、ぞんぶんに祝おうぞ」

 信長入城を祝って、犬山の城下もにぎやかだった。犬山の町衆は、信長のために川魚や山菜を中心とした料理を用意し、酒もどんどん城中に運びあげた。

 日が落ちるころには歌う者や踊る者で城内はごったがえしていた。二層の一階も二階も戸を取っぱらって、納戸なんどや畳の間、廊下など所かまわず人があふれていた。

 信長は二階で、みずから扇を手に舞っていた。見ている家来衆たちも、ただ見ている者はなく、思い思いに歌ったり、笛を吹いたり、たいこを打ち鳴らしたり、ひっきりなしのにぎやかさだった。

 そのさわぎのなか、ふと一陣の風が吹き、ろうそくの火がいっせいに消えた。さわぎの声がかき消え、ふたたびろうそくがともされたときだった。

「信長どの、このたびは、おめでとうございます」

 はっとしてふりかえると、一座の真ん中にちんとひかえている者があった。炎の灯りに浮かびあがったその者は、なんと、紹巴じょうはである。家臣の者たちは思わず一歩しりぞいた。信長も注意して身がまえた。

「紹巴、いつから、そこにおった」

 信長は扇を手に、とがめるように言った。

「いや、つい、さきほどでございます。みなさまが、あまりに夢中でいらっしゃるゆえ、ひかえておりました」

 家来衆たちは互いにひそひそ話をかわし、信長はいっそう用心した。

「そのほう、また、なにやら、衣装でも持参いたしておるのではあるまいな」

「は? え。はて。あ。いや、恐れ入りましてございます」

「持参いたしておるのか」

「わたくし、たしかに、お祝いのしるしにと陣羽織をお持ちいたしております。しかし、まだ、どなたにも申しあげておりませんのに。すでに殿がご存じとは」

 それを聞いて信長は顔色を変えた。ぐずぐずしていると、また化かされる。そうなる前に先手を打たねば。

「おい者ども! こやつをひっ捕らえい!」

「わ。信長どの、なにをなされます。わぁ」

 あわれ紹巴は、荒縄でぐるぐる巻きにされ、ごろんと転がされた。

「さて、これで、ひとまず安心。化かそうにも手も足も出まい」

「信長どの、これはどういう次第でございますか。わたくし、なにかお気にさわるようなことでもいたしましたか」

「やかましい! 二度は大目に見ても、三度はゆるさんぞ。おとなしく正体をあらわさんか。あらわせば、町おこしの功績もあるゆえ、見逃がしてやらんこともないぞ」

「殿、なにをおっしゃっておられるのです。わたくしは紹巴でございます。わたくしのことをお忘れにございますか」

「あくまで、しらを切る気か。よいわ。だれぞ、このキツネめの正体をあばく者はおらんか」

「キツネでしたら、やはり、松の葉でいぶしてやるのが、いちばんかと存じます」

「うむ。さっそく、したくせい!」

 城の南の広場にはクヌギやクスノキが枝を伸ばしていた。そのなかの手ごろな枝に紹巴はつるされた。

「早よう、正体をあらわせ! 苦しむだけだぞ」

 かき集められた松葉に火がつけられ、足軽や雑兵ぞうひょうどもが大うちわで紹巴のほうへ煙をあおいだ。

「ゴホッ、ゲホッ、ゲェ」

 家来衆がみな、見物に集まってきた。はやす者、どなる者、大笑いする者などでさわがしくなった。

「キツネ。ここで死ぬか。これ以上、煙を吸うと死ぬぞ!」

「わわわたくし、じょ、じょ紹巴に、ございまするうううぅ」

 がっくりとうなだれたのを見て、信長は煙をあおぐのをやめさせた。

「しぶといキツネだ。ほかに方法はないか」

祈祷きとうなどはいかがでございましょう」

「うむ。したくせい!」

 となりの針綱はりつな神社から神主が呼ばれ、さっそく、お祈りをはじめた。手にしたさかきの枝が大きく振られ、枝に付けられた紙垂れが千切れんばかりに左右に泳ぐ。

「えやっ、えやっ」

 神主は声をはりあげて油揚げをささげた。ほんもののキツネならば、ここで、その油揚げをかっさらって逃げるはずである。しかし、キツネと見なされた紹巴はぐったりしたまま、なんの反応も見せない。

「しぶといのう、こやつ。さすが吉五郎とか申すキツネの親分だけのことはある」

「ととと殿。わわわたくし、じょ、じょ紹巴にて、ございまするううううぅ」

 弱々しい声に、みながしんとなった。

『これはキツネではなく、ほんものの紹巴では』とだれもが思った。

 しかし信長はちがった。

『こやつのうめき声は真にせまっている。むしろ本物以上だ。しかし、これこそ吉五郎の底知れぬ化け力のあかしではないか』

 信長はそう考えて、ひと晩かけてでも正体をあばいてやろうと思った。

「よし、朝まで城の屋根からつるしてやろう」

 城の裏手は、木曽川の流れに落ちるゆるい崖である。紹巴は、その崖に向かって城のてっぺんの屋根からつるされた。足下から吹き上げてくる風にゆられるたび、川のすさまじい気配がせまって、その恐怖は底知れない。

