アイデンティティ:後編

 午後も4時半を過ぎた頃、バー『BASIC』が開店する時間にしんけいはマスターの元を訪れた。

 カランカラン・・・

「おや、秦 珪」

 マスターは一度帰って休息を摂ったのか、バーテンダーの制服をきっちりと着こなした通常営業の穏かな顔でシェイカーを振っていた。どうやら、本日の客は秦珪が最初らしい。

「こんにちは、マスター」

「丁度今、新作を試していたところなんだよ。飲んでみてくれるかい?独創的なお酒が苦手な君でも飲めると思うんだけど」

「いえ・・・まだこれからすべき事がありますので・・・・・・ビールか焼酎なら戴きますけれども」

「そんな居酒屋メニューは置いていないし、今後も置く予定は無いよ・・・・・・」

 マスターと秦珪のセンスには埋る事の無い溝が存在するようだ。

 カクテルへの強いこだわりを持つマスターをからかうのも程々に、秦珪は立った侭改めてぐるりと周囲を見回す。それに気づいたマスターは

「徹くんが来たよ」

 と、グラスにカクテルを注ぎながら言った。

「秦 珪、君、徹くんに10秒チャージしか用意してあげていないのかい・・・・・・?」

「え・・・・・・?」

 マスターが鬼でも見るような視線を秦珪の方に合わせる。秦珪は何だかよく解らないが自分がドン引きされている事には気づいた。だが何について弁解すればよいかも判らず、二人の会話は叉も溝が埋らない侭どんどん深みへ嵌ってゆくのであった。

「きちんと学校に行くように言ったんじゃないのかい」

 マスターは一応来客(秦珪)の為に飲み物を用意し、カウンターに置いてコトリと音を立てた。それはカクテルの入ったグラスではなく、レモンを浮べたミネラルウォーター。

 秦珪は喉が渇いていたのか、グラスを手に取ると一気に水を飲み干した。

「言って素直に学校へ行くようでしたら本当に楽なんですけどねぇ」

 秦珪はグラスをカウンターに置いた。水に融ける間も無かった氷の集団がグラスの中で移動する音がする。

「今回はマスターの処へ行くと想像がついていたので安心して見送りましたが、本音としてはもう部屋に閉じ込めて徹クンの頭頂のアホ毛から足の爪の垢まで煎じて飲みたいくらい二人だけの時間をはすはすはぁはぁ・・・・・・」

「僕は彼を引き留めるべきだったのかな?逃してよかったのかな?」

 彼等の間に出来た全般的な溝というのは、もう修復不可能かも知れない。

「彼は昼過ぎには出て行ったよ。今日は早めに仕事に行くと言って。一旦家に帰るって言っていたから引き留めなかったけど、徹くんは家には帰っていないのか・・・」

 マスターの台詞は語尾で消え、唖然と口を開いた侭焦点の合わない眼で何かを捜した。この店を目指して歩いて来る足音も無く、店内には秦珪しか客が居ない筈だった。なのに今、彼は別の人物の気配を感じている。

 ・・・否、精確には、秦珪と思わしき人物の気配が消え、全くの別人がこの店内にすり替っているという感覚である。

 そして、その別人格の気配は、彼にとって全く馴染みの無い者のものだ。

「・・・秦 珪・・・・・・?」

 ・・・・・・初めて経験したこの違和に、マスターは思わず秦珪の名を呼ぶ。彼自身の“逢いたい人”をイメージして捜すと、不思議と秦珪の輪郭ははっきりと浮き上がってくる。

 しかし、それで視えてきた人格は、これまで接してきた秦珪とは似ても似つかない。

「秦 珪。徹くんの仕事は若しかして」

 マスターははっとした顔をし、表情を曇らせた。

「・・・・・・やっぱり、彼の言った事を鵜呑みにすべきではなかったかな・・・・・・「いいえ、マスター」

 自分に責任を感じるマスターの言葉を、秦珪は即座に否定した。眼の視えない相手であるにも拘らず、にっこりと丁寧な笑みを浮べる。何かを隠している様な感はあったが、雰囲気は記号としての秦珪のものに相違無かった。

「貴方には、徹クンが信じられる理想の大人でいて欲しいんです。このバーが、私の指から零れ落ちたあの子の逃場となる様に。あの手の子供はどれ程自分が他人に心配を掛けているかなど考えないで、素直に騙されてくれるかだけで自分が信用されているかどうかを推し量ろうとしますから。現に日當ひなた 奈都なとも、自由に泳がせてあげて後から尻拭いをしていたみたいですし」

