第4話 復讐の鬼(中篇)

 とある地に住む日系イギリス人、アリスター・オルコットは、神話に関する研究で教鞭を執る学者であった。


 その人となりは、真面目で、仕事に対する情熱もあるが、かといって熱血なわけでも、堅物過ぎるわけでもない。

 若者の心を掴む話術を用い、学生たちからの人気もまずまずだ。


 聡明な顔立ちで、いつも四角い銀縁の眼鏡をかけている。

 着ているスーツはよれよれで、少し野暮ったくもあるが、常に笑っているような穏やかな表情は、女子学生たちから「かわいい」と評判だった。


 そんな彼は若かりし頃より、悪魔や邪神といった存在に酷く心を惹かれていた。

 何故か、と問われると、アリスターはいつも、目に見えない世界でも見つめるかのような虚ろな目をして暫し黙り込む。やがて、のんびりと口を開いたかと思うと、決まってこう言う。


「わからない。きっと、魂が惹かれるんだと思う」


 そんな男は、三十五のときに、七つ年下のイギリス人女性と結婚した。名を、ルーシー・キャリィ。友人の紹介で知り合ったのがきっかけで、清く正しい交際期間を経た後に、アリスターの方からプロポーズ。

 幸せな結婚生活が幕を開けた。

 しかし、この夫婦にはなかなか子どもができなかった。

 賑やかな家庭を築きたい、という夢があったルーシーは、それが原因でぴりぴりすることが増え、次第に夫婦間の関係は冷え込んでゆくばかりであった。


 結婚当初の仲睦まじい生活が夢であったかのような、苦痛ばかりの現実。

 些細なことで口論に発展することなどしょっちゅうで、アリスターは次第に家に帰るのが億劫になっていった。


 そんなときに出会ったのが、アリスターの大学の図書館で司書を務めていた、秋坂・クレア・笙である。

 彼女もまた日系人で、謙虚で慎ましやかな性格の大人しい女性だった。

 妻のルーシーは、どちらかといえば気が強い方だし、短気なところがある。


 アリスターと笙は間もなく不倫関係に落ち、一年半後、二人の間に生まれたのが、何を隠そう、アイザックである。

 しかし、このタイミングでの息子の誕生は、妻を持つアリスターにとって、想定外の厄介事でしかなかった。


 ある日の夜中、アリスター・オルコットは夢を見た。

 薄く霧のかかった闇夜の墓場に、たった一人で立っている。


 周辺に乱立した貧相な枯れ木は、そよ風に揺られただけで、今にもぽっきり折れてしまいそうだ。


 辺りには、欠けてボロボロになった墓石たちが、アリスターを取り囲むように、闇の中にぼんやりと並んでいる。


 ふと、一つの墓石に目を留めてアリスターはぎょっとした。そこに刻まれていた名前に、見覚えがありすぎたのだ。


『ルーシー・オルコット 18XX-19XX』


 何故、こんなところにルーシーの墓があるのか。彼女はまだ生きている。今日だって、仕事が終わらず、ようやく見切りをつけて帰宅すれば、「帰りが遅い」と小言の洗礼を受けたばかりである。


 不気味に思いながら、その隣の墓石に目を向け――


「『秋坂・クレア・笙』……!」


 なんということだろう。今度はそこに、不倫相手の名前が刻まれているのだ。


「なんだ……なんなのだ、これは……」


 そして、はっとする。

 アリスターの周りに並んだ、の墓石。左から順番に、ルーシー・オルコット、秋坂・クレア・笙、深い靄に遮られて名前が見えない墓石を飛ばして残り六つ全て、アリスターの受け持つ講義を取る女学生たちの名前が刻まれている。


