第3話

 それからはどうやって一日を過ごしたか覚えていない。

 気が付くと自分の部屋で立ち尽くしていた。足元には音楽プレーヤーの残骸。なにか金槌のようなもので殴られたのか、塗装が剥げたボディーが大きくひしゃげている。

 あれ、壊れてるや、これ。ひどいことするなあ。誰がやったんだろう。あ、そうかこれ僕か。まあ仕方ないよな。

 ―――――――――!

 かみしめた奥歯がギリギリ嫌な音を立てる。きつく握りしめた手のひらに、指の爪が食い込む。だけどそんなこと気にしちゃいられない。

「勉強……しなきゃ……。」

 勝てない僕には価値はない。両親の言っていたことが今、理解できた。

 。だから勉強以外では他のゴミに勝てない。勉強で勝てない僕はただの何もできない一般人ゴミクズだ。

 ふらつく足取りで机に向かう。振るえる指先で参考書を開く。焦点の合わない目で文字を見つめる。凍り付いた脳みそで内容をインプットする。

 インプット。

 インプット。

 記憶をデリート。

 参考書をインプット。

 インプット。

 インプット。


 気が付くと、部屋の真ん中で倒れていた。

 手はドアに向かって伸ばされ、脚は机の方に向いている。そうか、僕はどうやら部屋を出ようとしていたらしい。あらかたトイレにでも行こうとしていたのだろう。

 立ち上がるため腕を動かそうとした瞬間、針で刺すような鋭い痛みが全身を走る。

「うぐっ……」

 うめき声をあげて床に再びうつぶせになる。と、その衝撃でまたも痛みが走る。

「ぐ………邪魔だな」

 言うが早いか、


 デリートしますか?

 Yes。


 その瞬間、今まで体中を這いずり回っていたうっとうしい痛みが、まるで霧が引くかのようにすっと溶けて無くなっていく。

 それと同時。今までずっと感じていた、まるで重りを付けられていたかのような感覚が四散する。いつもよりもずっと、自分の体が軽く感じられる。

 眠気や疲れも消え去り、脳みそが一瞬で冴え渡った。

「ふはっ……最っ高……!」

 アキヒサはその勢いのまま机に向かうと、冴え渡った頭をフル回転させて、参考書の内容を淡々と記憶していく。

 インプット。

 インプット。

 インプット。

 インプット。

 インプット。

 インプット。

 インプット。

 インプット……



 *



 アキヒサの母、晴子が起きるのはいつも五時半。アキヒサのお弁当を作り、夫とともに二人で食事をとった後、アキヒサの分にラップをかけて保存しておく。洗濯の合間にそそくさと食器を洗い、洗濯物を干してから夫と共に車で出勤する。この間、わずか一時間半。常に時間ぎりぎりで、何かに気づく余裕のない日々。アキヒサよりも早く家を出て、アキヒサよりも遅く家に帰る。

 、アキヒサが部屋から出てきていないことに。

 ――――――。

 次の日も。次の日も。


「インプット、インプット、イン……」

 プット、と小さくつぶやいて。

 アキヒサは一瞬痙攣したかと思うと、突如支えを失ったかのように机に突っ伏した。

 その体はもう二度と動かなかった。


「はい……よくわかりました。本人に確認を取ってみます……」

 その日の夜、受話器を置いた晴子は、深いため息を一つ吐くとアキヒサの部屋を目指して階段を上がっていった。

 …数秒後、血相を変えて階段を駆け下りてきた晴子は、再び受話器を取ると震える手で119を押した。だがうっすらと解ってはいた。息子はもう帰っては来ないと。



 *



 来春明久。享年十六歳。自宅にて突然死。

 死因・思春期症候群に伴う痛覚断絶による過労死。


 明久の葬式にクラスメイトは誰一人としてこなかった。

 両親の心にも、悲しいという気持ちは全く湧いてこなかった。

 彼は最後まで誰にも愛されなかった。

 だがしかし。彼の死をきっかけに、思春期症候群という新病が世間に認知され始める。今まで不審死として取り扱われてきた事案が、思春期症候群の登場によって一気に解決される。思春期症候群用の対策研究センターが設置される。数年後ついに治療方法が発見される。だがこれはあくまでも対症療法であり、治療薬に関してはもっぱら研究中である。

 また、思春期症候群の発見によって、若年層の間の不審死の数は激減した。若年層の間に思春期症候群が認知され、予防に尽くすようになったのだ。



 医師になるための彼の努力は、図らずとも報われたのである。

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サクリファイス 小さな巨神兵(S.G) @little

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