 後は私に任せてください、と秦珪は言った。

「・・・・・・僕は止り木で、君は尻拭いか」

 マスターはふっと息を漏らし、苦笑しながらシェイカーを洗う。

「道化役だね、僕達」

「子供にとっての大人わたしたちの存在は、そんなものでいいんですよ。徹クンの周囲にそういう大人はいなかったでしょうし。ただ、彼にももう大人になって貰わないと」

「一応、警察を呼んでおこうか」

 マスターがシェイカーを拭く指先に神経を集中させつつ、冗談か本気か判らない笑顔で物騒な事を言った。秦珪は愕きこそしなかったものの、珍しい位の余裕の無さで

「け、結構です」

 とすぐに拒否した。

「あんなもの、特に今回に於いては役に立ちませんよ」

「まぁ、今回に於いてはそうだろうね」

 でも・・・とマスターは言葉を続けようとする。秦珪の足がカウンターの止り木に引っ掛り、ガタッと大きな音が鳴った。

「マスター・・・・・・」

 ん?マスターは顔を上げ、とても爽やかな表情を秦珪に向ける。

「さっきの仕返しですか?」

「さぁ?ふふ」

 マスターは秦珪に背を向け、コトリとシェイカーを定位置に置く。そろそろ客が入れ替り立ち替る時間に入る。本格的に営業を始める。秦珪もマスターに背を向け、店を出て行こうとしたが、あ。と思い出した様に振り返り、マスターに尋ねた。

「・・・徹クンに、私の事について貴方から何も喋ってはいませんよね?」

「言っていないよ」

 マスターは手を拭きながら何とも無しに答える。

「只、手っ取り早く君の正体を知りたがったから、ヒントを一つ与えてあげたよ」

 ・・・? 秦珪が扉のノブに手を掛けた侭マスターを見つめた。今日は猫の眼のように秦珪の気配が変る。他の者にとっては違いが判らないかも知れないが。マスターはぴりぴりとしたものを背筋に感じながらも、秦珪に対する視え方の変化に笑みがつい零れた。

秦珪きみは実はとても弱い人間なんだって事を」

 ―――秦珪は微笑わらった。わらう声は聞えるが、気配は其処にもう感じない。店を出て行った事に辛うじて気づけたのは、合図でなければ鳴る事の無いベルがいつもより強い空気抵抗に因ってほんの微かに音を鳴らしたからだ。いつもと違ってほんの少しだけ、秦珪が居たという形跡がこの店には残っている。

「・・・徹くんが振り回してくれた方が、秦 珪は案外早く見つかるかも知れないね」

 マスターは味見程度にほんの少しだけ、試作した白いショートカクテルを口に含んだ。




「――――・・・」

 ・・・鼓動の様に高鳴っては沈む鈍痛と風邪のような悪寒に、徹は目を覚ます。ゆっくりと開かれた眼に光はまだ宿らず、意識もぼんやりしている。

 ―――寒・・・

 思わず口を衝いて出た一声に違和を感じたが、それが何であるかを考える程彼はまだ覚醒してはいなかった。真暗で何も視えない辺りの情報を手探りで得ようとして、殆ど無意識に手を延ばす。だが、ぐらりと身体全体が傾き、冷たい床に顔から倒れる。

 ドサッ

「ん―――っ・・・」

 冷たさと衝撃につい声を上げる。呼吸をするのがいつもより苦しく、身体が自由に動かない。苛立ちに歯を食い縛った時、ぐにゃりと弾力のある何かが徹の歯に当った。

「―――・・・っ」

 嫌悪感がして徹は顔を逸らした。だがそれは徹の口許くちもとから外れる事は無い。床に顔を擦りつけた時、口と床の間に薄い隔たりを感じて、徹は頭が真白になった。

 ―――口を塞がれている。

 徹は身を捩らせ腕に力を入れる。しかし、ギリギリと突っ張る感覚が背後でし手首が痛むだけで、決して自分の身を支えてはくれない。縄か何かで縛られているであろう事は、考えなくとも本能が警鐘を鳴らしている。

「・・・・・・・・・」

 徹は凡てを思い出した。が、信じる事が出来なかった。心当りなど無い筈が無い。自分が清廉潔白な存在でない事を彼は認めていたし自分がこんな目に遭う筈が無いと自惚れる様な人間でもなかった。それでも唯一信頼していた人達が自分を貶めるなんて事は考えた事が無く、彼等に実は疎まれていたなど想像してもいなかった。