 アリスターは無言で、その名前一つひとつに、ゆっくりと視線を滑らせていた――その時である。


『君の心の底に眠る妄執が、君をへ招き入れた』


 予想だにしなかった第三者の声に、アリスターはびっくりして肩を飛び上がらせた。

 反射的に振り返って、ひっと息を呑む。

 輪から外れた位置にある、名前の無い墓石の上に、膝を立てて座った一人の男が居た。ものすごい四白眼で、二重瞼の上に申し訳程度に眉毛が生えている。

 顔の中央には、真横に一直線、小さな文字のような刺青が走っている。

 白い唇の中に並んだ乱杭歯は品性に欠けたが、身に纏った衣服は、上質そうで小奇麗である。


「誰だ」


 アリスターが警戒心を露に問う。


『それはオレ様の台詞だが、まあ、いいか。周りの奴はオレ様のことを、と呼ぶ。火急じゃないぜ。下位のものという意味のだ。さて、質問だ、アリスター・オルコットくん。何故、君はここに居るのだ?』


 下級は、若そうな見た目の割にひどくしわがれた声をしていた。


 アリスターは、彼の言葉の真意を測りかね、口を噤んだ。

 わからない。ここは何処だ。墓場だということはわかるが、どうして自分がこんなところに居るのか。

 夜も更けたこんな時間に何故こんなところにやって来たのか。

 どうして墓石に妻たちの名が彫られているのか。

 問われたこと以外にもわからないことのオンパレードである。


 一向に答えを提示しないアリスターを見て、下級はにんやりと笑い、鋭い爪の生えた指を立てた。


『教えてやるよ。人間風に言うとだな、ここはオレ様のだ。どうやって侵入はいったのかは知らんが、ま、少なくとも、君がにキョーミがあるというのは確かなようだな』


 


「え……」


 アリスターは背筋が粟立つ感覚の中に、言い知れぬ期待のような――明るい感情が紛れ込んでいるのに気が付いた。


「お前は一体、誰だ……?」


『オレ様は』


 薄い唇が深く裂け、こう囁いた。


 ――悪魔、だ。



 アリスターはベッドの上で目を覚ました。

 白いカーテン越しに朝日の輝きが差し込む。

 寝起きの、冷えた思考が徐々に現実を理解してくると、全身が汗でびっしょりなことに気が付いた。

 首筋を汗が流れ落ち、肌寒さと気持ちの悪さに一気に目が覚めて、上半身を起こす。


 隣には、こちらに背を向けて眠るルーシーの姿があった。

 ……ルーシーは生きている。夢の内容と現実を照らし合わせながら、アリスターはホッと息をついた。


 はっきりと覚えている。今見た夢の内容を。

 深い宵闇と、それを包み込む深い霧。

 自分を取り囲む古ぼけた墓石。そこに刻まれた見知った名前の数々。

 そして、下級と名乗ったの姿。


 アリスターは頭を左右に振って、苦笑した。


 ――疲れているんだ。疲れているから、あんな奇妙な夢を見たのだ。


 ルーシーの髪に手を伸ばす。綺麗に手入れされた眩しいブロンドが指先に触れると、彼女は軽く身じろぎした。


 家の外で煌く世界は祝福された夜明けを迎え、明け方の空を羽ばたく小鳥たちの囀りが、人間たちに一日の始まりを告げて回る。


 このような清々しい世界で目が覚め、アリスターは無意識のうちにする。――そう、彼はこの平和な世界の中で、落胆したのだ。


 若い頃から憧れてやまず、それなのに決して手にすることの出来ない夢に、ようやく指先が届いたような気がしたのだ。


『君の心の底に眠る妄執が、君をへ招き入れた』


 夢の中の声が脳内で反響する。


「私の妄執……」


 頭が痛む。響いた声が、頭痛を引き起こしているのだろうか。


『お前は一体、誰だ……?』


 自分の声。


『オレ様は』


 ――その途端、アリスターは自分の中で何かが切れるような、そんな感覚を味わった。


 その日の夜、アリスターは火の灯ったカンテラと、右手に紙袋を持って、勤め先の大学の裏手にある森に足を運んだ。


 彼の目指す目的地は、森の深くにある空き家だ。所有者不明の傾きかけた小屋は、アリスターの大願を叶えるには絶好の場所であり、生い茂った草を踏みしめるブーツの底も、心なしか期待に満ちた音を立てている。


