第4話 復讐の鬼(前篇)

 とある片田舎に建つレンガ造りの小さな家には、マリア・ハーレイという女性と、イザークというが二人で暮らしている。


 二人に血の繋がりは無い。

 マリアはかつて結婚していた時期もあったが、相手の男が酒を飲んでは手を付けられなくなるほど暴れるので、結婚生活は驚くほどあっという間に終わりを告げた。


 イザークは彼との間に生まれた子供でなく、この家の前で揺り籠の中、「ごめんなさい」とだけ書かれた手紙と共に置き去りにされているのを保護したのである。……と、イザークにはそう説明してある。


「マリア、今日の夕飯何がいい?」


 玄関先でブーツを履きながら訊ねる息子・イザークに、キッチンから顔を覗かせたマリアは、うーんと暫し唸って、「鶏肉のグリル」と答えた。


「了解」


 イザークは矢筒と弓を担いで玄関を飛び出した。


 象牙色の頬に絆創膏を貼ったやんちゃななりをした少年は、一昨日に十六の誕生日を迎えたのだが、実年齢よりも幼く見える東洋人顔はいつまでたっても子どものままで、鏡の前に立つ度に「早く大人っぽい顔にならないかな」と独り言を零したくなる。

 それに加えて、同じ年代の男の子と比べると身長差もいくらか生じ、上背を伸ばすべく、日々、食料調達のために山を駆け回っている。


 狩りの師匠は母・マリアだ。彼が十歳のときに初めて狩りへ連れ出し、徹底的に技を叩き込まれた。素質があったのか、イザークはめきめきと力をつけ、今となっては一家の重要な仕入れ担当である。


 剣を握らせたのもその頃で、祖父譲りの剣術稽古法を真似た訓練は、イザークも楽しそうに取り組んでいた。

 マリアも息子に、祖父に教えられたように稽古をつけるのが楽しくて仕方なかった。

 ハーレイ家の孫が全員女の子で、親戚の中でも末っ子だったマリアに、剣の達人であった祖父は目を付けた。孫たちの中でも一番素質がある、と直感したのだ。

 始めた当初は、「どうして女の私が狩りや剣術を身につけなきゃいけないの」と不満に思うこともあった。だがそれは最初だけで、やがて頭角が現れてくると、女の子の間で流行っている遊びなどには、一切見向きもしなくなったものである。


 こうして、女性でありながら狩りや剣の腕を磨き上げてきたマリアの背中を見て育ってきたイザークが、彼女に稽古を付けてくれと頭を下げたのは自然な成り行きであろう。

 

 自分がマリアの実子でないと知ったのは、二年前である。

 このという名前はマリアが授けた名だ。

 自分がマリアの子でないということに、全くショックを受けなかったわけではない。けれど、物心つく前から、自分の母はマリアただ一人だ。

 共に過ごした時間は、血の繋がりなどに左右されるほどやわではなかった。だからその事実を受け止めることが出来た。


 実の母子おやこで無くたって、マリアは紛れも無く自分の母だ。この事実だけが、イザークにとっての真理なのである。




 イザークは獲物を探して山道を歩きながら、ふと昔のことを思い出していた。


 今の家に越してくる前、二人は大きな街に住んでいた。

 イザークを学校に通わせるため元々住んでいた土地を離れ、立派な学校がある都会に移り住んだのだが、新たな生活が始まって三ヶ月目のある日、イザークが捨て子であることが学年中に広まった。


 元々、他人と馴れ合うのが性に合わず周囲から孤立していたイザーク。

 東洋人の血を濃く引き、その土地に住む人間の顔立ちと違うこと。

 その二つの要因は、イザーク少年に固く屈強な壁となって立ちはだかっていたが、今回のこのセンセーショナルな噂は彼の立場を危ういものにするには充分すぎる内容であった。


 朝、登校したイザークが教室に入るなり、一人の男子生徒が姦しい声でがなりたてる。


「いらない子! いらない子だ!」


 一気に教室内の空気が凍りつくのがわかった。

 彼の言葉が何を意味しているのか、イザークは理解するのに時間がかかった。幼い顔に聊かの動揺が揺れ動いたような気がしたが、その言葉が成す意味を知るや否や、イザークは物凄い勢いで少年の胸倉に掴みかかる。