 ・・・・・・俺の何がいけなかったのか。

 徹は鼻の奥をつんとさせる何かを、否応無く口内の布を濡らす唾液と共に呑み込んだ。



「尚輝。お前は名実共にこの店の看板だ。商品ブツの引渡しは奥で俺がやる。動揺見せてエースを心配させたりするなよ」

 開店直前。スタッフはチーフとナオキを除いて全員が表へ出ていた。ナオキも店に常備しているスーツに着替え、とんとんと階段を下りて来た。

「あれ?確かに今日エースの子来ますけど・・・何でわかったんすか?」

「お前の顔見てれば判るさ」

 チーフはタバコの火を揉み消した。彼等の業界では自分達に一番お金を使ってくれる良客の事をエースと呼び、殊更大事に扱う。

「お前の顔はエースが来る日は鼻の下が伸びてますます締りが無くなるんだよ」

 彼等の、というかナオキのエースは彼等と同業の若い女性で、秋華しゅうかといった。彼等と同業なだけあって気遣いも出来て、お金の使い方も上手く、勿論美人で、異性の扱いにも長けていた。この女性とは店の外で会う事も多く、プライベートで一緒に遊びに行ったりもする。

「・・・呑まれるなよ?」

 チーフは眉をひそめて忠告する。どうやらチーフの眼には、ナオキは一客に過ぎないこの女性に感情移入している様に見えるらしい。

「はいはい。・・・それより、本当にいいんすか?」

 ナオキはチーフの痛い視線をサラリと躱すと、子供の様に首を竦めて尋ねた。

「何が」

「マコト。チーフ、アイツの事結構ー気に入ってたじゃないんすか」

 ・・・・・・。チーフは顰め面の侭ナオキを一瞥すると、溜息を吐いてタバコをもう一本取り出した。

「・・・・・・仕方無いさ。アイツはとんでもない所にケンカ吹っ掛けたんだからな」

 ライターを一旦タバコから少し離れた所で火を点け、それから両手をタバコの傍に近づけて上品に燻らせる。店内では統一して、ジッポー等のライター以外の点火装置の持込を禁止していた。

「・・・尚輝。お前も心しておけよ。此処は見ヶ〆みかじめ料払って営業してるんだからな」

 ―――異性に惑わされて足を掬われない様に。チーフは今一度、未だ軽い調子のナオキに確認を入れた。



 中箱ホストクラブ『Mazak』の地雷と呼ばれる男・ナツメ。彼の接待したい女性、所謂タイプの女性は清廉潔白で飾り気の無い女性だ。素材の美しい女性が好い。つまるところどんな女性かと謂うと、そもそもホストクラブに来る事が無いような初々しい女性が好きだった。

 よって彼の狙い目はいつも「幹」の連れて来る「枝」である。「幹」とは業界用語で常連客を指し、常連客に誘われて初めて来店する客の事を「枝」と呼ぶ。枝は場慣れしていない女性が多くこちらのペースに持ってゆくのが容易な上に、指名がまだ決っていないので自分を指名して貰える可能性がある。指名を貰えば自分がその客の担当となり、指名料を貰える上に余程の事が無い限り指名を変える事は出来ないシステムの為に一度手に入れると安泰だ。金の絆というのは浮気やき等の個人差が無く、ある意味心と心の繋がりよりも裏切りが無く美しい。タイプの女性に指名を受け易く、お金を貰って束縛する事が出来るなんて何と幸せな事なのだろう。


 客がそれなりに入り、指名を受けているホストが出払って店内のテンションが上がる中、新規の客が来店した。送り指名もヘルプ指名も受けておらず、店内でお茶を引いていたナツメが必然的に接待をする事になったのだが、その客がまさに「自身が接待したいと思っている」タイプであった。

「ようこそお越しくださいました!お嬢様」

 手袋をしていても華奢であると判る手の甲に唇を落す。男の大きな手にすっぽりと包まれた手袋の布がぎこちなく擦れる。男に慣れていない証だ。

 尋常でない店の活気にその客は瞠目していた。既にセッティングの済んでいる席へ案内する。

「こういう所は、初めて?」

「ええ、まあ」

 客は曖昧な口調で答える。居心地が悪そうだ。そういうところも好感を持てる。

 枝ではなく単独客だった。最近流行りの「おひとりさま」というものだろう。ひとりホストクラブをしに来る者も在ない事は無い。・・・かなりイタイ客ではあるが。

 度胸があるというよりは空気を読まないタイプのようで、その衣装はまるで葬式帰りみたいだった。しかしそのかっちりさが妙に引き立つ。黒い喪服も、それに合わせた手袋も、逆にその合間から覗く手首のか弱さを強調していた。こういうところで女性を感じる。

 染色経験の無さそうな傷みの無い黒髪や吸い込まれそうな黒い瞳が此方側に堕ちるとどう乱れるだろうという下心を隠しながら、ナツメは女性をソファに座らせた。

「じゃあ、軽く説明させて貰うとね、さっきボーイさんからファイルを受け取ったと思うんだけど」

「えと・・・これの事でしょうか」

「そうそう♪コレ、ホストファイルっていうんだけどさ、例えば、ほらオレのトコ。生年月日は8月29日。もうすぐだから祝いに来てね♪血液型はA型、好きなタイプは清純な感じのコ。その点でキミはめちゃ合格」

