第3話 彼は仕事に挫折した


 お立ち台の上。それは高く、今にも天に届きそうだった。


 声を張り上げ、平和になったこの国を称える。この喜びを共に伝える。戦いの終焉を迎える。一人の英雄は、歯を食いしばって。叫びと悲鳴を噛み殺して、自分の人生を捨てる覚悟を得た。代わりに、この国の復興を一心から願った。


 そして、一年が経つ。


『皆様、おはようございます。この度新たな天皇に就かせていただきました、マリと申します』


 いま極東の国は、世界から見ても先進的な国で、近未来にも似た、映画の中みたいだ。街の全てがモダンで統一されて、今となってはどこか寂しく、それでいて冷たく清潔だった。


 今、リーダーにキシヨを迎え、新たな新政府が動く。マリを天皇に迎え、新たな日本を掲げたのが今だ。


『この国のシンボルとして海外との円満な関係を築き、極東をよりよくすることを誓います』


 首都ではビルの巨大な液晶に、マリの顔が映し出されている。就任の挨拶の生放送だ。見逃せまいと、テレビにかじりつく者すら居たのだから、彼女の人気は凄まじいものがある。


『極東の名に恥じないよう努めてまいりますので、宜しくお願いします』


 そんな中、キシヨは新たな仕事に没頭していた。


「あーでもないな、違う、こーでもない」


 大きめの書斎の中。どっしりとした木の机を目の前に、踏ん反り返れるほどの大きな椅子に、みみっちく座る。新政府樹立一年を記念してのパレード、その計画を渾身の力で練っていたのだ。


「もっと会場を大きくしたほうがいいか? でもそれだと予算が」


 頭を指でコツコツ叩きながら取り組んでいるこの仕事。知っての通り、本来リーダーがやるべき仕事ではないのだが、彼にはこれ以外職務がない。そこには複雑な事情というものが伴っている。


「ハクション! やっぺ! 書類が濡れた! 熱! コーヒーが!」


 キシヨは日々励んでいた。毎日を必死に取り組んでいた。それはもちろん全てが模範的だ。朝は早く起きる。1日の予定を確認。日々浮上する国の問題を解決する案を出す。そして、夜は次の日の予定を確認して早く寝る。

 だが、そんなとある日、キシヨは風邪を引くと、こう思ってしまったのだ。ああ、これで休める。

 キシヨは自己嫌悪に襲われた。国の未来のために邁進すること、この仕事がやりたいのだと、信じていた。


「びしょびしょだー、いいスーツなのに」


 しかし、それは違ったようだ。あの時。グレンシアと命をかけて戦っていた時、一番生き生きとしていたことを思い出す。キシヨは戦いが好きなのだ。

 スーツを着てびしょびしょになってる場合じゃない。手を火傷してあたふたしてる場合じゃないのだよ。


「おーい! 秘書いますかぁ!? 新しいコピー持ってきてー! フキンも!」


 昔、侍がいたころ。


 戦いがなくなって侍は肩身が狭くなってしまった、というのを聞いたことがある。しかし、侍は戦うことをやめられず、そのほとんどが新たな社会には馴染めなかったらしい。まさか自分が侍と同じだとは考えもしなかった。


 だが、今の彼を見て言うならば、90年代のオフィスコメディー。身振り手振りが大きいのは誰も返事をしないとわかって、あえておちゃらけているわけだ。


 キシヨの気づきをきっかけに、部下たちも力をつけ始めキシヨの仕事は大きく変わった。結論、用なしと言う意味だ。今となってはキシヨ以外の人間が、この国を回していた。


「誰もこない、か」


 寂しくコーヒーカップを手元に戻す。フキンも机の棚から引っ張り出した。黄色いフキンは侍に似つかわしくないモッフモフした素材で、吸収性が良いのをいいことに、自分の待遇への不満ごと拭い去った。


 キシヨは仕方なく、自分に回ってくる仕事に手をつけている。それがパレードだ。マリのことに一切関与していなかった。


「仕方ない、少しだけ休もう」


 肺を吹くからましてため息をつく。書類をかたずけてフキンをしまい、スーツのコーヒーを軽く叩いて、部屋の小さな物置を眺める。キシヨが太一と撮った写真、ともに笑顔で泥まみれだ。