 彼の心を支配しているのは、指先を掠めたあのへの前進である。

 決して人が手にすることが出来ない――心惹かれながらも、手の届かなかった地位へ登りつめることが出来るかもしれない。そんな思いに、心が昂揚してゆく。


 人の色をした精神こころが、徐々にどす黒く濁ってゆく様を、アリスターは嬉々とした感情で包み込んだ。


 やがて目的の空き家にたどり着いた。


 小屋の中は、月明かりも届かぬ闇に沈んでいた。窓ガラスが埃に塗れているせいだろう。カンテラで照らした辺りだけが、ぼんやりと浮かび上がっている。

 アリスターは外に視線を走らせ、人の姿がないのを確認すると、そっと扉を閉めた。古い蝶番がキイイ、と不快な音を立てた。


 目が暗がりに慣れぬ間は、小屋の入り口に佇んだまま、じっと闇一色の世界を注意深く見つめていた。


 やがて、薄闇の中に内装がぼんやりと浮かび上がってくると、アリスターは経験したことのない緊張を抱えながら小屋の中央へ足を向けた。


 物が何も置いていないせいか、外観のわりに中は広かった。

 歩くたびに、床に積もった埃が革靴の周りに立ち上る。

 冷たい靴底が木の床を重々しく鳴らした。


 一歩、また一歩、と自分が人間でなくなる感覚に近付いてゆく。


 辺りの空気が、突然訪れた見ず知らずの客人を冷たく包み込む。

 吐く息がかたかた震えているのは寒さ故か、それとも、未知の領域へと手招く姿無き案内人に対する恐怖故か……。


 中央で立ち止まると、床を覆う埃を見下ろしながら、アリスターは着ていたジャケットを脱いだ。

 暑かったわけではない。彼は床にしゃがみ込むとカンテラを傍に置いて、白くぼやけた床をジャケットでごしごしと拭いた。もちろん、良い気はしなかったが、を呼び出す床が、こんなにも汚れていると相手の気分を害しかねない、と懸念したのだ。

 着古してよれよれになったジャケット一枚を犠牲にするくらい、なんということもない。彼には成し遂げたい大願があるのだから。


 埃に塗れたジャケットを傍らに放り、アリスターは紙袋の中に手を突っ込んだ。


 袋から出てきた彼の手には、鎌と短剣、そして白い細紐が握られていた。

 鎌の刃に紐の端をぐるぐると巻きつけ、もう片方を短剣の柄に結びつける。このとき、紐の長さが9フィートぴったりになるように注意する。

 錆の浮いた鎌を床板に突き立て、コンパスの要領で短剣でぐるりと大きな円を描く。

 さらに1フィートの間隔をあけ、今描いた円の中にもうひとつ、円を描く。


 薄暗く音の無い世界に生じたガリガリ、ガリガリ、と床板を抉る音が、アリスターの荒い呼吸と共に反響する。


 ――私は、彼らの領域に達することが出来るだろうか……。人の世も、人の身も捨てて、長きに亘って夢見たあの領域へ足を踏み入れることを、許していただけるのだろうか。


 二つの円の間に出来た隙間に、文字のような――見慣れないアルファベットのような文字を書き、所々に惑星記号が書き込まれる。

 一回り小さな円の中には、大きな六芒星を一つ描いた。

 

 アリスターは、緊張を押し殺すように深く息をついた。


 薄く煤に汚れた硝子の中で炎が激しく揺れる。風を受けるはずも無いカンテラの中の炎が、どうしてこんなにも熱烈なダンスの如く揺れるのだろう。アリスターの足元から伸びた黒い影も、呼応するかのように奇っ怪なダンスを踊る。