「はぁ・・・ありがとうございます」

 女性はたじたじと微笑んだ。そこも叉理想的ではあったが、視線はホストファイルを物色している。ナツメは静かにファイルを閉じると、女性の顔を覗き込んで、その唇に指を当てた。

「・・・あの」

「―――本当は、そのファイルの中からキミの好みのキャストを選んで貰って、そのキャストがキミの所に付くって事になってるんだけど、生憎今は全員指名済でね。今日はヘルプとしてボクが付かせて貰うけど、いいよね?」

 女性が軽く溜息を吐く。ナツメはそれを困惑と受け取り、どんどん攻め気になっていった。たとえホストが出払っていると謂えど、客の同意無しにヘルプに付く事など通常は在り得ないが、初心である事に付け込んでみたのだ。

 膝の上に乗せている手の細指に己の指を絡める。ひらひらとした深いスリットの長衣に覆われた膝がびくりと震えた。

 意外と臆病なのかも知れない。だがそういう者ほど堕ちればのめり込んでいく。ナツメは釣りの様な感覚で身を引き、頭を上げた。

 すると・・・先輩と眼が合った。

“―――こっちへ来い”

 先輩が眼を吊り上げ、奥へ来るよう陰から合図をする。次いで、スマートに接待を切り上げて自ら奥へ引っ込んだ。ナツメは頬をひくつかせる。何やら相当おかんむりの様だが・・・

「ちょ、ちょっとごめんね」

 先輩には逆らえないのは、この業界に於いても同じである。それに、呼び出しをしているのはこの店の看板とも謂える実力者ナンバー・ナオキ先輩だ。応じなければ明日自分の出勤札は消えているかも知れない。放置になるな・・・と思いながらも女性客の元を離れる。

 真っ直ぐ背筋を伸ばした姿勢をキープして見送る女性を背に奥へ引っ込むと、怒り心頭のナオキ先輩が胸倉を掴んで引き寄せてきた。

「―――オマエ、今自分が爆弾やったって解ってんよな?」

「―――へ!?」

 爆弾というのは、ホストが決してしてはならない行為の事を指す。例えば、他のホストの指名客と仲良くなろうとしたり、指名客の担当ホストが不利になるような発言をしたりする事である。つまりは出し抜き行為で、新規客に対しても指名が決るまではキャストではなくボーイが付き添って出会いの機会が平等となるようにするのが望ましいとされている。

「あの客は俺の常連なんだよ。わかったらちょっかい出すんじゃねえ」

 ナオキはナツメをどんと突き放して表へ出て行った。そして先程までナツメが接待していた客の元へ真直ぐに突き進む。当然のように女性の真隣に座り、先程の剣幕が嘘みたいな人の好い顔をして談笑を始める姿を、ナツメは未だ状況を掴めないといった眼で追っていた。

 ・・・・・・あの女性は新規の客ではないのか?


「悪かったな、秋華しゅうか。アイツきもかったろ。手の甲にキスとかお嬢様とか、アキバの執事喫茶でやってろって感じだよな」

 ナオキは席に着くと、いそいそとすぐに客用の酒を作り始める。流石お茶引きとナンバーの違いだ。ナオキの方が仕事が早く気が利く。しかし、女性客はねめつける様に眼を細めると、ホストファイルを手許に引き寄せ

「―――マコトクンという方が気になっているのですが」

 と、指名替えにも似た発言をした。ナオキはギクリと顔色を変える。

「しゅ、秋華?同業だからわかると思ってたんだけど、此処ホストクラブは永久指名制・・・

「私はシュウカという名前ではありませんよ」

 ―――ナオキは暫し、自分は酒に酔っているのかと思った。この業界に入って店泊を繰り返した結果、朝まで飲み明かしてもその足で帰れる程強靭なアルコール耐性をつけた筈だが。

