10th NUMBER『信じてもらいたい』


 時刻は二十二時頃。もう深夜と言える時間帯だ。


「こんなの上に知れたら職権乱用に問われるかも知れんぞ」


 相澤の勤める大学の研究室にやってきたところで、僕の指に彼女の口内上皮細胞が残っていないかの検査を頼んだ。今なら思い出せる。顔を洗う以前にも一度手を洗っていた。


 残念ながら髪の毛は一本たりとも見つけることは出来なかった。望みは極めて薄いのだろうと知りながらも……


「大体その行方不明っつー彼女のDNAが見つかったところで、彼女の家族とか面識あるんか」


 僕は黙って首を横に振る。そして弱々しい声で告白する。



「……生徒、だから。本当は駄目だったから」



「!? なんじゃお前、生徒に手ェ出しちまったんか!?」


「…………」


「はぁ……マジで言ってんのかよ……」



 相澤はごつい指先を額に宛てがい長いため息を零しているんだけど、僕は僕で抜け殻状態だった。どれだけ咎められようがもう何も返す言葉が無い。



「おめぇの人畜無害っぷりはな〜んか危ういとは思ってたけどな。力加減がわからんだけに、たがが外れたらどうなるのかもわからんっちゅーか」


 呆れたような気怠い声だけが耳に届いていた。そのときふと、大きな影が僕に迫る。


 ゆらりと顔を上げると相澤が凄く悲しそうな表情をしていた。歳を重ねても相変わらず男らしくがっちりとした顔。だけど今、彼は太い眉をぎゅっと中央に寄せている。



「すまんかったな、磐座。辛いときに気付いてやれなくて」


「こんなに離れてるんだ。僕も言わなかったし、気付く方が無理だと思うよ」


「だけど俺はおめぇの友達じゃ。忙しさにかまけてろくに連絡も返さんかったのは俺の方……」



「ううん……違う、違うんだよ、相澤。僕が馬鹿だったんだ! 本当はこんなことしたって意味は無いってわかってる! 我儘……言って、ごめんね……うぅ……」



 肩を震わせて嗚咽する頃、相澤の影が確かな実体となって僕の痩せた身体を包み込んだ。




 結局のところ、僕はもう限界だったのかも知れない。愛してはいけない人を愛してしまった苦悩、犠牲を伴わねば自由は手に入らないと知った、それ故の苦渋の決断。


 だけど彼女は頷いてくれた。やっと少しだけ未来への希望が見えた気がした……そんな矢先に彼女が失踪した。


 自分一人が痛い目を見るなら自業自得と思えただろう。だけど何故彼女が消えねばならないんだ。一体何があったと言うんだ。


 ……こんなの、あんまりだ。




 気休めばかりの採取を終えて大学を後にした。鑑定結果は後日相澤が連絡をくれるそうだ。


 ビジネスホテルに泊まる気でいたけど、相澤はうちに来いと言ってくれた。お言葉に甘えて向かっているところなんだけど、既に頭がクラクラきている。例え夜でも名古屋の路上はやっぱり暑い。


「磐座、明日休みでええんか?」


「うん、連休中だから」


「そうか、ほんならある程度飲めるな」


 帰り道のコンビニで缶ビールの六本入りケースを一つ購入。飲み足りなかったら相澤宅にストックがあるらしい。


 我儘を聞いてもらった上、家に泊めてもらうんだ。奢らせる訳にはいかないと僕は素早くクレジットカードを出した。相澤が律儀なやっちゃのう、と言って苦笑を浮かべる。



 幸いと言っちゃ悪いのかも知れないけど相澤は一人暮らし。恋人は居る……と思うんだけど、何せ恋多き男だから僕が前に聞いた女性で合っているのかはわからない。


 ともかく相澤の暮らすマンションに着いた。ここからはもう完全に友人同士の時間だ。


 きっと僕のとは違う男っぽい匂いの部屋。ベッドに放ったままの寝巻きとか生活感丸出しなんだけど嫌気なんて感じない。むしろ独りじゃないと実感できて、心細さが少し癒えてくるくらい。



「なぁ、俺思ったんだけどよ、おめぇの彼女ってやっぱ自分から姿を消した可能性が高そうじゃな。おめぇの足手まといになりたくないと思っ……」


「そんな、足手まといだなんて!」


「まぁ、聞けよ。賢い子なんじゃろ? おめぇが駆け落ちまで考えてると知ってさすがにヤバイと思ったんじゃねぇか? 学校の教授や男子生徒が彼女を知らんと言ったのも口裏合わせかも知れんぞ。もちろん関係は伏せたままじゃろうな。ほんならこう推測するのはどうじゃ」



 テーブル越しに向かい合う僕は二杯目で既にクラクラきてる。だけど興味の対象は相変わらずナツメ一色だ。ぐい、と身を乗り出す僕へ、相澤は缶ビールを一口あおってからその推測を語ってくれた。



 “私が一方的に片想いをして先生に迷惑をかけてしまいました。学校も辞めることにします。先生から何か聞かれても、私が最初から居なかったことにして下さい。それで先生も、私が諦めたんだと察してくれると思います”



