第6話 二人きりの時間

 翌日の放課後、桜井君からメッセージが届いた。ちなみにチャットIDと電話番号はあの後、桜井君の巧みな話術で気付けば自然と交換していた。……あの口の上手さに勝てる気がしないのはどうしてだろう。


「何の用なんだろう……」


 詳しいことは何もなくて、ただ一言“別棟の三階に来て”とだけ書かれていた。

 ブツブツと文句を言いながら、でも、協力してくれると言っていたわけだからもしかしたらたもっちゃん絡みかもしれない……そう思うと、自然と足取りは軽くなり、普段は足を踏み入れない別棟の階段を小走りで駆け上がっていった。


「あ、来たね」

「何の用なの……?」

「分かってるくせに」


 ニッコリと笑うと、桜井君はいくつか並ぶ準備室の中の一つを指差した。


「あそこがどうかしたの……?」

「今、中に藤原先生がいるよ」

「え……?」

「さっき階段を上って行くのが見えたから、つい追いかけちゃった」

「ついって……」


 つい、で先生を追いかけるものだろうか……。

 けれど、私の疑問なんて特に気にも留めることなく、桜井君は話を続ける。


「で、さ。今あそこ先生一人っぽいんだよね」

「え……?」

「ってことで……失礼しまーす」


 状況についていけない私を放置して、桜井君は資料室のドアを開けた。


「あれ? 確か……A組の桜井、だよな?」

「はーい、こんにちは」

「こんにちは。一人か? どうした、こんなとこに」

「先生こそ何をしてたんですか?」

「ん? 俺はここの整理を頼まれてね」


 たもっちゃんの、声がする……。

 どうしたらいいか分からず、その場から動けないでいると……中から私の名前を呼ぶ桜井君の声が聞こえた。


「そうなんですね。僕らは藤原先生が入っていくのが見えたんで何してるのかなーって思って。ね、新庄さん」

「新庄……?」

「こんにちは……」


 ドアから中を覗き込んだ私の姿に、たもっちゃんは一瞬驚いた顔をしたけれど、ニッコリと笑った。


「こんにちは。どうした? 何かあったのか?」

「う、ううん……そういうわけじゃない、んですけど」


 ぎこちなく話をする私に、桜井君は小さくため息をつくとしょうがないなと呟いた。

 そして、


「あー!」


 と、突然大きな声を出した。


「っと、ビックリした。急にどうした?」

「新庄さん、ゴメン! 俺用事があったんだ!」

「え、あ……そうなの? じゃあ……」

「すぐ戻ってくるからここで待っててくれる?」

「え、えええ!?」

「すぐだから! 先生ここの整理してたみたいだから手伝ってたらいいんじゃないかな? じゃあ、ちょっと行ってくるね!」


 そう言ったかと思うと……桜井君は資料室から走り去ってしまった。背負っていた鞄を机の上に置いたまま。


「…………」


 どうしたらいいんだろう……。たもっちゃんと二人きりなんて、久しぶりで……何を話せばいいのか分からない。

 ガタッという音がして、たもっちゃんがこちらに近付いてくるのがわかった。


「っ……」


 顔を上げられないでいる私に、たもっちゃんは優しく話しかけてくれた。


「……それじゃあ」

「っ……」

「桜井が帰ってくるまで、手伝ってくれるか。……美優」


 たもっちゃんは、優しく笑うと当たり前のように私の名前を呼んだ。

 そう呼ばれるのは、いつぶりだろう……。

 嬉しくて、照れくさくて、頬が緩むのを必死で抑える。


「……うん、わかった」


 何でもないふうを装いながら小さく頷くと、たもっちゃんから渡された書類をひとまとめにしていく。どうやら古くなってしまった資料の綴じ直しをしていたらしい。


「先生ってこんなのもするんだ……」

「そうだよ。みんなが使うものも使わないものもあるけど、必要になった時に使えないんじゃ意味ないからな」

「へー……たもっちゃん、先生みたい」

「先生だよ」


 持っていた資料で私の頭を小突くと、たもっちゃんは笑う。

 その笑顔があまりにもいつも通りでホッとする。

 あんなに不自然な態度を取っていたのに、こうやって普通に接してくれるなんて、やっぱりたもっちゃんは大人だ。