 沈み切った黒の双眸でナオキに問い掛けるのは、徹の行方を捜しに来た秦珪であった。


「ちょっと!困りますよお客さん!」

 ボーイの張り裂けるような声が奥から聞え、女性客は皆愕いて厨房の方を向いた。慌てて奥へ引っ込むナオキの後ろ姿が見える。

「ええっ、何?」

「ナオキさんが入って行ったけど・・・」

 不安になり娯楽どころではなくなる女性客達。場の雰囲気は一変して野性じみた緊迫の情況となるが、それを落ち着かせるのもホスト達の技術だ。

「ああ、別に心配する事は無いよ」

 柔かな物腰とオトナな言動が人気のハーフのホスト・ログストが作った酒を担当の客に渡す。お湯で割られたジンジャーのお酒は、昂った客の神経を解き解す作用をもつ。

「お客さんがスタッフルームに入って行ってしまう事があるんだよ。ボーイが新人だからそういうのに慣れていなくて、愕いたんだろうね・・・ごめんね?不安にさせて」

 ゆいちも別の指名客の席で、持前のキャラを使ってネタにして盛り上げる。

「いやぁーこの手のドッキリは焦るよね!厨房の中なんて、もう皆素だもん!やっぱ女のコに会う時って、スッゴい気合い入っちゃうもんね!」

 こういう身の危険を感じている時だからかも知れない、女性客達はすぐに絆され、リードするホストにますます惹かれてゆく。

「迷惑な客もいたもんだよね」

「あたし達はそんな客にはなりたくないよねー」

 ホストの味方こそすれど疑わず、むしろ自戒の意味を込めて今回の騒動を見送った。彼等自身が危険な狼である事も忘れ。


 ―――気配を消した秦珪が、ナオキやナツメといった追手を避けて厨房の更に奥へと進んでゆく。足音を立てない秦珪の速歩はやあしは、まるで鎌鼬かまいたちの如く鋭利でありながらも風を切る程度の感覚しか判らない程であった。

 勝手口に通ずる部屋の扉を開ける。

 其処に徹の姿は――――・・・・・・無かった。

「・・・・・・ちっ」

 秦珪は思わず舌打をした。

「間に合わなかったか」




 ―――神奈川の港。チーフはタバコを燻らせながら、取引相手を待っていた。



 ホストクラブを含む風俗系の職業でありがちなのは『暴力団との繋がり』である。繋がりというと相補的な関係をイメージするかも知れないが、ホストの側から彼等に近づく事は稀で、開業すると或る日突然暴力団員が押し掛けて来る。そして、此処は自分達のシマだから、上納金を払えと請求するのだ。代りに厄介な客が来た場合は用心棒になってやると唱えて。

 現在は法律が強化され、見ヶ〆料を請求されても応じない事が可能になっているが、暴力団の御蔭で店をこんなに成長するまで置けたという経緯を持つ『Mazak』は、おいそれと切れぬ関係にあった。

「・・・・・・」

 そのような相手に、喧嘩を売るとは。

 元締め『君津会』からは『マコト』の身柄を引き渡せば店には手を出さないと言われている。『マコト』が一体何をやらかしたのかをチーフは知らないが、君津会がこのような過激な手段に出たのは、やはり山口組と契を結んだ事が大きいだろう。

 ・・・・・・チーフは、煙と灰を風に散しながら夜の東京湾を見る。


 さざなみの音から、徹は自分が運ばれた場所や、これから自分を待ち受けるものについてある程度の想像がついていた。徹は布を噛み締めはしたが、声を上げたり身を捩ったり等の抵抗は殆どしなかった。この様なはこの中でくぐもった声を上げたところで外に聞える訳が無いし、何よりナオキに殴り倒され、チーフに拠って此処に連れて来られた事が応えていた。

 もう自分には帰る所も無い―――

「あんたか」

 ―――チーフの声が、やけに近い所で聴こえた

「例の商品ブツを運んで来た」

 徹は息を呑んだ。かくれんぼをしている時に鬼がすぐ近くに迫って来た、そのような緊張感だった。それとは比べ物にならない恐怖だが。

「―――商品ブツは一体、何でしょうか」

 取引相手の声も聴こえてくる。

「・・・・・・あんたが知らない筈は無いだろう」

 チーフが怪訝な声で言った。

「勿論です―――ですが、念の為に確認をしたいと思いまして」

 ふと、ここで徹は取引相手の声にも聞き憶えがある事に気づいた。我が耳を疑い、思わず頭上を仰ぐ。しかし見えるのは、圧迫する天井。

 ・・・の、筈だった。

 が。

 天井が、剥される。

「・・・・・・っ」

 徹は落ちて来る天井の埃を、ただ呆然と眺めている他無かった。天井の内側に滑り込む指が細くて黒い事が、徹の予感を確信に変える。

 ・・・秦珪だ。

「なるほど・・・確かに、私の想像していた通りの商品ブツです」

 秦珪は念入りに確認する振りをして徹の上腕を縛める縄を切る。ナイフを後ろ手の掌に収まるよう中へ落すと、コンテナの蓋を閉めた。

「でも完璧すぎて調理に迷いますねぇ。貌がいいので性玩具にも使えそうですし、体力も有りそうなので労働力にもなりそうです。肝臓が少し難点ですが、まだ若いですし他の臓器はばらして売っても結構な高値がつきそうで」

