心に届く、心に届け

ないに。

心に届く、心に届け






「」




 何かが聞こえたような気がして、愛加里あかりは背後を振り返った。

 通勤途中の駅の構内は相変わらず人でごった返していて、冷房がきいているはずなのに空気はむんとして重苦しい。

 夏だから仕方がないと思う一方で、早く夏が終われば良いのにと思ったりもする。

 学生時代は夏が来るのが楽しみだった。

 夏休みはいつも希望と期待に満ちていて、持てあました暇を予定で埋めることに夢中だった。

 社会人として働く今は、冷房のきいた室内で過ごすことが多くて、気がつくと夏が終わっていることが多い。




「」


「」




 まただ。

 今度は、二回聞こえた。

 誰かが何かを言っている。

 それもたぶん、愛加里に向かって。

 でも誰が、何を?



 声がした方向にぼんやりとあたりをつけて、愛加里はそこを凝視した。

 人と人の間をすり抜けて行った先に在るのは、駅地下を支える支柱の一つだ。

 どうしてそこが気になったのかはわからないが、間違いなくそこなのだと感じた。だから、凝視する。

 するとあれだけざわついていた構内の音が潮が引けるように遠ざかり、気がつくと愛加里は一人になっていた。

 なんだか知らないが、異常なことが起きているのは間違いない。

 愛加里は握り込んだ手に汗をかいているのを自覚する。

 緊張に身体を強張らせた。




「」




 声が、聞こえた。

 そしてふいに、愛加里は理解したのだった。

 

 ――あれは、私だ。


「告白しなさい! 迷わなくて良いの、絶対に告白するのよ!」


 愛加里は、力の限り叫んだ。

 これは、とても重要なことだった。

 もしも高校生の愛加里がアドバイスを綺麗さっぱり忘れてしまったならば、愛加里はきっと一生後悔することになるだろう。




「」



 

 最後にまた何かが聞こえて、途切れていた喧騒が戻ってくる。

 急激に押し寄せる現実を前にして、愛加里はしばし立ち尽くした。


 高校生だったあの頃、愛加里は思春期症候群だった。

 思春期症候群の症状は様々にあって、愛加里の場合は自分の周りの時間が混乱するというものだった。


 今日かと思えば実は明日で、明日は去年で、明後日は遥か未来だったりした。

 あの頃の愛加里は疑心暗鬼の固まりでしかなく、過去も未来もわからずに、ただ必死に現実を生きていたように思う。

 仕方がないことだったとはいえ、家族にどれだけ迷惑をかけたのかははかり知れない。

 そんな愛加里の思春期症候群は、ある日を境にぱたりと治まり、愛加里は無事に日常を取り戻すことができたのだ。




 愛加里は愛用のショルダーバッグからスマートフォンを取り出して、アプリを起動した。

 そうだ、今夜はカレーにしよう。

 晩ご飯をカレーにすることを、愛する夫に伝えよう。

 夫の好物を作るのは愛加里の楽しみの一つで、それは結婚してもうすぐ十年が過ぎようとしている今も変わらない。


 あの日、高校生だった愛加里は大好きな先輩を駅の構内で待ち伏せていた。

 ままならない時間軸に翻弄されてみっともなくも半泣きになり、何処からか聞こえてきた声に励まされて、そうして愛加里は彼へとたどり着いたのだ。

 あたふたしたながら告白した愛加里を同じようにあたふたしながら受け入れてくれた彼は、やがて愛加里の夫になった。

 そう、思い出の場所とはまさにあの支柱の前だったのだ。



 今年もまた暑い夏が終わろうとしている。

 思い出の夏が。

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心に届く、心に届け ないに。 @naini

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