 不満も忘れて、仕事にふと切れ目が現れる。そして、太一の言っていた元気の出る言葉を思い出すのだ。


”エクレツェアの民は、果敢に戦う。エクレツェアの戦士は、優雅にに戦う。エクレツェアに行くこと、それが夢だ”


 エクレツェア。一体何の話だったのだろうか? あいつはいつも言っていた。


”俺は異世界の人間なんだ。いろんな世界を旅して、やっと親友に出会えた。お前をずっと探していたんだ”


 その先に、何か言っていたような気がしたが、覚えてなかった。それでも彼は、そんな馬鹿馬鹿しいこと、嘘だと決め込んで。上の空で聞いていた。


 キシヨは肺を緩和して息とともにつぶやく。


「俺もいつかエクレツェアに行けたらいいな。その時は、お前に逢えるといいんだが」


 なんでもない、その言葉。だがそれは、運命を変える言葉であった。


● そう、その言葉を待っていたんだよ。


 コンコン、扉にずさんなノックされた。向こう側では黙りこくってキシヨの愛想を思い描く。


「入ってください」


 ……コンコンコン、珍妙なリズムが鳴り響く。誰も入ってこない。バカにしたような苛立つノックが扉まで太一を笑っているように見せていた。断続的になされるばかりだ。


「入ってくださいって」


 ……ゴンゴンゴン! ゴンゴンゴン! ほらどうした、世界を救って英雄が、机に座って忘れ去られ、今や黙って豆汁すする。誰もフキンすら持ってこねぇお前には、コンコンダッシュがお似合いさね。


「なんの真似だ!」


 ついに苛立ったキシヨは扉の前を確認しに行った。力任せに扉を開けたのだが、そこには誰もいない。建物のシックな作りの廊下と、紫のカーペットがあるばかりだ。


「一体誰が……」

「ハッピバースデイ、キシヨ」


 フキンすらない太一に、お祝いが届いた。

 突然、誰もいないはずの後ろから声がした。心臓が警告を鳴らし、脳内物質の濃度を変える。慌てて振り返えった。前を向いていたはずの大きな椅子が、後ろを向いて、傲慢にもこちら側に踏ん反り返っていた。

 誰かが座っているということだ。


「何者だ!」


 キシヨが警戒して、右手をさっと後ろへ回す。戦場を経験した彼の後ろをそっと回って、椅子を回転させて踏ん反り返るのは、至難の技ではない。


 正直言ってありえないその芸当は、夢や幻でも体感したことのない。もし太一が主人公じゃなかったら、後ろから斬り殺されて人生の終わりを迎えていた。


 しかし、そこと違うのがエクレツェア。人は走って飛んでキックして、未知の体験を砕いていくのだ。いつか二人で踊ったワルツ、あの時から続く二人一役をやってのけなければならない。もちろん、キシヨも例外なく未知との遭遇をする。


 キシヨはストーリーに従って戦場のように駆け寄ろうと、一歩踏みだした、その時だ。


「……動くな。合言葉を言え」

「合言葉? 一体何を……」


 急な暗号、止まる状況。珍妙な問答は不思議の国を思わせる。


 キシヨは未だ付けていた、腕時計のような兵器、右手首の『フィガー』に触れた。冷たく、重厚な白い時計。つまらぬ問答くらいは簡単に殺せる代物だ。不審者とあれば、容赦はしないつもりだった。


 だが、そんなことを思っていると、椅子の後ろから右腕がひょっこり顔を出す。それが奇妙な姿で。腕は、質量と密度を感じる、黒い装飾が幾つも付いており、デザインがうるさいことこの上ない姿だ。


 しかし、自分の見てくれも気にしないで遠慮せず右手を上に向けた。何かを鷲掴みにする。金庫を開けるように時計回りにひねってみせる。瞬間、キシヨの右腕が後ろに引き寄せられた。関節技が決まってしまう。