 私が欲しい位ですねぇ・・・♪

 うっ。話題が話題でも秦珪らしいコメントに、せっせと縄を解いていた徹は顔色を蒼くする(暗いのでよく見えないが)。物騒な話をよくもまぁ嬉々として。

「―――港に運んで来いって、マコト(コイツ)を何処で捌く心算だ?ウチの店は確かに港が近いが」

 チーフ自身がスラリとした体型ではあるが、それよりなお華奢であろう秦珪の顔色を窺いながら慎重に問う。どうやらチーフは秦珪を取引相手に重ね、完全に当人と思い込んでいる様だ。

 ・・・・・・猿轡を外し完全に自由を取り戻したところで、徹は気づいた。自分はここで助かって、どうする心算なのだろうかと。

 自分にはもう、何も無くなってしまった。注意してくれる人間も、保護してくれる人間も。最早生きている意味などあるのだろうか。このまま恐怖を乗り越えて、せめて最後に彼等へ恩返しを―――・・・

「居たぞ!」

「例の女だ!」

 店のスタッフから荒しが出たと通報を受け、秦珪を追って来た君津会の団員が彼等を遂に見つける。

 例の女と言ったように、君津会の団員はブツの存在に気づき店を飛び出したのは女性客だと聞いている。今回は籐廼組の籐廼唯恭には会いたいどころか想像にも浮んでこなかっただろう。

 同時に、チーフがブツを引き渡そうとしている相手が取引関係の者に視えよう筈も無かった。

「うるらぁ東城ーーー!!テメェ、裏切りやがったなーーー!!」

「!?」

 無論、チーフには取引相手に映っている為に何が何だか解らない。

 ゴッ!

 君津会の団員が、裏切者だと思い込みチーフを殴り飛ばす。凄まじいまでの衝撃音と人が倒れる音に、徹が思わずコンテナの蓋を細く開くと、すぐ傍には呻き声を上げ、助けを求めるように手を伸ばして腹這うチーフと。

「来い!!中国辺りに売っ払って遣る!!」

「ウチの業務を邪魔した償いはオマエんトコの女どもの身体で果して貰うからなぁ!!」

 秦珪の腕を両側からがっちりと掴み、踵を返してすぐ近くに停まる夜闇に黒光るやけに高級たかそうなセダンに連れ込もうとする男達の姿。秦珪はささやかな抵抗を示したが、力んだ腕は動きをぎこちなくさせるだけで、引き摺られるように足がセダンの方へ進む。


『秦 珪は強い訳じゃない』


 ・・・ほんの数時間前に交したマスターとの会話を、徹は今、想い出した。

 女子供や部下、貧乏人・・・・・・相手が弱者を投影している時、秦珪の存在は弱いものとなってしまうと、あのマスターは言っていた。その者が庇護している対象が投影されていては秦珪にとって最悪な相性だと。

『自分の言動に責任を持つ様にね。君の一挙一動が、秦 珪を危機に追いやる可能性がある事を忘れないで』

(女―――)

 ただ性別をそう見られるだけで、こうも弱々しくなってしまうのか。更に、徹自身もそうであったように、暴力団とは自身を“貿易に出(人身売買)される”危険を孕む、絶対的な存在でもある。

 秦珪が此方に顔を向けた。普通にただ道を歩いていたなら決して風俗嬢になど見られはしない、寧ろ聖職者の様に潔癖な素顔。

 奈都なとと重なる秦珪の表情。庇護欲と罪悪感が湧き立たされる。自分が現実から眼を背けている内に、二人も汚れ無きか弱い者を蝕んでしまった。

 ―――守らなければ。

「―――ッ。秦珪!!」

 徹は蓋をなげうつ様に開き、ドラム缶から飛び出した。爪先を縁で踏ん張らせて跳躍すると、真直ぐに秦珪の立つ背へと突っ込む。

「伏せってろッ!!」

 秦珪はちらと振り向いたが、らしくもこの状態でですか、と問う。組まれた腕の御蔭でついと首をすくめる事位しか出来ないが。

「ああ。それでいい」

「!」

 秦珪が出来うる限り身をよじらせ、頭を下げるべく前のめりになる。直後、頭の上を風が切り、両側を支えていた屈強な男達が顔を押え倒れていった。

 ドゴォッ!