 たいして激しい動きをしているわけではないのに、汗が噴き出てくる。

 シャツの中を、いくつもの雫が滑り落ちてゆく。


 模様が完成すると、アリスターは全身を汗に濡らし、水中から出てきた瞬間のように深く呼吸を繰り返した。


 ――できた、もうすぐ……もうすぐだ。


 アリスターは鎌と細紐を片付けると、手にした短剣をそっと見下ろした。


 炎が一際大きく揺れる。


 前髪からパタ、パタと汗が滴る。


 冴え冴えと光る短い刀身に映り込んだ自分の黒い瞳と視線が絡み合う。

 ――やれ。

 自分の瞳がそう訴えかけ、「おお」と鼓舞するように声を出して頷く。


 意を決したアリスターは、右手にナイフを、そして左手できらりと光る刀身を強く握りこむ。


 人間の領域を脱する一歩として、は必要だ。


 ――痛いのは一瞬だ。痛みへの恐怖など、取るに足らぬ恐怖だ。


 アリスターは奥歯を噛み締めて、刀身を握った手を下へ向かってスライドした。


 喉の奥から込み上げてくる悲鳴を、食いしばった歯の内側にとどめて、傷口から溢れ出る真っ赤な血――人間の証である赤い血を、模様の上にびしゃびしゃと滴らせた。


 痛みで顔が引きつる。

 冷や汗が首筋を光らせ、シャツが更に重くなる。


「……ん?」


 広がった血溜まりから、感じたことの無い忌まわしさが立ち上ってくるのを感じて、アリスターは身を乗り出した。

 頭の中に、聞き覚えのある声が流れ込んでくる。


『そら、もう少しだぞ、アリスター』


『オレ様の姿を拝みたいのなら、その声で言ってみろ』


『怖いのならやめてもいいんだぞ。今ならまだ引き返せる。まだ君は、人間の領域に帰ることが出来る』


『だが君が、そのを口にした途端、もう後戻りは出来ない』


『どうする、アリスター』


『人間でいるか? それとも、人間であることを放棄し、に介入するか?』


 血溜まりの中から、ずずず、と何かが出てくる。

 固い床板からぬるりと現れた双眸が、アリスターをじっと見つめてくる。


 ――下級!


 その瞬間、アリスターはその口で、その声で、下級の欲する言葉を紡いだ。


「下級、わたしを、お前たちの世界へ連れて行ってくれ」


 ……アリスター・オルコットは、もう後戻りできない。


 寒々しい小屋の中に、下級の高らかな笑声が響き渡る。


『アリスター。君のその勇気には脱帽だ! 君はその強靭な勇気を武器に、我が領域に介入した。敬意を表す! ようこそ、アリスター・オルコット。我が同輩よ!』


 下級は、骨と皮ばかりの蒼白い手を、アリスターに差し出した。


『さあ、詳しく聞かせてくれたまえ、アリスターくん。君の、若い心に巣食う野望を。オレ様に、何を望むのかを』



 アリスターは自宅のガレージに車を停めると、ちら、と腕時計に視線を落としつつ、玄関を開けた。

 夜も更けた深夜十二時である。

 眠らず、リビングで夫の帰りを待っていたルーシーは、彼が部屋に入ってくると、ソファーから立ち上がり、鋭い目を向けた。


「今、何時だと思ってるの? 連絡くらいくれてもいいでしょう。いい歳して妻にこんなこと言わせないでよ」


 ルーシーが厳しい声で言う。

 アリスターは魂の抜けたような、表情の無い顔で「悪かった」とだけ言い、さっさと寝室に向かう。


 夫のために夕飯の仕度をして待っていたルーシーは、反省の色の見えない彼の背中に向かって罵詈雑言を叩きつけるが、今のアリスターには気にもならないことであった。


 寝室に入って、小物の入った引き出しを漁る。

 白い錠剤の入った茶色い瓶を手にし、さっとスラックスのポケットにねじ込むと、何事もなかったかのようにリビングへ戻る。

 まだ喚き散らしている妻の前に立つと、怒りに震わせた薄い両肩に手を置いた。


「すまなかった、ルーシー。どうしても今日中に完成させたい論文があったのだ。つい夢中になってしまって、連絡するのを忘れてしまったんだ。気が付いたらこんな時間で……もう寝てしまったかと思って、連絡はしないでおいたんだ。許してくれ。明日は早く帰る。君、夕飯は食べた?」


