第8話

 阪原の元に遣いが来たのは秋の暮れであった。

 


「駿府……」


「如何にも」


 書状を持った裃の役人が阪原を見据え、小さく唸った。


 阪原は震え上がった。

 当時の駿府城は天領である。そこからの報せとあれば余程の事態。身に覚えといえば、あの日伊勢を裏切った事ぐらいだが、左様な小事ならば奉行所から役人がくるはずである。幕府直轄の城からわざわざ文など寄越すはずがない。それにもうあれは過去の話である。わざわざ蒸し返されるとは考え難い。では、いったい何事か……


「では読み上げる……」


 うなずく阪原は息を呑ち、役人から発せられる声に耳を傾けた。

 淡々と読まれる書状の内容は、簡単にいえばこのようなものであった


 天下無双と謳われる千葉一心流の業前を見たい。相手を用意した故、駿府の白砂にて立会いを求める。また、これは真剣を用いて行う。


「いかがかな?」と、変わらぬ顔で役人が問うと、阪原は「いかがもなにも……」と渋とした態度を見せた。

 しかし内心は違う。阪原の胸の中では、今すぐにでも支度をし、早馬を走らせ駿府へと参上したいと思っていた。

 だが、このご時世に真剣での試合とは随分な沙汰。尾張への義理があるし、何より対面がある。如何に将軍家所縁の地といえど他藩は他藩。そこに命ぜられ、「喜んで」と二つ返事を返すはあまりに薄情である。素ぶりだけでも、意地と、尾張への忠義を見せなくてはならなかった。


「案じなさるな。其処許はただ千葉一心流を振るえばよいだけ」


 察したかのように役人がそう口にする。というより、この一連は形式のようなものであり、言わば茶番なのであるが、建前で生きる人間にとってなくてはならぬ儀式なのである。


「……で、あれば、是非もなし、恐れ多くも将軍家のお膝元に招かれたとあらば、参らぬわけには行きませぬ」


 ここでようやく阪原が笑みを見せる。だが、笑い慣れぬ為かそれは歪な微笑となって現れ、周囲の者達は些か困惑したように咳払いなどをして場を持たせた。


「して、お相手は? まさか、型を見せて腕を示せというわけでは御座りますまい」


 その空気を察し、阪原は口を開いた。顔の形はすっかりと元どおりである。


「左様。だが、彼の者の姿は登城してからご覧いただきたい」


「……それは異様なお申し出」


「相手が分からねば斬れぬか?」


 挑発である。役人が発したこの言葉は失言に近い。言を濁し誘うは、此度の立会いが尋常ならざるものであると言っているのと同じである。

 真剣にての立会い。相手の素性が不明。これでは人ではなく、闘犬の死合い。だが。


「……千葉一心流は合戦の技。即ち、有象無象を斬る技にございまする」


 阪原は逃げるわけにはいかなかった。千葉の跡を継いだ以上、その名を汚す事は許されないのである。



「それでは、然る日に改めて参る故、今日の所はこれで……」



 言質を取った役人は、形だけ頭を下げると、飯と宿を用意をするという阪原の申し出を退け早々にその場を後にした。


「駿府か……」


 未だ立ち尽くす阪原はごちると、腰の物を抜き一閃を魅せた。抜刀から刀を振り切るまでの速度はまさに神速であり、常人の目では見切れぬ業前である。


 剣技の冴えは落ちていない。

 稽古をつける合間に鍛錬は続けている。

 此度の立会い。上手くいけば、江戸への士官に繋がるかもしれぬ。


 この時阪原は舞い上がっていた。我を忘れ、皮算用に浮かれていた。


「果たして誰が俺の剣を受けられようか」


 切っ先を見つめる阪原はそう自惚れた。事実、この男を打倒する人間など世に数える程しかおらぬだろう。それは揺るぎない事実であり真実である。しかし、安穏とした生活は阪原から嗅覚を奪った。千葉が殺された夜に発揮した、血を嗅ぎとる能力が失せていた。


 阪原は忘れていた。


 駿河が誰の故郷であるかを。


 そして、その者の行方が、未だ明らかでない事を……

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