 突然の事態に慌てふためいた。これでは『フィガー』が使えない。


「アガァ……何をする!」

「合言葉だ。それを言えなければ、お前をエクレツェアに連れて行くことはできない」

「エクレツェア……!?」


 その言葉を知っている人間を今までお目にかかったことがない、心の底を覗かれた気分だ。それだけに限らず、この男の存在はただ椅子に座っているだけで、そのオーラが周りの机やクローゼットを押しつぶしそうだ。


 黒い装飾この上ない彼は、椅子の後ろでこうつぶやいた。


「10秒だ。時間をやる、答えろ」


 すると、10、9、8、と迫るようにカウントが始まる。待つ様子は一切ない。

 キシヨは慌てて呼び止める。


「まてって!」


 しかし、7、6、と無情にカウントは進む。冷血な声にキシヨの顔も瞠目し始めた。彼はここでチャンスを逃してはいけないと、ともあれ言葉を発する。


「え、エクレツェア!」

「ちがう」


 椅子の後ろの手は5秒のカウントを、指で始めた。軽んじたように、指を振り始める。イラついたが、キシヨはともあれ言葉を発した。


「異世界!」

「ちがう」

「エクレツェアの民!」

「ちがう」

「エクレツェアの戦士!」

「ちがう!」

「お前のかーちゃん、『エークレツェアー』!」

● なんだその悪口は。

「ちがう」


 そして、椅子の後ろの手が指を一本だけ立てて、挑発するように大きく揺れた。


「いーち!」


 キシヨは目の前の大切なチャンスを逃したくなかった。何か大切な手がかりがあるのかもしれない。追い詰められて思わず。


「太一!」


 そう叫んでしまった。こんな時に太一の名を出すのは間違っている、そう思っていた。だが、案外行ってみる者だと知ることになる。

 同時に、男が指を振るのをやめる。今度は、パチンと指をならした。


「では、俺の名前は?」

「太一か?」

「ちがう」


 椅子の男は指で急かすが、キシヨにはわからない。なので仕方なくヒントを出す。


「……さて、問題です。お前の親友はどんな人間に憧れていたでしょうか?」


 キシヨは素早く思いを巡らせた。すると、どこかマヌケな言葉を思いつく。


「……いや、ありえない。あんなのはただの妄想かと……」

「言うてみそ」


 椅子の後ろから指で呼びかけて、キシヨの関節技を解くその声は、優しかった。先ほどまで存在自体が空間を掌握して見る者すべての油断を許さなかったのに、不意にほがらかな花畑が広がった気分だ。


 キシヨは少し戸惑ったあと、ゆっくりと、


「詠嘆のエクレツェア……」

「せいかーい!」


 すると次の瞬間、歓喜の声をあげて、腕だけを見せていた人間が椅子を回転させ、姿を表した。


 姿はやはり、黒の装飾がうるさいことこの上ない格好。後ろには黒のマントを羽織っている。短く刈り上げた短髪。分厚いメガネの姿。どこかで見たことがあった。


 勢いのまま、机の書類の上に両肘をついて手を温めるように。顔を近づけると、もう一度だけ。


「正解だ」


 緊張が解けたように話し始める詠嘆のエクレツェアは、まるで、キシヨを手のひらの上で転がしているかのようだ。


「なんの真似だ!」

「久しぶだな、キ〜シヨちゃーん」

「——っお前は誰だ! なんの真似だと聞いているんだ!」

「怒るなよ。今日はお前の誕生日なんだから、今はとりあえず祝おうぜ」


 所々におふざけの混じったそのセリフは、キシヨをイラだてるのに十分だ。右手の『フィガー』に触れる。

 すると、詠嘆のエクレツェアは指をさして一言、


「攻撃してもいいけど、その前に借金を返してくれるか?」

「はぁ? 借金?」


 詠嘆のエクレツェアは、指をさしたまま、同じ左手で頬つえをついてつまらなそうに、


「まあ、言ってもわからないだろうから全部言うけど、リプレイの費用1000エア、耳を揃えて払ってもらおうか?」

● 詠嘆よ、言ってもわからんのに要求してどうするんだい?