 夫の顔が、なんだかいつもと違っているような――そんなことを思わないでもなかった。

 ルーシーは気勢をそがれた形で、


「ま、まだ食べていないわ」


「そうか。待たせてしまったね。仕度は私がするから、君は座っていてくれ」


「……いいの?」


「いいとも」


 アリスターは上機嫌でキッチンに立つと、


「この鍋を暖めればいいのかい?」


「ええ。あと、新しいバゲットがあるわ。切って、トースターで焼いて頂戴。それと、サラダが作ってあるから、それも出して」


 ルーシーはダイニング・テーブルに座りながら言う。

 お腹が減っても先に食べないで夫を待っていたのは、ただのあてつけだった。むきになっていたのだ。

 けれど今となっては、一人で怒っていたのが途轍もなく恥ずかしくなってきた。しおらしくなって、時計を見上げる視線も、いくらか柔らかくなっている。


 冷えきっていた夫婦間に温もりが戻ってきたような気がして、少し心が軽くなる。

 冷静になろう。子どものことも、これからのことも、二人できちんと話し合おう。自分が冷静になれば、きっと納得のいく話し合いが出来るのだから。


 ルーシーは、遅い夕飯の仕度をする夫の背中を見つめて、安心したように微笑した。




「お待たせ」


 食卓に並んだ、あたたかなシチュー、焼きたてのパン、木のボウルに入ったサラダ。


「ありがとう」


 ルーシーが嬉しそうに表情を綻ばせて言う。


「あたたかいうちに食べよう。あ、そうだ、この間買ったワイン開けよう。君も飲むだろう?」


 アリスターは椅子に座りかけた腰を再び浮かし、キッチンへ戻った。棚の中からワインボトルと、グラスを二つ取り出す。


「私は少しでいいわ」


 ルーシーの注文に一つ頷き、アリスターは手際よくグラスにワインを注いでゆく。

 二つ並んだグラスのうち、量の少ない方――ルーシーに出す方のグラスの中に、彼は白い粒を三つ落とした。

 白い粒は少しずつ解けてゆき、やがて赤い液体の中で見えなくなった。さて……これは一体なんだ?


 アリスターは両手にグラスを持って、ダイニングに戻る。

 ルーシーはにこやかにそれを受け取り、正面に座るアリスターと視線を合わせると、


「乾杯」


 カラン、と硝子同士が触れ合う音が響いた。

 ルーシーはそっとグラスを煽った。アリスターは舌先をそっとワインに浸したまま、じっと妻を見ていた。


 芳醇な味わいも、鼻腔を擽る深い香りも、今の彼にはどうでもいいことであった。

 今、目の前にあること以外の現象など、どうでもいいのだ。


 アリスターはグラスの縁に唇をつけたまま、にやりと笑った。


 こうして、二人で夕食の時間を満喫していると、ルーシーの口数が徐々に減少してゆく。


「どうしたんだ、ルーシー。具合でも悪い?」


「いえ、違う……どうしたのかしら、急に眠たくなってきたわ」


 ルーシーは額を押さえながら言った。


「随分待たせてしまったからな。もう寝たらどうだい。片付けは私がやっておくよ」


「……そうね、そうするわ。ありがとう」


 夫に礼を言うのはいつ振りだろう。長いこと、夫に対する感謝の心を忘れていた気がするわ。そんなことを考えながら、ルーシーはふらりと立ち上がって、寝室へと消えた。


 一人になったアリスターがゆっくりと残りの夕食にありつき、妻のをきれいに平らげると、ふと時計を見上げた。深夜十二時四十分。


 アリスターは立ち上がると、鞄の中から車のキィを取り出して、寝室へ向かった。

 大きな音を立てないようにキィをズボンのポケットにねじ込みながら、ダブルベッドの隅で深い眠りに着くルーシーを、驚くほど冷えきった眼差しで見つめる。


 ……彼の背後で、闇がざわめく。



 晴れた夜空が嘘のように曇ったと思うや、たちまち世界は雨の降る霧の町に姿を変えた。


 フロントガラスに雨水が打ち付ける。

 ひっきりなしに動くワイパーの働きも虚しく、夜闇はたちまち雨の幕に覆われる。


 視界が悪い。

 等間隔に並ぶ街灯に照らされた道を走りながら、アリスターはバックミラー越しに後部座席を見た。熟睡したルーシーが横になっている。多少、車が揺れたくらいで起きる気配は無い。