「お前、何を言っている! 誰がそんな事を言った!」


 物静かで普段から声の荒げることのない彼が、こうも目の色を変えて凄む姿を目の当たりにした級友たちは、息を呑んで事の成り行きを見守っている。

 周囲はざわめき出し、二、三人の女子が教室の外へ駆け出してゆく。じきに彼女らに腕を引っ張られた担任教師が、血相変えて登場することだろう。


「おれを貶めるのが目的か。何も言わないおれなら、多少からかってやっても大丈夫とでも思ってやがるのか。弱い者いじめで優位に立ったつもりか! そうだ、お前の言う通り、おれは実の親に捨てられただ。だが、今は違う。おれには必要としてくれる――愛してくれる母親がいる。おれをよりも立派な愛情をくれる母だ。痴れ者、お前は他人を下に見ることでしか優越感を得られない、痴れ者だ!」


 まだまだ言ってやりたいことは沢山あったが、丁度その時、担任教師が二人の間に仲裁に入ったので、イザークは仕方なく口を閉ざし、黒い瞳にありったけの殺意をこめて睨みつけた。この視線でこいつを斬り殺せたらいいのに、と思った。


 それでも、大きくかき乱された感情は鎮まることを知らず、静止する教師の声を振り切ってイザークは教室を飛び出した。


 こんなに怒りを露にしたのは初めてだった。

 腹の底から、血がぐつぐつ煮えたぎるかの様な熱が込み上げてくる。


 ――おれが捨て子だったら、どうだというのだ。血が繋がっていれば幸せなのか? 繋がっていないのは不幸なのか? 違う、おれは不幸じゃない。


 マリアの子でいられることに幸せを感じている。迷い無く言おう。自分は幸福である。……なのに涙が零れてくるのは、悔しいからでも、ムカついたからでもない。大好きなマリアが、このことを知ったら、どんな気持ちになるか……それを考えたら、途轍もなく悲しくなったのだ。


 マリアは慈悲深い母であった。我が子が学校でそのようなことを言われたと知れば、心を痛め、涙を流すことだろう。

 