「それは知らん」


 キシヨは威嚇するように尋ねる。


「なんのことだかさっぱりわからないな。リプレイ? 一体なんのことだ?」

「そんなことは知らなくていい、久しぶりに会ったんだから喜べよ」

「知らねえよ! 会ったことなんて一度もないだろ!」

「そりゃそうか、おーい。語り部やーい、思い出させてやれ」


● と、詠嘆のエクレツェアからの指示があったので、始めるとしますか。

● 操作完了、記憶を結合します。


 突然だが、キシヨは思い出した。


 目の前の人間に、会ったことがあるということに。


 そして、これまで出会ってきた人物が、そっくりそのまま詠嘆のエクレツェアや別人にすり替わっていることに。二度人生を歩んだような記憶があることに気がついた。

 診察の時。本部襲撃の時。そのほかにも幾つかの場面で、詠嘆のエクレツェアを見た記憶が突如蘇る。


● と言っても、僕が語ったことが現実になるだけ、の話なんだけどね。


 キシヨは仰天すると、

「……なんだいまの? まるで記憶を操られたようだ……。お前ら何者なんだ!」

 詠嘆のエクレツェアは、右の鼻を人差し指でほじりながら、

「しょーもない質問だな。もっと面白いこと言えないのか?」

● そう言って頭を同じ指でぽりぽりとかいた。その前に拭え。

「もう一度聞く……何者だ?」


 詠嘆のエクレツェアは、顔の前で手を組み、両人差し指を立てると唇の前へ。その人差し指をキシヨに向ける。


「ひとつ、お前はキシヨになってから約2年と半年。おめでとう、これでお前はエクレツェアに来られるほど異世界に影響されたことになる」

「……どういう意味だ?」


 しかし、キシヨに答えず、詠嘆のエクレツェアは話を進める。手を叩いて、


「ふたつ、リプレイとは今お前が思い出した通りだ。具体的に言うと、世界が正しく進むかどうか人生を一度リハーサルしてる。よって同じシチュエーションを別の人物で経験することになってもおかしくはない」


 そして、両手の親指の付け根で下唇を触る、気持ちを落ち着かせ、


「みっつ、借金とはそのリプレイにかかった費用だ。1000エア、お前がこの世界の主人公であるがために、その費用を払う責任を前の主人公がお前に託した」


「しゅ、主人公?」


 その三つ目だけ、ふたつの意味がわからなかった。まず、自分が主人公であるという意味がわからなかったのだ。


 確かに、今まで普通の人間にできない経験をしてきた。


 だが、だからと言って自分が主人公であることには、全く納得が行かなかった。何より、主人公が特殊な経験をしている人間でなければならないのだとしたら。それは、キシヨ自身一番軽蔑している存在だからだ。


 そして、二つ目が前の主人公。今まであってきた人間の中に主人公がいたとは、思えない。


「あ……」


 しかし、キシヨのその言葉は、わからなかったふたつの疑問に答えが現れた瞬間のものだった。なぜ自分が主人公なのか。それは、今まで会ってきた人間の中の最も主人公であってもおかしくない親友のことを考えると、おのずとわかった。


「太一だ、あいつなら主人公も務まるだろうよ。それに、死に際に俺を主人公に指名したとなれば、話は見えてくる」

「なーんだ。結構推測力はあるんだな」

● 詠嘆よ、もう少し説明したかったのかい?

「いいや、そうなるように決まってんだから。これもまた巡り合わせだ」


 これが格の違い。今のキシヨにできたのは、先ほどの1000エアの話をすることくらいだ。

 詠嘆のエクレツェアは私と喋っているのだが、キシヨにはそれがまるでわからない。


 ふふふ、ふふふ、そうそうこれだよ!

 普通の考え方! 普通雨の感情! 普通の普通の喋り方! 普通の人間!

 これでこそ普通の主人公だ!