 ・・・・・・徹の蹴りが両者の顔面に見事にヒットしたらしい。

「あんたは俺が思っていたよりも背が低いみたいだからな」

 支えを失ってバランスを崩す秦珪を覆う様に抱き留める。すっぽりと自分の身体に隠れてしまいそうな体躯は、明らかに奈都とは異なるものだ。奈都にはこうして触れた事は無いけれど。

 触覚は嘘を吐かない。


 ウゥ~~~~~・・・

 パトカーのサイレン音が聞え始める。


『神奈川県警警察本部!山下埠頭にて暴力事件発生!周辺に居る方々は近寄らないでください』


「く・・・ッ」

 団員がよろけながら車に乗り込んだ。しかし既に取り囲まれているに違い無い。捕まるのも時間の問題だろう。

「秦珪か―――?」

 徹が唖然として秦珪に訊ねる。誰が警察に通報したのか。秦珪自身は大方マスターに目星をつけながらうんざりとした溜息を吐いた。徹はごねるだろうが、しかし其が彼の大切な人を守る最も確実な方法だ。

「いえ。それより徹クン、行きましょう。此処に居ては私まで捕まってしまいます」

「捕まるってあんた何を―――・・・ああ、そうか」

 問おうとしたがすぐに納得した。厄介者を捕まえてさっさと終らせようと躍起になっている警察の事だ。秦珪が犯人に視えるであろう事は目に見えている。

「でも俺は―――・・・「行きましょう徹クン」

 チーフが―――と、案の定徹が秦珪の唱えに異を呈した。押し出す様に秦珪の背から身体を離し、自分の腕から解放させた。行け、と。秦珪は振り返った。だが、次の瞬間視界が揺らぎ、秦珪のその時の表情が徹の眼に映る事は無かった。頬を熱いものが奔る。

 奈都にされたにしては多少手荒が過ぎた。しかし、頬を滑る手の平の透明感は、手袋の上からでも充分に伝わった。

 秦珪が徹の胸倉を掴み上げる。

「来なさい」

 平手打ちは痛かった。心の方もシクシクと痛む。だが項垂れた侭動かない徹と同じ目線に秦珪が立つには、秦珪が徹側に引き寄せられるしか無かった。

「・・・・・・あなたには私を護る義務がある」

 秦珪は苛立たしげに言った。

 だが、徹の耳に秦珪の声は、驚く程に響かなかった。チーフとの付き合いは秦珪とのそれの何十倍も長い。長いだけでなく濃密だった。長らく好意を向けている相手が危機に瀕しているのをさていて、幾ら救われたと謂えど―――昨日今日出会った人間の方を択ぶのか。つまり、この時徹の中では完全に奈都と秦珪は分離していた。

 確かに奈都ならばこんな時、徹にビンタの一つや二つ咬ますだろう。だからこそあの手の平の感覚を知っている。

 だが、何れにしろ、奈都に殴られる筋合はあっても秦珪に殴られる筋合は無いのだ。

「―――解りました」

 秦珪は徹の乱れたシャツから手を離す。秦珪としての唯一の特徴である静寂と虚無が海の風を受けて途切れ途切れに存在を示した。

「・・・あなたの心の冷静な部分に、秦 珪自身として言いましょう。冷静に考えて、東城とうじょう 吾郎ごろうを此処で逃したとして、翌日には君津会の手に身柄は渡っている事でしょう。今し方逃げたメンバーは確実に警察に捕まりますから、親玉の山梨組が乗り込んで来るかも知れない。彼は秋華しゅうかという名の別の系列店シマの女性にあなたの身柄を渡すという“裏切り”をしようとしたと思われていますから、先程あなたがされようとした事、いえそれ以上の仕打を彼は受ける事になるでしょうね。それに、あなたが此処に残れば彼の罪はなお重くなる。黙っていれば只の暴力事件として処理されるのが、証拠あなたがいる事で今回の拉致監禁・人身取引が露顕されます。更に未成年に働かせていた事も明らかとなり、罰せられる事になる。彼は犯罪者なのです。いいですか徹クン。少し大人になりなさい。これでもあなたの気持ちを尊重して私も妥協しているのです」

 ・・・秦珪の言う事に反論は見つからなかった。普通の大人であれば問答無用でチーフを警察に突き出し、徹の気持ちや事情など考えずに加害者と被害者に仕立て上げていただろう。それこそが正義だと思われていて、そうしなければ罰せられるから。結局、敷かれたレール通りの行ないが出来なければ壊れた部品を取り替えるが如く排除するのがこの社会だ。