 ――どうしよう。


 イザークは不安そうに前進する己のつま先を見つめる。


 ――どこへ行けばいいんだ、おれは。



 公園のベンチに横になって眠っていたイザークは、誰かが近寄ってくる気配に目を開け、そこにマリアの姿があることに、内心、動揺した。


「こんなところで何をやってんの、イザーク」


 マリアは、我が子の顔を上から覗き込みながら言った。

 町全体が寂しげな西日色に染まる頃、仕事から帰ってきたマリアは、イザークが帰宅していないのを心配して、近所を探し回っていた。


 いつもは学校が終われば真っ直ぐ帰ってきて部屋で読書をしているのだが、学校鞄が見当たらない、靴もない。家に帰ってきた形跡が無い。

 何かあったのかと胸騒ぎを覚えたマリアだったが、彼の姿を誰も居ない公園のベンチに見つけて、それは杞憂に終わった。


「……疲れたから寝てただけだよ」


 イザークは掠れた声で言い、起き上がる。

 マリアの目をしっかり見ることが出来ない。その、吸い込まれそうな空色の瞳を見ていると、教室でのことを思い出して胸が痛くなる。


「なんでここで寝てるのよ」


「風に吹かれていたかったの」


 イザークは少しむきになって答えた。


 実を言うと、別に眠ってはいなかったのだが、今日の出来事を頭の中でもやもやさせたまま家へ帰る気にはならなかったのだ。

 やるせない怒りを抱えたままこの公園にやってきて、心の整理をしていたらいつの間にか夕方。終いにはマリアに心配かけて探しに来てもらう始末。


 きっと学校から家に連絡が入るだろうな、と憂鬱な気分を抱え、事は一つも解決しないまま今日という日が終わりへと近付いてゆく。


「こんなところで寝たら風邪引くよ」


「大丈夫だよ。これぐらいで風邪なんて引かない」


 イザークはベンチから立ち上がると、マリアの方を一切見ようとせず、さっさと家へ向かって歩き出す。


 何か話をしなければ、と「今日の夕飯何?」と訊ねかけたイザークの声を、


「何があったの?」と、マリアが遮る。


 イザークは自分の肩がギク、と揺れるのを感じたが、


「別に。なんでそんなこと聞くの?」と冷静に答える。


 マリアは何も答えない代わりに、ふはっと吹きだした。


「何で笑ってんだよ」


 イザークはムッとして振り返る。


「あんた、何かあった時は感情を殺すようにやけに冷静になる。いつもそう。あたしに似て隠し事が下手だね」


 ばつが悪くて何も言い返せない。言い逃れしようとすればするほど、適当な言葉が思い浮かばなくて、結局、口は噤んだままだ。


「言ってみ、何があったの?」


 マリアが隣に並ぶ。小柄な彼女だが、この頃はイザークよりもずっと背は高い。


「本当に、大したことないよ。いつも通りさ」


「隠されると余計に寂しい」


「……うう」


 イザークは頭を抱えた。

 目の奥がじんわりと熱を持って、視界が歪む。


 ――そう言われると、おれだって辛いよ。


「あたしは、嫌なことや悩み事があるなら、隠さないで相談してほしい。一人で抱え込むんじゃなくて、あんたには、苦しみをひとに打ち明けられる、そんな強い子になって欲しいんだ。それに、息子の悩み一つ解決してやれない母親になんて、あたしはなりたくない」


 ――ずるい、その言い方。


 イザークは、堪えていた涙を、ついに我慢できなくなった。

 小さな子どものように嗚咽を漏らして、涙を流して、今日のことを仔細に渡って話した。


 夕方の公園で、イザークはずっと溜め込んでいた涙を流した。

 何度も何度もしゃくりあげながら、この幼い胸に閉じ込めておくには余りに残酷な出来事を、彼は一生懸命話した。


 話を聞き終えたマリアは、そっと彼を抱きしめて、優しい声でこう諭す。


「安心しな。あんたはいらない子なんかじゃない。イザーク、あんたはあたしの大事な息子。なによりの宝だ。あたしが、この世に二つとない宝だよ」


 温かくて、柔らかな掌がイザークの黒い髪をなでる。

 ずっと昔から傍にいてくれるこの温もりは、胸に刺さった棘をいとも簡単に溶かしてくれた。

 マリアのくれた言葉は、幸せの魔法の呪文のようだった。



 翌日から、周囲の生徒たちの、イザークを見る目が変わった。

 畏怖。

 それと、異質な物でも見るみたいに、彼を避けるようになった。

 怒りに身を任せ、感情的な言葉を吐いてしまったのがよくなかったのだろう。昨日の騒動の目撃者たるクラスメイトたちは、登校したイザークに冷淡な視線を浴びせた。

 別にイザークは、クラスメイトと仲良なりたいなどとは微塵も考えていなかったから、これと言って困ることもないのだが。


 マリアは昨日のことを学校に抗議すると息巻いていたが、イザークはそれを止めた。他人にどう言われようと、マリアが自分を大事だと言ってくれたのだから、もう大丈夫だ、と。