 最高だねぇ、普通の主人公は。物語はこうでなくっちゃいけないんだよ。

 語り部冥利につきるねぇ。おっと、ついつい


「そんなことより……さっきから二人で何の会話をしているんだ? ちゃかすなら席を外してもらいたいんだが……?」

「え? 聞こえてんの?」

「そうだが?」


 あれれれ? そんなセリフあったっけ? いやいや、聞こえてるわけがない。

 きっと何かの気のせいだ。気のせい気のせい。


「おい、聞いてんだろ?」


 知らない知らない聞こえてない。


「おーい」


 物語が止まり始めたぞ、どうしたらいいんだ。なきそう(泣き)


「ずっときこえたぞ〜」

●……いや、無理か。聞こえてるよね、これは、絶対。詠嘆よ、何が起きてる?

「しらんな、イレギュラーだ。それより話しながらでも語り部を続けろ」

● 仕方ない……詠嘆のエクレツェアと話す俺の言葉に驚くキシヨだが……きみ、頭がおかしいとは思わなかったのかい? 僕は語り手だよ?

「今更何言ってるんだよ。ずっと聞こえてただろ」

● 君の周りにはどこにもいないこの私の声を、全く気が狂わずに聞いていたわけだね?

「生まれた時から聞こえていたけど、誰にでもあることじゃないのか?」

● いや普通ないって。


 うーん、うーん、なんで〜。なんでこうなっちゃうかなぁ。

 僕は普通に語り部がしたいヨォ。

 もうどうしたらいいかわからないヨォ! リプレイの時から働き詰だよ! 

 これ以上どうすればいいんだよ!


 え〜ん、え〜ん、え〜ん、え〜ん、もういやだぁ、こんな仕事辞めてやるぅ。


「すまん、俺がお前の声を聞こえてしまったばっかりに」

 え〜っへっへっへっへっへん。

「何も泣かなくても、今までずっと聞こえていたわけだし」

 え〜っへっへっっへっへっへっへっへっっへっっへっへっへっへっへっっへっっへっへっへっっへっっへっへっへっへっっへっへん。


「あれ? 笑ってるのか?」


● 泣いてんだよ! はっ倒すぞてめぇ!

● あと、●の付いてないセリフに話しかけるな!


 よしきが高らかと笑う、

「ハハハハハ、よかったじゃないかマルコ。話せて」

● いらんことは言わんでいい……。

 キシヨはお金の話に話を戻した。


「だがよ、俺は借金なんて知らないよ。任意で任された訳でもないし、めちゃくちゃ不当だよなそれ?」

「あら、気がついちまった?」


 詠嘆のエクレツェアは両手の上に顎を乗せて、にっこり笑う。両手を広げて大胆に言った。


「しかぁーし、それが通用せんのがこの俺様よ。借金回収率130パーセント。エクレツェアの金貸しといえば俺のことだあ!」

● 序盤で嘘をつくな! わかりづらくなるだろ!

「その1000エアってのはこの国でいくらだ? 今払っとくよ」


 すると、詠嘆のエクレツェアは小鼻を軽く膨らませ、視線の上を眺め始める。空で計算をざっと見積もると、視線を戻して金額を告げた。


「1000万くらいかな?」

「はぁ? 1000万? 俺はこう見えても公務員だぞ? そんな大金払える訳ないだろ!」

「むーー……」

「いや、そんな顔されても……わかった。じゃあ定期預金から持ってくっから待ってろ。今すぐだ、時間はかけさせない!」

● 預金に1000万も入ってんのかお前。

「むーー……」


 しかし、詠嘆のエクレツェアはまだ困った顔をしている。

 キシヨは疑問そうに、


「何が不服だ」


 詠嘆のエクレツェアは急に部屋を眺める。部屋は後ろの窓から入ってくる日差しが、壁の風景の油絵と黄色い花の入った花瓶をてらしていた。

 すると、急にうっとりし始める。


「……ああ、ほのかな太陽と部屋のカーペットの匂い。こういう匂いを嗅いでいると、懐かしの記憶が蘇る」


 ゆっくりと間を置いてから、尋ねた。


「……あのなぁ、そういう問題じゃないんだよ。お前はエクレツェアに行きたいんだろ? ならよ、お前の言うことは借金がどうのこうのじゃなくてさ、『俺をエクレツェアに連れてってくれ』だろ? 違うか?」