 なのに。

「―――あなたが此処を離れないというのなら、私も叉離れる理由などありません。甘んじて捕まりましょう」

 ―――何故、出会ったばかりの他人にここまで身体を張る事が出来るのか。

 パトカーのサイレンが近づく。辺りが少しずつ明るくなった。それでも秦珪はその場に坐り込んで動こうとしない。

 ―――俺と会ってから既に何度も危険に身を晒しているのに。

 どの様な感慨も読み取る事の出来ない無表情は、悟り澄ました様に安らかにも視える。

 ・・・・・・やっと、徹の答えが決った。

「・・・・・・行くぞッ!」

 徹が秦珪の腕を掴み上げる。余りに軽々しい立ち上がりに、準備していたのかと疑った。秦珪は無表情をやめてくすりと徹を見上げる。


 ―――走る。


秦珪わたしは見つかりそうですか!?」

 あらゆる貨物やコンテナの間を抜け、海浜公園へと到着する。犬の散歩をするおじいさんの前を通り過ぎ、地平線を臨む何組かのカップルに紛れ込む。

「すぁ・・・っ、紗智っ!」

 じいさんは入れ歯が飛び出す程にびびった。だって彼の白濁した視界には、はっきりと自分の孫が金髪のいかにも遊んでいそうな男と夜明けも近いこの時間にいちゃいちゃしているように映ったのだから。

 じいさんの愛犬スコティッシュ・テリアも主の取り乱しように飛び上がって吠える。

「ゆゆゆ、許さんっっっ!!けしからんっ!!」


「・・・知るかよ」

 徹が周囲の眼を気にしつつぶっきらぼうに答える。けしからんという声が聞えた様な気がしたからだ。もう懲り懲りと思っている傍から、叉も厄介な事に捲き込まれる勢いだ。

「・・・タイヘンだな、ほんと」

「済みませんね、本当に・・・・・・」

 秦珪が溜息混じりに謝る。徹はちらりと秦珪の顔を斜めから見下ろす。黒髪に隠される細面は先程の激昂など見る影も無く凪いでいる。

「・・・・・・いや」

 徹は首を横に振った。一見スマートでこざっぱりとした立居振舞いから垣間見えたのは、苛烈な気性と裏腹にある直視せざるを得ぬか弱さ。秦珪の本質に触れたような気がする一方で、その分遠い他人に感じた。

「・・・・・・俺が悪かった」

「?徹クン・・・・・・」

 どことなく他人行儀な徹の態度に、秦珪は首を傾げて言った。

「どうしたのです、まるで記憶喪失の人のような・・・」

 心境としては非常に的を射た喩えだ。向うは自分の事を熟知しているのに、自分は相手の何も知らされていないその感覚。

「・・・警察に通報した方がメリットは大きいと分っていたのに、何故あんたは通報しなかったんだ」

 徹は秦珪に対し問うた。秦珪は海の風を纏い、潮騒に気配を掻き消されながら、儚く其処に居残っていた。奈都の鮮やかな存在を脱ぎ捨ててもなお消えないでいる残り香は、マスターが無いと判断するものと同じだろうか。

「・・・警察は所詮、暴力団と癒着しています。あの団員達もすぐに出戻って来るでしょう。しかし、大っぴらに暴力団の肩を持つ事は勿論できませんから、君津会に裏切者の烙印を捺された東城 吾郎には都合のいい存在でした。でもそれは結果論で、本来は徹クンが身柄を引き渡されて終りの筈でしたから、通報しても私の危険度が増すだけであなたの事は無視される、と踏んだのです。・・・通報した何者かはそこまで考えていなかったみたいですが、結果的に功を奏しましたね」

 秦珪もマスターも暴力団の背後関係についてやけに精しいのが少し気になったが、そんな彼等でなければ今頃自分はこの平和な国に在ないだろう。秦珪がいなければチーフの最後の役には立てたかも知れないが、思い返してみるとゾッとする体験だ。

 俺は―――・・・・・・まだ――――・・・

 死にたくない。やるべき事がまだ残っている。奈都の辿った運命を、俺はまだ半分も判っちゃいない。学校でどんな存在だったのかもどうして社会の闇へと堕されてしまったのかも。

「徹クン」

 秦珪が徹の肩に手を置いた。薄情そうな薄く色づきの少ない唇が、外耳に届かず耳朶を擽る。

「髪の色を戻して、学校に通いなさい」

 徹は眼を見開いて秦珪を見るが、今度はこくりと素直に肯いた。

 派手な格好をやめる事で今回の様な事件に捲き込まれなくなるなら願っても無い事だし、そもそもこんな格好を学校は受けつけないだろう。奈都の生活状況について、学校に通えば判るかも知れない。

 それに。

「・・・後の事は、私にお任せして」

 秦珪とは、元来そういう契約を交している。奈都の堕ちた先は一体何処なのか。徹の往けない処を擦り抜けてゆくのがこのドッペルゲンガーの役割だ。そして秦珪なら奈都を見つける事が出来るだろう。今回の事件での手腕を見て、そう思った。

 ・・・・・・自分は自分の生きる世界で、奈都を捜そう。

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