第7話

「なぜ殺した」


 阪原の一言に、伊勢は困惑する。


「ち、違う! 俺じゃ……」


「なぜ殺した!」


 阪原は腰の物を抜き上段に構えた。五間。阪原と伊勢の実力ならば、十分な距離である。


「俺じゃない!」


 伊勢の雄叫びは慟哭となり月夜にこだました。それは罪なき罰を受ける咎人の咆哮であった。


「人殺しめ!」


 伊勢の声をかき消すような阪原が叫びが市中に響く。


「信じてくれ! 俺は……」


 伊勢の声から落涙の気配がした。この男が泣いた事を阪原は今まで見た事がなかった。今まで忍び、ようやく人として生きられ、そして、一介の剣士として輝かんとする男の涙に阪原は若干の狼狽を見せた。だが。


「なんだなんだ」


「人殺しだってよ!」


 二人の声に、野次馬が集まりだした。


「阪原……」


「……」


 僅かな間に、二人の心は伝播し通じあった。阪原は伊勢の無念を、伊勢は阪原の嫉妬を感じ取った。両者の間に、分かち難い思念の壁ができあがっていた。


 伊勢は阪原に一度だけ目をやり彼方へ消えた。もはや何を言っても自分が犯人に仕立て上げられると直感したのだろう。


 その判断は正しかった。


 阪原は、駆け付けた人間と、後訪れる同心に「伊勢が師を殺した」と伝えたのである。


 阪原はずっと見ていた。千葉と並び歩く伊勢を、二人の間にできていた絆を。それを断ち切る凶刃を……

 全てを知りながら、阪原は伊勢に罪を着せようとした。かつて抱いた事のない感情が、一人の男のはらわたに、黒く激しい炎を宿らせたのだった。

 阪原はその炎を受け入れた。伊勢を裏切る事も、師を見殺しにする事も全てを是としたのであった。是に至れば師であった千葉にまで憎悪が向けられた。 なぜ自分を認めないのか。

 なぜ伊勢などと競わねばならぬのか。長く師として仰いでいたのは何だったのか。と、孤にして塞いだのである。

 阪原の思考は堕ちた。崇高な意識も姿勢も過去のものとなり潰えた。悪に染まった男の顔は

、過去の己が見たら唾棄する形相であった。若さと我欲が、青年から気高い意思を奪った。


「下手人は伊勢勘兵衛に相違ありません」


 奉行所の人間にそう答える阪原は負の気配を纏っていた。彼をよく知る者はその豹変に肝を冷やし、ある者は心中で落胆し徳の失墜を惜しんだ。


 かくして伊勢は師殺しの罪を着せられ人相書が配られた。現場を改めた同心も異存はないと判断した。


 落ちていた一振りは無論門弟のものであり伊勢のものではない。それを「伊勢の刀である」と証言したのは阪原である。

 阪原の伊勢に対する同士の、門下の情は失せていた。それどころが、仏頂面を鬼神へと変え公然と伊勢を罵倒し避難した。その忿怒は自らの業、師への贖罪、伊勢への妬みの転嫁であり、拭いきれぬ罪を覆い隠す為の、偽りの怒りであった。



 時が経った。

 阪原は千葉の跡を継ぎ、一心流を背負うようになっていた。

 この頃阪原は藩の指南役となった他、名うての商人や名家に剣を教えていた。その稽古の様子はかつての千葉一心流とは程遠いものであり、実戦には使えぬ儀式めいた刀の振りであったが、返ってそれが歓迎されたのは、千葉の首離しに憧れこの道を歩んだ阪原にとっては皮肉な話である。


 阪原は地位も名誉も手に入れた。

 自らを先生と祭り上げる者は多くいた。


 だが、その影につきまとう一人の男を、彼は恐れた。自身より才に溢れ、自身より師に愛された男を、阪原は恐れていたのだ。


 あの男を殺さねばならぬ。


 そう決心して、流れた月日は凡そ十年。

 その間、伊勢の身柄は未だ不明であった。

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