「う……」


 キシヨは思わず息を飲む。

 一方、詠嘆のエクレツェアは、唇の前で右の親指の爪を舌でこすると、とてつもない深さの集中に入った。


「お前、以外と冷静だな。何が言いたいかっていうと、自分にとって一番大切なことを放って、経済的な問題を先に解決しようとした。それはかなりさすがと言わざるおえないが、おまえら人間は愚かだなあ。いったい誰に似たんだか……」


 そう、キシヨにとって大切なのは詠嘆のエクレツェアが言った『一つ目』だ。その意味をキシヨはまだ理解できていない。


「なら教えてくれよ。キシヨになってから一年ってどういうことだ?」

「じゃあ、お前。エクレツェアに来い。そうすればわかるさ」

「……それはできない」

「なぜだ?」


”きみ、ナニをはぐらかしているんだい?”


 キシヨは尋ねられたが、それがなぜなのか、キシヨ自身も自ら深く考えたことはなかったようだ。


「何でって……わかるだろ? 俺には仕事がある。仕事を任せては行けない」

「やめようと思っていた仕事をか?」

「う……」


 キシヨは言葉を濁す。やるせない思いを片手に、その言葉が図星であることを同時に直感した。


”おいおい、とこ場を濁している場合じゃないだろう!”


 見かねた詠嘆のエクレツェアは、両手をグンッと胸を広げて、


「いいじゃねぇか。もうこの国は不自由な国ではないんだ。国の民は、やりたい仕事を目指すことができるはず。そして、それは住居にても同じ。お前が政府の仕事を辞めたって、いくらでも代わりがいるってもんだよ。世の中にお前がいなくたって世の中はへとも思いやがらねぇぞ? それならさ、自分のやりたいことやってもいいんじゃないか?」


 キシヨは言葉に胸を打たれてしまった。よくよく考えてみれば、戦っていた時に自分がいなくなれば、簡単に敗北していたかもしれない。あの時は、自分が重要な歯車だったのだ。


”キシヨ! 僕たちは一緒に極東を守るって決めたよね!?”

”はぐらかされちゃいけない!”


 だが、今やキシヨは重要な歯車ではなくなっていた。もうこの世界では、彼を必要としている人間がいない、そう思うしかなかった。


”だが、それでもキシヨがエクレツェアに行く理由にはならない!”

「俺はリーダーだぞ! そんな無責任なことができるか!」


 クソ、イレギュラーめ。

 キシヨの頭に響く太一の声は彼に厳しく。自由な決断など一切を否定するようだった。

 キシヨの罪悪感がそう言わせているのか、はたまた『過去のあの事件』が精神に異常をもたらしたのかはまだ判断しかねるがな。


 怒ったキシヨの両手は行儀が悪く。気がつけば机を両手で叩いて、詠嘆のエクレツェアに怒鳴りつけていた。

 自分がこんなに気の短い男だとは思いもみなかった。数秒後に困惑する。驚いて目の前から視線を外した。一気に罪悪感に見舞われる。


 だが、それにひるむ様子もなく、詠嘆のエクレツェアは冷静に、


「なら、なんでお前はエクレツェアに行きたいなんてことを言ったんだろうな?」

● 結局図星なのである。

”貴様ら大概にしろよ!”

 少し黙ってろ。


 今のキシヨは自分のやりたいこととは違った世界で生きていたのだ。それくらい、とうの昔からわかっていたことだ。


 詠嘆のエクレツェアはまるで昔の自分を見たように深く息を吐く。過去の自分ならどうしていただろうか、そんな空想に想いを馳せて苦笑った。すると、仕方なさそうに一言だけ言ってやる。


