人魚の夏

小野寺こゆみ

人魚の夏

 先輩は人魚なので、水分さえあればどこでだって泳げる。夏の空にふよふよと浮いた彼曰く、九割ほどが湿気で構成された日本の夏は「黒潮そのもの」らしい。あったかくて、ゆっくりと流れて、たっぷり餌が飛んでいる泳いでいる。口を開いているだけで、プランクトンの代わりに蝉が飛び込んでくるすばらしさを、先輩は人間の俺に語る。

「プランクトンは食った感覚がしなくて、無感動の極致って感じの食事だよ。何千何万のプランクトンを食って、やっと一日俺が生きていけるレベルの栄養しかないし。だけど、蝉は暴れるし、ぱりぱりしてるし、一匹で一食賄える。地上は、いいね」

 そうです、俺は答える。地上はいいでしょう、先輩。ずっとここにいたっていいんですよ。

先輩は人魚のくせにできそこないなので、本当は地上暮らしの方が向いている。体のどこにも鱗がないので、ずっと水に浸かっていると体がすっかりふやけてしまう。だから、湿気がたっぷり含まれた大気を泳ぎ回ることを好む。でもできそこないだから、鱗だけじゃなくて、水かきもない。それで、上手く泳げないから、うっかりすると上昇気流に巻き込まれて、宇宙近くまで飛んで、帰ってこれなくなってしまう。死んだ愛犬の遺品である首輪とリードを持ち出して、先輩の首に繋いでから、家を出る。ぷらぷら揺れる赤いリードは、人魚の尾というより金魚のフンといった感じだけれど、先輩は大層気に入っている。

先輩はこんなにも地上暮らし向きで、俺がいないと死んでしまうようなだめ人魚なのに、夏が終わるとまた海の底に帰ってしまうらしい。俺は彼のその自分勝手さを、密かに嫌っている。

 家に帰ると、俺は未だふよふよ浮いている先輩を自室に押し込めて、エアコンのドライボタンを押す。部屋が乾燥するにしたがって、先輩は次第に浮けなくなってきて、地上に降りてくる。しばらくすると、先輩の唇から血の気が無くなる。先輩は男の人魚のくせに、病んだ姿がやけに色っぽくて目のやり場に困るので、俺はすぐに彼の唇を脱脂綿で湿らせてやる。すると、水を得た魚の如く、彼は活き活きとしだすのだ。魚でも人でもないくせに。

「たまには、夜の新宿とか泳いでみたい。人混みの上を、優雅に泳いでやったら、みんなどんな顔するだろう。水の底で揺れ動く海藻みたいなあいつらに、ひと泡吹かせてやりたいよ」

 彼はベッドに仰向けになって、革靴のつま先だけをくいくい動かす。尾ひれをばたつかせているつもりなのだ。そして、俺がかまってくれないことを悟ると、俺のポテトチップスを勝手に開けて食べ出す。俺は勝手にビルの屋上から飛び降りて、一度死んでしまった彼のことを思い出す。生きてた頃は、確かに人間だったはずなんだが。二階にある、俺の部屋の窓を開けて「泳ぎつかれた。休ませろ」と返事も待たずに入ってきた夏の初め、塩をまいても消えない彼は、幽霊ではなく人魚だとむくれた。未だに彼の正体はわからないし、なんで新宿の雑居ビルの屋上なんていう、つまらない場所から飛び降りたのかも聞いていない。貴方、ずっと前から死ぬなら花畑とか湖とか、女の子が死にそうな場所で死にたいって言ってたじゃないですか。

 先輩は確かに俺以外には見えていないようで、何も繋がれていないリードを引く俺は確かに君が悪いだろうと思いながらも、親の奇異なものを見る目に逆らって、毎日先輩を散歩に連れ出している。首輪が浮くことは、彼らの道理にかなっているのだろうか? と思うが、もしかしたら首輪は浮いていないのかもしれない。どっちだっていい。どうせ先輩は、俺がいる場所以外行けないので、俺にさえ見えていれば、特に不都合はない。

 先輩は人魚のくせに、家では水風呂に延々と浸かるということもなく、人間だった頃と同じく風呂嫌いである。本当は、水に浸かるのだって、息苦しいと嫌っていたくせに、今は人魚なのだから可笑しい。今のところ風呂に一度も入っていない先輩は、死んだときのまま、紺色のブレザーと化繊のズボン、ハルタの革靴を履いているけれど、血痕はないし、特に匂うこともない。暑苦しい恰好なのに、抱きしめるとむしろひんやりとしている。夏の湿気を吸い込んだ髪の毛からは、雨も浴びないのにいつもペトリコールがして、とても不思議だ。首筋からは薄らと磯の臭いがするので、醤油をかけて舐めたら味海苔の代わりになるんじゃないかと不埒なことを考えたりもするが、今のところは実行していない。他の場所を匂ってみたい気もするが、服を脱がせるような義理もなかった。

 俺たちは、そういう関係ではなかったでしょ。そもそも、何故俺の家なんです……。

 先輩には無論、実家がある。とても豪勢な邸宅で、綺麗な両親が揃っている。遠目からそれを見たときに、ドールハウスをそのまま大きくしたような家だと思った。先輩はその中で、幼女が操るお人形よろしく、理想的生活を営んでいたはずなのだ。自殺したことを鑑みるに、実のところそんな良い家庭じゃなかったかもしれないが、それでも俺のところに来る理由がわからない。彼には友人も多かったし、可愛がっている後輩は俺以外にもたくさんいた。