『お見事だ、アリスター! 人にスイミンドウニュウザイを飲ませるのは初めてではないな?』


 助手席に胡坐をかいた下級が豪快に笑いながら言う。


「馬鹿言うな。あれは私が自分で飲んでいるものだ。人に使ったことなどない」


『ハハッ、それはすまなかった。まるで推理小説に出てくる犯人さながらの鮮やかな手つきだったもんでね。感動したよ。して、目的地はわかっているかね?』


 アリスターは答えず、ただ少し頷いた。


 車は、荒波打ちつける断崖に滑り込んだ。

 その頃には、いくらか雨も落ち着き、アリスターは傘も差さずに車外へ出る。

 急いで後部座席のドアを開け放つと、ぐったりしたルーシーを引きずり出した。

 いつの間に降りていたのか、下級は手も貸そうとしないで、腕を組んでその様子を見つめている。


 ルーシーの腕を自分の肩に回し、吹き付ける海風に逆らって崖の先端まで歩を進めた。


 大地のなくなった真下は、荒波が幾重にも折り重なる極寒の海である。


 アリスターは、あと一歩で何もない空間に踏み出せるというところで立ち止まり、ちらりと妻の顔を見た。

 閉じた瞼が開くところを、もう二度と見ることは無いのだろう。

 美しい人だった。少し気性の荒いところもあったが、家庭的で賢い女性だった。


「さよならだ、ルーシー。私のためにとなってくれること、深く感謝する」


 アリスターは慈悲の欠片もない声で囁くと、彼女の腕を肩から解いて、その細い身体を崖下へと突き落とした。

 視界から消える

 高い波の音にかき消され、耳を塞ぎたくなるような入水音は終ぞ聞こえることはなかった。


 アリスターはしばらくその場から動かなかった。


 下級が『下がれよ。危ないぜ』と声をかけると、ようやく振り返って青ざめた顔で口を開いた。


「下級」


『なんだい』


「先ずは一人め……これでいいかい?」


 下級はにんやり笑った。


『これで君は完全にオレ様たちの領域へと一歩前進できたわけだな。おめでとう、アリスター。あと八人の人間の魂を、と名高い、このS海岸に捧げるんだ。そうすれば、君は望みどおり悪魔デーモンの仲間入りを果たせる』


 それから幾日が過ぎた。

 日没の三十分ほど前である。

 断崖に立ったアリスターの手からまた一人、人影が離れ、荒波の底へと落下してゆく。

 目を閉じたその顔は東洋人。


『うん、いいね。順調だよアリスター。して、彼女は誰だ? 恋人? しかし君には妻がいたろ?』


「詮索はよしてくれ」


『ま、聞かなくてもわかるがね。ゴシップ好きなのさ、オレ様は。それで、その赤子は不義の子というわけか』


 下級は乱杭歯を見せて笑った。


 不倫相手の笙も、ルーシーのときと同じ手を使った。彼女もまた真実を知ることなく、眠りに着いたままアリスターの野望の礎となったのだ。

 そして、彼の腕に中にいる小さな赤子。大人しく眠っている。時折、アリスターの胸に耳を押し付けるように身じろぎする。

 最後の生贄である。笙との間に出来た息子だ。会うのは二回目だ。


 アリスターは、息子を冷たい目で見下ろすと、


「さようなら、名も知らぬ我が子よ、不義の子よ、さようなら」


 別れの言葉を語りかけ、白波の砕け散る荒れた海へと放り出した。


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