「ま、好きにすればいい。お前のやりたいことをやればいいんだよ。この仕事を続けたければ続ければいいし、やめたければやめればいい」


 そう言って詠嘆のエクレツェアは、体をスイングさせて椅子から立ち上がると、書斎から出ていこうとした。


 するとその時、誰かがドタバタと書斎まで走ってくる。



「大変ですっ、隊長! マリ様が攫われました!」

「なっ……!」


 駆けつけたのはスーツ姿の部下だ。汗をかいた部下は、ネクタイを乱したまま、慌て形相だった。

 キシヨもあまりに突然の出来事に言葉を失った。

 部下が状況を報告する。


「この建物も襲われています!」

「なんだって!」


 キシヨはようやく言葉を取り戻した。自分の机の資料をどかせて、机の板を上に開ける。机の液晶画面に建物内部の様子を、映し出す。


『ギガァー!』


 キシヨは目を疑がった。そこに映し出されていたのは、白い石膏のような化け物が、場の人間を蹂躙している姿だ。


「バカな……何が起こっている?」

「あー、『ガーゴイル』か」


 急にキシヨが振り返る。今、呟いた詠嘆のエクレツェアの胸ぐらの黒い装飾を掴んだ。


「何か知っているのか……? 教えろ!」

「おいおい、冷静になれよ。俺は何も関与してないぜ。手ぇ離せ」


 キシヨが手を離すと、隊員に指示を出す。


「今すぐ駆けつける! それまで防衛体制を取れ!」

「もう防衛体制取っています! ですが化け物に銃弾が効かないんです!」

「なら今すぐ逃げろ! 俺が駆けつけると言っているだろ!」


 その時、詠嘆のエクレツェアが失笑した。


「フフフフッ」

「——何がおかしい!」


 キシヨが笑っている詠嘆のエクレツェアを睨みつける。それでも、詠嘆のエクレツェアは動じず、悠長な顔はふてぶてしいことこの上ない残骸だ。


 隊員はそれどころではないと口を開けるも、キシヨの怒りに横槍を入れる勇気はなかった。


 詠嘆のエクレツェアは一言。


「駆けつけとる場合かっ」


 キシヨは自分の机に、ガシャン、と拳を振り下ろす。


「何が言いたいんだっ!」


 すると、詠嘆のエクレツェアは途端に何かを指で捕まえる。それは彼が発想を得た時の合図だ。思いついた作戦を元に、隊員に尋ねた。


「この施設内に『フィガー』を使える人間は何人いる?」

「さ、三人です。隊長を入れれば四人」

「よし、今から俺とキシヨはそのマリって奴を探しに行ってくるから、フィガー使用者をガーゴイルの所に集めておいてくれ。それで十分対処できるだろう」


 キシヨはそういう詠嘆のエクレツェアの腕を掴む。


「何を勝手なことを!」


 だが、詠嘆のエクレツェアは、お返しとばかりにキシヨの首根っこを掴んだ。


「いいか? 敵は誘拐が目的だ。それも天皇をお前の手の届かない所まで連れて行く算段だ。だからこそ、この施設を攻撃して誘導した。今すぐ追いかけないと手遅れになるぞ?」


 的確な推測にキシヨは頷くしかなく、冷静さを取り戻す。

 一方、隊員は慌てて、


「でもマリ様がどこにいるかわからないですよ!」


 詠嘆のエクレツェアは、人差し指を顎に当てて、少し顔を横に振った。ぶりっ子はやめてください。


「それには心当たりがあるんだなー、これが。なにせ『ガーゴイル』はエクレツェアのもの。多分俺が来た穴からこの世界に入ってきたんだろうからな」

「穴……ですか?」


 しかし、キシヨはその発言にエクレツェアへの信憑性が湧く。

 詠嘆のエクレツェアに詰め寄ると、


「じゃあそこに連れてってくれ! 今すぐ追いかける!」


 詠嘆のエクレツェアは、部屋のクローゼットの前に立つち、当たり前のように扉を開ける。中身の匂いを嗅いで「掃除がされてない」と感想を述べる。そのまま、姑のような小言を始めた。


「クローゼットは掃除しないと、旅の神様に申し訳」

「何をしてる、早くしろ」

「知らないのか? クローゼットは旅の扉。異世界では常識だ。行くぞ?」

「ちょ、ああ!」

「世界一埃だらけの旅立ちだ」


 すると、詠嘆のエクレツェアはそのまま重力に任せてクローゼットの中へと、キシヨを引きずりこんでしまいました。声とともに二人はクローゼットの中へと消えてしまいましたとさ。めでたしめでたし。


 その場に隊員だけが残されて、

「一体どうなってるんだ」

 部下は言われた通り指示を出しに行った。

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