 マリアはまだ納得していないようだったが、しぶしぶと言った様子で頷いてくれた。


 結局、彼が学校を辞めて山での生活を始めるまで、イザーク少年に同年代の友人は一人も出来たことなどなかった。



 ……どうしてこんなことを思い出したのだろう。

 自分は過去に囚われない性格だと思っていたけれど、こうして昔の辛かった出来事を思い出すと、まるでつい最近の出来事であったかのように胸が苦しくなる。


 イザークは右手に、仕留めた小綬鶏を三羽ばかりぶらさげながら、家路に着いていた。

 かつての悲しい記憶を頭の中から追い払って、晴れやかな気分で帰宅する。


 半日も山に篭っていれば獲物ももう少し多く持って帰れたのだろうが、なんだか今日はノスタルジィな気分に浸りっぱなしで、なかなか思うように矢が飛んではくれなかった。


「ただいま」


 玄関を開けたイザークは、いつもすぐに聞こえる筈の返事がないことに違和感を覚えた。


 ――おかしいな。いつもはすぐマリアが出迎えてくれるのに。


 訝しみながら家の中に入ると、小綬鶏をキッチンに下ろし、各部屋の中を歩き回った。


 この時間、マリアは仕事を終えて夕飯の仕度をしているはずである。

 調味料でも切らして買いに行ったのかも。そう思って、マリアの帰宅を待つ間、汗まみれ泥塗れの身体をシャワーで洗い流した。


 タオルで髪を拭きながら出てきても、そこにいるはずの姿はない。

 窓の外に広がる空は、オレンジ色と藍色が混ざり合っている。

 もうすぐ日が沈む。


 イザークは玄関を出た。


「マリア、どうしたんだろう」


 ぽつりと呟いた独り言が、ひんやりとした風に流されてゆく。

 ちら、と下駄箱の上の置時計に目を向け、


 ――あと十分。あと十分して、マリアが帰ってこなかったら探しに行こう。


 ……十分後、外套を身体に巻きつけたイザークは家を飛び出した。


 辺りは更に暗くなっている。

 手にはカンテラを下げて、胸に不安が広がるのを無視して、町へ続く道を無心で進んだ。


 高い空に足音を轟かせながら山道を駆け、やがて町に着く。

 帰宅する者、酒場に入って行く者、町はこれから始まる夜に明々たる賑わいを見せていた。


 目を凝らして、人々の行き交う道にマリアの姿を探す。

 しばらく立ち尽くしていたが、一向に彼女の姿は現れない。


「マリア……」


 たちまち胸中を無視できないほどの不安が埋め尽くす。

 イザークの足は、マリアの勤め先へと向かった。

 勤め先の扉を潜ると、「いらっしゃいませ」の声に出迎えられた。ここは町の食堂で、マリアは従業員として働いている。


 イザークが席にも着かず、急いた様子で店内をきょろきょろと見渡していると、


「あれ、君はマリアさんとこの坊や」


 顔なじみの女店員がイザークに気が付いて近寄ってくる。


「どうしたの? マリアさんならだいぶ前に帰ったよ」


「本当ですか。まだ帰ってきてないんですけど……。仕事帰り何処かに寄る、なんて言ってませんでしたか?」


「さあ。聞いてないわ」


「そうですか……」


 イザークはぺこりと頭を下げて、店を出た。出るなり、たっと地面を蹴って駆け出す。


 ――マリア。


 何故だろうか。今、イザークの心は根拠のない不安に駆られている。

 全身から冷や汗が止まらない。

 この、胸を占める兢々たる胸騒ぎは一体何なのか?

 気持ちが悪くなってきた。

 