「お前の家が一番来やすかったから」

 こぽこぽと水泡が弾けた気がした。ここは水中ではないのに、先輩がいるだけで、冷たい水が指の間を通り抜けていくような気がする。俺は彼の首筋に鼻を埋めて、深呼吸する。ペトリコール。この匂いがする理由は、彼の死体が夕立に濡れていたこと以外特に思いつかない。

 新宿、行きましょうか。俺は彼の首に手を回す。白くて細い首に、首輪をかけるときは、窒息死する一歩手前まで締め上げてしまう。だけど、彼の首には痕が残らない。抱きしめる度に実体があると感じているはずなのに、実際は虚無である。


 新宿の雑踏の上を、先輩は楽し気に泳ぐ。彼にはもう、恐れるものなんて何もない。呑み込んだが最後病んでしまう人の海も、湿気に溺れる夏の空気の底も、彼にはもう関係ない。彼は死んでいるし、人魚だし、俺に繋ぎ留められているから、どこに行くこともない。少し伸ばし過ぎた黒髪が、ゆらりと背びれのように揺蕩う。街頭モニターの光を透かして、ネオンのように輝くそれを食べたら、きっと今度こそ彼の汗の味がする。

「そこのビルの階段! 登れよ」

 一時期狂ったように登っていた階段が、いつの間にか目の前に現れている。ここ、貴方が死んだ場所じゃないですか。ほら、面倒になって造花になった献花が、こんなにうち捨てられてる。死んだ後で、貴方が生前言ってたように、死に場所がお花畑になったわけですが、御感想は。

「我ながら、きたねえ場所で死んだなあ」

 まあ、意外と貴方、汚い人ですからね。言葉遣いとか。寝相とか。死体も汚かった。死に化粧で隠されてたけど、顔に青あざがいっぱいできてたってわかったってみんな言ってましたからね。そう、俺、貴方の葬式にきちんと参列できなかったんですよ。丁度、部活の合宿と重なっちゃって。いいや、別に、今度線香上げに行こうって、軽く考えてました。

「で、お前は来るのか?」

 先輩は、フェンスを乗り越えた空中から、澄んだ瞳でこちらを見つめていた。暗く澱んだ、安寧だけが待つ深海が、彼の瞳孔を通じてこちらを覗いている。答えない俺に焦れたのか、先輩は首輪を外して、手首にひっかける。そうだ、彼は、俺の元から逃れようと思えばいつだってできたのだ。俺がいなくたって、宇宙をぷかぷか泳いでいればいいだけの話だ。

 彼はもう、死んでいるのだから。

「行ってもいいんですか?」

「来たいなら」

「どうして貴方は死んだんですか?」

「空中には人はいないって、気づいたんだよ。それで、人魚になった。でも、考えてみれば、人間だって七割水なんだから、人混みだって、実質海なんだよな。……ほら!」

 いきなり、俺は宙に浮いた。リードに引っ張られている。ばしゃばしゃ、と湿気が跳ねる音が、耳元で鳴り続け、鼓膜がぼんやりとした音しか聞けなくなっていく。人の海の中を泳ぐと、時折血潮を透かした風景が広がって、人間は海から生まれて、今は腹の中に海を飼っているのだと新鮮な驚きに囚われる。なんだ、貴方、人を泳がせることもできたんじゃないですか。本当に、人魚になっちゃったんですね。俺がリード持つ必要、本当にあったのかな。

そうして、俺の部屋まで泳ぎ切った先輩は、久しぶりにげらげら笑いながら、ぱっとリードを手放して、代わりに俺の手を掴んだ。

「で、来るか?」

 人魚は、そのうつくしい姿と声で船乗りを惑わせて、溺れさせると言うけれど、俺が溺れるべき海は、灰になっている。結局この人は、なんで俺の前に現れたんだろうなと思いながら、俺は彼の頭を撫でた。最後に、俺の名前を呼んでくれませんか。

「呼べるわけないだろ」

 呼べるわけない。

 彼の手を離すと、ゆっくりと彼は浮かんでいく。宇宙は結構涼しいぞ、と微笑む顔は、夢幻ではないと信じたかった。


 起きて、リビングに降りる。息子が何故、泣き腫らした目をしているのか、理解したくもなさそうな父親と、気遣わしげな視線だけを投げかける母。

「好きな人が死ぬ夢をみました……」

 首輪に括りつけられた赤い風船が、扇風機の風に煽られている。



 何も面白いことがない。テストが終わったら、もうしばらく何もない。打ち込むものがある奴はいいな、って思いながら、グラウンドに目を向けた。一生懸命ボールを追いかける姿がイヌに似ている。あの後輩の名前は知らないけど、相手は俺を多分知っている、今目が合って、向こうは会釈したから。サッカー部は来週から夏合宿だけど、もし俺とか、他の誰かが来週死んだら、彼は合宿を放り出して、葬式に来るだろうか。

 試してみようかな。

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