3話 ぜーんぶ悪い夢だから

 三女のハナは毎晩八時ごろに眠る。四歳という年齢の割にとても落ち着いた子だ。いつもは姉の春霞が寝かしつけているのだが、穂積が指示しても素直に従う。ハナを寝かしつけた穂積は、ソファに腰かけテレビ番組を見ていた。佐藤浩市主演のドラマだ。エンディングに入り、浜崎あゆみの歌が流れ始めた。


「……」


 壁の時計を見ると、時刻は22時5分前だった。父が懇親会のため遅くなることはわかっている。ただそれでも、姉が門限までに帰ってこないのは少し不安だった。テレビを消すと、静かな部屋に時計の秒針を刻む音だけが響く。穂積は生唾を飲み込んだ。緊張には強い穂積だが、このときばかりは心臓が早鐘を打っていた。


(まったく何やってんのよ、お姉ちゃんは……)


 がちゃり、と玄関から鍵の開く音。時刻は22時2分前。穂積はソファから勢いよく立ち上がると、玄関まで駆けて行った。


「もう遅いって。心配かけないでくれるかなぁ、お姉ちゃ――」


 そこまで言いかけて、言葉を止める。扉の向こうにいたのは姉ではなく、鼠色の背広を着た初老の男だった。眼鏡を掛け、灰色の顎髭を生やし、厳めしい顔をしている。自らの父親――蜂矢誓一せいいちその人だった。


「……!」


 父の顔を見ると、穂積はすぐさま玄関に正座した。背筋を伸ばして父親に向き直る。手を冷たい床に置き、深々と頭を下げる。


「お、お帰り。お父さん」

「おう」


 父親は憮然として答えた。


「お風呂は沸かしてあるから、いつでも入れるよ」

「そうか」


 父親は革靴を脱ぎ散らかす。穂積は立ち上がると、父の脱いだスーツを受け取る。父はリビングへと向かおうとしたが、廊下で足を止めた。


「おい。春霞はどうした?」

「……お、お姉ちゃんは」穂積は一瞬、言葉に詰まる。「具合が悪いのか部屋で寝てる。風邪かもしれないね。うつしちゃ悪いと思って、そのまま寝かせてるよ」


 咄嗟に出た嘘だったが、それなりに機転が利いているかもと思った。風邪ならば部屋から出てこなくていい。お父さんが風呂に入っている間に至急連絡を入れて呼び戻せば――と思ったのだが。


「呼んでこい」


 父は冷たく言い放つ。


「でも……」

「今すぐあのバカ呼べ! 病気だからといって父親を出迎えない娘がどこにいる! 体調管理は自分の問題だ! 熱が何十度あろうが這ってでもここまで来させろ!」


 父親の怒声に対し、穂積は何も言い返せなかった。その場しのぎの出まかせなのだから連れてこられるわけがない。穂積はつい数十秒前の自分を恨む。こういう父親であることは知っていたはずなのにどうして嘘を――。


 そのとき、がちゃりと音がして玄関扉が開いた。姉の春霞が帰ってきた。


「穂積、ただいま。遅れてしまったわ。心配かけたわね――」


 そこまで言いかけて、彼女と父親の目が合う。春霞の顔がさぁっと青くなる。三人とも一言も発さず、緊迫した空気が流れる。沈黙を始めに破ったのは、父だった。


「……おい」父は穂積へと目を向ける「お前さっきなんて言った。春霞は具合が悪くて寝てる、だと? 俺に嘘を吐いたわけか? このバカを庇ったのか?」

「あ、え、えっと、それは――」


 口籠っている途中で、左頬に強い衝撃。勢いよく放たれた父親のビンタに、穂積は吹き飛ばされる。廊下の壁に背中からぶつかり、そのまま座りこんだ。視界がちかちかと明滅して、口の中に鉄の味が広がる。


 父は、玄関の春霞へと目を向ける。春霞は顔を真っ青にして、硬直したように棒立ちになっている。いつもの冷静沈着な面影はまったくない。


「おい、今は何時だ」

「……」

「答えろ! 何時だ!」


 父が大声で怒鳴ると、春霞は腕時計を見た。手はぶるぶると震えている。


「じゅ、10時3分です……」

「門限は何時だ」

「じゅ、10時……です」蚊の鳴くような声だった。

「そうだ。なぜその時刻か分かるか」

「そ、それは……」


 父は春霞の横っ面をひっぱたいた。ばちぃん、と大きな音がして春霞が吹き飛ばされる。父は倒れた彼女の髪をむんずと掴み、廊下へと引っ張り上げる。


「い、痛い! 痛い痛い痛いぃ……っ!」

「痛くしてるんだから当たり前だ、バカが」


 父はその顔をさらに数回ひっぱたいた。春霞は叩かれるたびに悲鳴を上げていたが、最終的にはすすり泣くだけになった。頬は真っ赤に腫れ上がっている。父は春霞の長い黒髪を掴むと、無理やり顔を引き上げた。


「分からんか? お前がどこの馬の骨とも知らん男を

「……う、うう」

「今日はどうした? どこの誰に抱かれてきた? ええ?」

「ち、違います! 今日はサークルの飲み会で、それで少し抜けられなくて……」


 父は無言で春霞の顔を殴った。悲鳴を上げて廊下に倒れる春霞。父はさらにその下腹部を躊躇なく蹴り上げた。つま先が腹に突き刺さり、春霞が顔を歪める。


「全てはお前が撒いた種だろう! 俺の顔に危うく泥を塗るところだった! それなのに性懲りもなくまたお前はそうするか! こうしなければわからんか、ええ!?」


 泣きながら必死で謝る春霞。その言葉に一切耳を傾けず暴力を加え続ける父。その間に割って入ることができず、茫然と見ているしかない穂積。


 がたん、と二階から小さな物音がした。穂積が階段の上へと目を向けると、ハナの姿が見えた。彼女は階下――父親に蹴られ続けている姉の姿を黙って見ている。


 穂積はずきずきと痛む頬を抑え、階段を昇る。

 突っ立っているハナを優しく抱きしめた。


「……ほづみお姉ちゃん。どうして、しゅんかお姉ちゃんは怒られてるの?」

「なんでもない。なんでもないんだよハナちゃ~ん」

「でも、お父さんが……」

「大丈夫だからさ。お布団に戻って寝ましょうね~。ぜーんぶ、悪い夢だから。さ、お姉ちゃんが本か何か読んであげよっか? ね? 早く寝ましょうね」


 穂積はハナを抱きかかえて、寝室へと向かった。階下からはなおも、父の怒声と姉の呻き声が聞こえていた。悪い夢ならばどれだけかよかったか――と穂積は思う。




 蜂矢誓一は、私大の教授を務めている。彼の専門は教育心理学。簡単に言ってしまえば――人間の心が乳幼児期から青年期にかけて、どのように発達して形成されていくかを研究する学問だ。蜂矢は日本においてその分野の権威の一人であり、テレビ等から意見を求められることも多い。彼は今日も様々なメディアで、青少年たちの心の機微について口当たりの良い言葉を並べる。そしてその一方で、自らの娘たちに家庭内暴力を振るうのだ。

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