「どうだ、キツネ。さっさと観念して正体をあらわせ。いまなら助けてやろう。だが明日の朝にはまちがいなくキツネ汁にしてしまうぞ」

 夜の闇に木曽川の流れる音がおそろしく響き、信長の声もかき消されそうだった。紹巴はもう声も出ないありさまで、気をうしなっているのか身動きすらしなかった。

 夜もふけて、みな眠りこんだ。そのころには紹巴のことを気にかける者はだれもいなかった。しかし翌朝、紹巴はふたたび注目を集めることになる。それは、前夜よりもさらに悲惨な光景だった。

「ふわわあわ」

 足軽の彦佐は、雑兵とともに城の一階、畳の間に入りこんで、ごろ寝をしていた。尿意をもよおして目覚め、大あくびをしながらふらふらと立ち上がった。

 用を足すには急な階段をおりて城の外に出なければならない。しかし、そこらじゅうに人がごろごろしていて歩きにくく、慣れない城で足下もおぼつかない。

「いかん、もれてまう」

 廊下をうろうろしていると、西北のすみに小部屋があった。そこにも何人か転がっていたので足下に気をつけて窓へ。窓はひざの上ほどの高さで、まさにもってこいだった。彦佐はためらうことなく窓をあけ、前をはだけてしゃわわわわ。

「おうおう、間に合った」

 ほっとして目をあげると、対岸の伊木山がくっきりと朝日を浴びていた。

「ほうお、きれいなもんだがや」

 そこは川に面した崖に向かって、ちょっと張り出した窓である。窓から放たれた小便は、崖の木々めがけて落ちていくはずだった。しかし窓の下で、なにかに当たってそこらに飛び散っていた。

 窓の下にあったもの、それはなにかというと、ほかならぬ紹巴の頭である。

 城のてっぺんから蓑虫みのむしのように吊り下げられた紹巴は、足軽の彦佐の小便を頭から浴びていたのだ。その生あたたかい液体にはっと目を覚ました紹巴は、一瞬きょとんとしたが、我が身にふりかかるものがなにか、上を見あげてわかった。

「わわ、そこの者! 小便やめい。しょしょ小便、やめいと言うに」

 しかし、その弱々しい声が彦佐の耳に届くはずもなかった。

 彦佐は窓の下のことなど気にもかけず、ひたすら気持ちよく放尿した。小便のいきおいはますますはげしくなり、紹巴の頭にじょびじょびと降りかかるのだった。

 さらに紹巴にとって気の毒なことは、小便をもよおして目を覚ましたのは彦佐だけではなかったということだ。ほかの足軽や雑兵たちも彦佐と同じようにうろうろし、そして、彦佐が小便をしているのを見つけた。

「お、なんだぁ、ここでやりゃええんか」

 みな、眠い目をこすりながら、何人かが彦佐のとなりで小便をしたり、後ろにならんで順番を待ったりした。その結果、しゃわああああと何本もの小便が、夜明けの犬山城から次々に放たれることになった。その集中放尿を浴びた紹巴は、またも声も出ないありさまだった。

 やがて、熊蝉くまぜみの声が「わーしわしわし」といっせいに木曽川の流れの音に響き始めた。そのころになって、小便まみれの紹巴は信長の命令でようやく下ろされ、たらいの水に放りこまれた。

 紹巴はぐったりしたまま、頭のてっぺんから足の先までごしごしと洗われた。目は閉じられ、かろうじて息がもれている。しっぽが出るどころか、まさに虫の息。そのようすにさすがの信長も、これはほんものの紹巴だと認めるほかなかった。

「ま、悪気はないゆえ、ゆるせ。もとはといえばおまえが、化けやすいと吉五郎に見込まれたのがいかんのじゃ。まあ、気をとり直してゆるりとせよ。酒もさかなも用意させてあるぞ。あとで連歌でも楽しもうではないか」

 紹巴は相手が信長なので、ははっとかしこまり、にこにこと愛想笑いさえ見せていたが内心は、はあ。

 今回のことは、信長の犬山攻めのうわさを京で聞き、落城の折りには近くまで来ていただけのことだった。もちろん、贈り物の陣羽織は京都の西陣織のほんもので、りっぱなものである。犬山落城を見込んで前もって職人に作らせておいたものだ。

 吉五郎のせいで、いちばんひどいめにあったのは、この紹巴かもしれない。

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