「……と、こんな具合にな。ん〜、なぁんか回りくどいやり方のような気はするが、多分おめぇの迷惑にならんようにと彼女なりに考えて」


「迷惑なんかじゃないッッ!!」



 タァン! と空き缶をテーブルに叩き付けた僕にさすがの相澤も目を丸くする。水っぽく感じる鼻を啜ると鼻腔から涙腺へ逆流したみたいにぶわぁと溢れ出す、大量の涙。



「僕は、ナツメと出逢えて幸せだった。切なかったけど、それ以上に愛おしかった。駄目だとわかってても終わらせたくなかった! 僕は、僕は……っ!」


「じゃけぇ、落ち着け言うとるじゃろ。磐座、おめぇだいぶ酔っとるな」



 相澤の言う通り、僕はだいぶ酒に飲まれてしまったらしい。視界はぶれて定まらず、重い頭は不安定に揺れ、だけど倒れる訳でもなくただひたすら嗚咽が続いている。


 やがて相澤がグラスに注いで持ってきてくれた冷水で少しだけ落ち着いてきた。少しだけ息が整った、そんなとき。



「なぁ、磐座。その彼女って、ほんまに……」



 何か言いかけた相澤が一度口を紡ぐ。そして再び僕に言う。



「ほんまに辛くてどうにもならんかったら病院に行けよ」


「相澤……」



「教職員が病むのはなんも珍しいことじゃねぇ」



 僕は、返事出来なかった。


 動かない身体の中で焦燥が走り出す。


 相澤の言いたいことがわかってしまった。



 僕の部屋にも学校にも彼女の痕跡は無かった。綺麗に消えていた。


 唯一残ってるのが僕の小指に刻まれた歯型だけ。だけどそれだって信じてくれる者はいない。



――あきせ……それは生徒のことか?――


――あきせ……さん? 女子ですか?――



――すまんが、俺は覚えが無いな――


――すみません、俺の知ってる子じゃないです――




――なぁ、磐座。その彼女って、ほんまに――



 『存在したのか・・・・・・



 相澤も多分疑い始めている。


 ああ、どうしよう。どうしよう。



 このままじゃナツメが幻にされてしまう……!




「いや……だ……」



 そこでやっと僕の意識が遠のいた。酒に溺れ、感覚という感覚を麻痺させて眠りにつく……そんなに飲む方でもなかったのに、妙に懐かしい気分だった。




 久しぶりに友人と会って話を聞いてもらって、全く気が晴れなかった訳じゃない。独りで居るよりかはずっと救われたんじゃないかな。


 一方でふと思った。もしかすると相澤はDNA鑑定なんてする気は無いかも知れない。


 あいつにだって立場がある。職場に無断で、しかも話に聞いただけの女性について調べるだなんて、冷静に考えてみればそう易々と引き受けるとは思えない。あまりにも取り乱していた僕をなだめる為だったのかも。


 だとしても、煙たがらずに最後まで話を聞いてくれた。僕は相澤に感謝してるよ。



 翌日、名古屋から横浜へ戻った。元々連休だったけど、僕は更に有休を使うことにした。体調不良ということにしてある。特に僕の狂ったような振る舞いを目の当たりにした柳沼教授と荻原くんからしたら納得の理由かも知れないな。


 僕は帰ったその日は家でぐったり休んでいたけど、翌日からは何度か街へ足を運んだ。誰かに会ったら病院帰りとでも言えばいい。とにかく手がかりが欲しかった。ナツメをこのまま幻にしない為に必死だった。


(住所くらい聞いておけば良かった)


 悔やんでももう遅い。彼女は僕のことを知りたがる割に自分の話はほとんどしなかったんだ。海外育ちで、ほんの一時期広島に居たくらいの情報しかない。“現在”に関する情報が足りなさ過ぎる。



(お願い、みんな、彼女を忘れないで。忘れないで……!)



 切なる願いを込めて。勿忘草の栞は必ず持っていった。



「なんかヤバくね? あのトラック……」


「居眠り運転じゃねーだろうな」



 だけど願いだけが原動力で宛ては無いもんだから、ひたすら歩き回るしかなくて。



「は!? やべぇ、突っ込んでくるぞ!!」



「危な……!」



「きゃあぁぁぁ!!」




 キキィィィィィ……!!





――ナツメ。



 ねぇ……何処に居るの?




 白昼の横断歩道で信号待ちをしていた僕は、自身に迫り来る脅威にさえ気付かなかった。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 君に逢えたらなんて言おう

「ごめんね」って

 僕はすぐに言ってしまいそうだけど

 これじゃあ何に対する詫びなのかもわからない


 だって 僕は君が消えた理由がわからない

 僕の考え方が重かったのか

 背徳の関係に耐えきれなかったのか


 だから 君に逢えたらこう言おう

「ありがとう」って

 僕の元へ帰ってきてくれてありがとうって言おう

 無事でいてくれてありがとうって言おう


 多くを語らず ただ抱き締めよう

 僕らの心に真の安らぎが訪れるまで


 君に逢えたら伝えよう

 僕は絶対 諦めない



 もう一度


 君に逢えたら


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る