「マリア!」


 気が付いたら、そう叫んでいた。

 道行く人々が、何事か、と振り返るが、すぐに興味を失って正面を向いて歩を進める。


 もう既に暗い。人の顔もよく見ないと判別が出来ないくらいだ。

 手にしたカンテラの中で炎が大きく揺れている。自分の周りを照らすオレンジ色の光が暴れまわっている。


「マリア!」


 力一杯叫んだ。


「イザーク?」


 道路を挟んだ向かい側の歩道から、聞きなれた声がした。

 はっと声の方に身体を向けると、そこには必死に捜し求めていた姿があった。

 イザークの胸中に安堵感が広がってゆく。


「マリア……よかった」


「なぁに、どうしたのよ、そんなに慌てて?」


 両手に買い物荷物を抱えたマリアが、怪訝そうに言いながら道路を横切ってくる。

 すぅ、と頭の芯が冷えてゆく気がした。

 ――本当だ。一体、おれはどうしたというのだ。何をそんなに焦っていたのだ。


 まるで……ここでマリアを探し出せなければもう二度と会えなくなってしまう、そんな気がしていたのだ。

 冷静になると、自分の今までの行動が途端に恥ずかしくなる。

 迷子になった子どもが、必死に母親を探すような様を思い出して、顔が熱くなった。


 イザークは、ほっとすると同時に、この上ない恥ずかしさが込み上げてきて、なんと文句を言ってやろうか考えた。


「どうしたのよ、じゃないよ。どれだけ心配したとおも――」


 イザークの声を遮るかのように、二人に向かって一台の高級車が猛スピードで突っ込んできた。

 車道を横断中だったマリアがはっとした瞬間、車は物凄い衝撃を伴なって彼女を撥ねた。


 怒号のような衝突音が響き渡った。

 マリアの身体が夜空に跳ね上がり、手にしていた荷物と一緒に遠くの地面に落下する。

 ――一連の出来事がスローモーションのようにイザークの目に映った。


 マリアを撥ねた車が何メートルか先で、けたたましいブレーキ音を立てて停車すると、一帯は海の底のように静かになった。


 イザークはその場から動けなかった。

 遠くの地面でぐったりしたマリアの頭から、黒い何かが広がってゆく。それが血であると理解するのに何秒もの時間を要した。


 パニックになった女性の叫び声が宵の口に響き渡った。

 静寂は瞬く間に喧騒にかき消され、辺りは身が竦むほどの切迫した空気に包まれた。


 騒ぎを聞きつけて走ってきた見知らぬ男性が、マリアの安否を確認した。

 大勢の人が集まってくる。

 救急隊を呼んで! 誰か手を貸して! そんな声が飛び交う中、イザークは目の前の光景を、舞台上の劇を観ているかのような心地で見つめていた。



 まるで屍だ。

 何も考えられない。

 何もやる気にならない。

 いつの間にか朝が来て、いつの間にか夜になる。

 今日が何曜日で、明日が何日なのかもわからない。


 ……マリアが死んで、一ヶ月ほど経った。

 イザークはベッドの上で毛布に包まって、訪れる日々を無意に過ごしていた。

 一日二回ほど、空腹を感じてパンを食べる、トイレに行く以外、このように無気力なときを過ごしていた。


 マリアがいなくなった。

 自分を必要としてくれていた、たった一人の母がいなくなった。

 不幸な事故でこの世を去った。

 あの車を運転していた男は、仕事の過労による居眠り運転で事故を起こしたという。

 イザークは運転手に対して怒りをぶつけることはしなかった。経験したことのない喪失感が怒りの感情を上回り、本人から事情を聞いたときも「そうですか」という素っ気無い一言しか返すことが出来なかった。


 孤独だ。


 目を閉じると、瞼の裏にマリアの姿が浮かんでくる。……涙が込み上げてくる。


 ――やがて、夜が来た。


 イザークはのそりと起き上がった。

 空腹。一日中、ここにいて全く動かないのにどうしてお腹が空くのだろう。

 幾度となく、このままここで飢え死にしようかと思った。しかし、気が狂うような空腹に耐えきれず、「今日も死ねなかった」と、涙を流しながらパンを頬張る。


 マリアの死後、生に執着などなくなった。なのに、飢えて死ぬことをこんなにも恐れている。もう、生きている意味などわからなかった。


 イザークはふらついた足取りでキッチンへ降りた。

 電気も付けないで、薄暗いキッチンの中に入ると、す、と手を伸ばしかけ、その先の籠の中にパンがひとつもないのに気がついた。

 