「そういえば」

「え……?」

「久しぶりだな、こうやって話しするの」

「あ……うん」


 たもっちゃんの言葉に、顔を上げると……困ったように笑うたもっちゃんの姿があった。


「思春期なのかなーとか反抗期か? とかいろいろ考えたけど……美優にあんな態度取られてショックだったんだぞ」

「っ……ごめん、ね」

「もうあんなことするなよ? 美優に嫌われたかと思ったんだからな」


 悲しそうにたもっちゃんは言う。……こんなたもっちゃんを今まで見たことがあったっけ? こんなふうに、切なそうなたもっちゃんを……。


「あの……」

「……ん?」


 これは、本当にチャンスなのかもしれない。桜井君のお膳立て、というのはちょっと気にかかるけれど、でも今ここで素直にたもっちゃんのことが好きで照れくさくてそっけなくしていたと、そう伝えられたら――。


「あの、ね……! あの……私……っ」


 でも、私のそんな思いを打ち砕くように――たもっちゃんは言葉を続けた。


「もしかして、さっきの桜井の影響?」

「……え?」

「あいつだろ? 美優のこと好きな奴って。俺のところまで聞こえてきたぞー」

「あ……」

「桜井と付き合うようになって、ちょっと落ち着いたとか? だったら、俺寂しいー!」

「違うよ……」


 たもっちゃんはわざとらしく泣き真似なんかしながら、またまたーとおどけて言う。


「照れるなって! はー、でもあの小さかった美優に彼氏かー。俺もおっさんになるはず……」

「違うってば!!」


 ふざけてばかりにいるたもっちゃんに、私は――思わず怒鳴りつけるようにして叫んでいた。


「……美優?」

「桜井君は彼氏なんかじゃない!」

「そう、なのか……?」

「そうだよ! 私が……私が好きなのは……!」


 必死に、たもっちゃんを見つめる。でも、口を開こうとすると――それよりも早く、涙が溢れてきた。

 言葉に、ならない。

 気持ちを伝えたいのに、誤解なんかされたくないのに、口から出てくるのはヒュッという空気が喉を通る音だけで……。


「泣くなよ。俺が、悪かったって……」


 たもっちゃんの手が、私の頭に触れる。

 でも、その態度が――まるっきり年下の小さな子供にするような扱いで……。


「触らないで!」


 思わず、その手を振り払ってしまった。


「美優……?」

「子ども扱いしないでよ! たもっちゃんに、そんな扱いされたくない!」

「お、おい……!」


 何かを言おうとしながら、たもっちゃんが私に手を伸ばしたけれど……その手をすり抜けるようにして、私は資料室を飛び出した。


「っ……!」

「新庄、さん……」


 廊下には心配そうな表情をした桜井君がいたけれど……何かを言う気にもなれず、私は視線を合わせることもなくその場から走り去った。


「っ……」


 涙で前が見えなくなる。


「あっ……!!」


 気が付くと、私の身体は宙に浮いて……次の瞬間、地面に倒れ込んでいた。


「痛い……」


 起き上がらなければいけないのに、起き上がれない。

 どこが痛いのか分からないぐらい身体中のあちこちがいたい。

 ううん、身体だけじゃなくて……心も、こんなにも痛くて辛い……。

 でも何がこんなに辛いのか、わからない。

 あんなふうに怒鳴りつけたりせず、普通に違うよって否定すればよかった。

 桜井君は友達だよって言えばよかった。

 ただ、それだけなのに……。


「たもっちゃんの、バカ……」


 ――こんなにも辛いのは、きっと気付いてしまったから。

 たもっちゃんにとって私は、相変わらず小さな幼馴染のままで。

 恋愛対象としてなんて、これっぽっちも見られてないってことに。


「バカ……」


 これからどうすればいいんだろう。

 身体を起こすと、膝から血が出ているのが見えた。

 痛みに必死に耐えながら、私は家への道のりを、一人とぼとぼと歩き始めた。

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