 他に食料はない。

 しばらく山に行っていないので、木の実や干し肉も底を付いている。


 ――まだ店、開いてるかな……。


 イザークは、一ヶ月前よりだいぶ痩せてしまった身体に外套を巻きつけて、その手に財布だけを握りしめて家を出た。


 厳しい寒さはイザークを容赦なく襲う。ふらふらした身体は、風が吹く度に揺らぎ、いつぱったり倒れてしまってもおかしくない。


 暗がりにぽつぽつと灯る街灯に照らされる人々は、みな家族の待つ家へ足を向けている。

 帰宅する人々の波に逆らう形で、イザークは歩いていた。


 その時である。雑踏の中、イザークの耳に届いた一つの声があった。


「日系人のお兄さん」


 イザークはその声に、ぴたりと立ち止まる。


「こちらです、お兄さん」


 声の方向を辿って、そちらへ目を向けると、道の隅っこにテーブルと椅子で店を構えた占い師が彼に向かって手招きをしているのを見つけた。


 イザークは誘われるままに歩み寄った。

 占い師の前で立ち止まると、口を噤んだまま彼女を見下ろす。

 テーブルの上には上質そうな布がかかり、隅の方に伏せられたカードと、月光を反射する美しい水晶が置いてある。


 目から下を紫色の薄布で隠し、眩しいほどのブロンドヘアは白金の月光に照らされてきらきらと輝いている。

 顔の殆どが隠れていても、彼女が絶世の美女であることはわかった。


 こんな田舎に占い師など珍しいな。と、ぼんやりした頭で考えていると、占い師はイザークを値踏みするようにじろじろ見た。


 その無遠慮な視線に居心地の悪さを感じ、


「なんだ」


 と、イザークは凄んだ。しかし、彼女はしれっとして、彼の胸元に視線を固定し、


「あなた、とても厄介なモノに付き纏われているようですわね」


 と言った。


「厄介なモノ?」


「はい。あなたの左胸――心臓の辺りに視えますわ。禍々しい気配が」


 イザークは、変な占い師だな、とその場を立ち去ろうと思ったが、


「身近な方が亡くなったのも、が原因とみて間違いありませんわ」


 彼女の発言に、イザークの目が大きく見開く。


「……なんだって」


「亡くなったのはあなたのお母様ですか。血は繋がっていなかったみたいですけど、お互い強い絆で結ばれていたのでしょう」


「……どうして知っている? 誰に聞いた。それともあんたは、マリアの知り合いか」


 イザークは上背を乗り出すようにして訊いた。


「いいえ。ワタシは、あなた自身すら知らない、あなたの真実を視ているのです」


 占い師はイザークを、自分の向かいの椅子に座るよう、手で促した。

 彼は、半信半疑のまま腰をおろす。


「ワタシは占い師・K。あなたに真実をお視せすることが出来ます。その真実は、あなたの求める答えに繋がる道となりましょう。しかし、決して明るい道ではございません。あなたの過去は、今のあなたには到底受け入れがたい真実。いかがです、ご覧になりますか?」


 イザークは黙ったまま、頷きもせず、占い師・Kをじっと見つめていた。


 ――おれが求める答え……?


 イザークは心当たりを探す。

 空腹で頭が回らない。


「真実って、どういうこと?」


 イザークが訊ねると、Kは艶っぽい目を細めて笑った。


「お母様の死には、あなたの父親が関係しているのです」


 イザークはテーブルに両手を着いて、勢いよく立ち上がった。

 心臓が狂ったように暴れだす。

 Kが口にした言葉の意味が理解できず、彼は同じことを自分の口で言った。


「マリアの死に、おれの父親が関わっている……?」


「ええ。……あなたはご自分の父親をご存じないのですね」


「ああ。……父親なんて、知らない」


 イザークは頷きながら独り言のように言った。


「あなたの知らない真実は、実に奇妙で、理解の範疇を超えた事象であります。ワタシも長いこと人の人生を占ってまいりましたが、このようなケースは前代未聞。身が竦むような思いですわ」


 イザークは髪の毛が逆立つのを感じた。

 全身の毛穴が開いて、冷や汗が噴出す。

 自分の鼓動がはっきり聞こえる。

 大嵐を思わせる激情が、痩せ細った体の中を駆け回った。


 見ず知らずの父親。マリアの死。一見、なんの共通点もないように見えるこの二つは、イザークの喪失感をかき消すほどの大きな存在となって彼の前に現れた。

 

 イザークはテーブルの上の手をきつく握り締めた。


 Kは少年の痩せた顔を見上げた。そしてもう一度……


「ご覧になりますか?」


 ……イザークは頷いた。

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