10話 追想
世の中には、搾取する人間と搾取される人間の二種類がいる。釧路の父親も搾取される人間の一人だった。お人好しだなんて言われることもあった父親だけど、釧路にとってはただの愚か者にしか思えなかった。親友だからという理由で連帯保証人になり、裏切られ、妻には見放され、子供の養育費を送りながらも返済を行い、自分の生活は顧みず、数年後に借金を完済するも、そのときには彼の身体は完治不能なほどぼろぼろになっていた。
薄汚れた病室のベッドに横たわる父親。頬はげっそりと削げ、髪はほとんどが白くなっていた。道ですれ違っても父と気づかないほどに変わり果てていた。
娘を見ると、彼は起き上がり弱々しい笑みを浮かべた。
「
「来年からは大学だよ」
「まさか、来てくれるとは思わなかったよ。……お母さんは?」
「来るつもりはないってさ。私が会いに行くのも最後まで反対してた」
「そうか……」
薄汚れた病室にいる彼の背中は、小さく頼りない。夕陽を浴びるその姿は朽ち果てた街路樹のようだ。
「でも、よく来てくれたな。本当にうれ……」
「私だってお父さんには会いたくなかったよ」
「……」
「馬鹿だよ、お父さんは。私らがどれだけ怯えてたか知ってるか? どれだけ苦労してるか知ってんのか? お父さんはお人好しなんかじゃない。ただの馬鹿だ。気づかないうちに人に迷惑をかけてる本当にどうしようもない馬鹿なんだよ」
「……そうだな」
父は言い返しもせず、寂しそうに笑う。彼はやせ細った手を伸ばした。釧路の肩に手が置かれる。その馴れ馴れしさに頭がかっとして、釧路は反射的に手を払う。
「触んなよっ!」
躊躇もなく思い切り叩いてしまう。父は一瞬、苦痛に顔を歪めた。やりすぎた、と後悔の念が湧き上がる。それでも父は怒鳴りもせず、やはり寂しそうに笑うのだ。
「……ごめんな」
「……お父さんの、そういうとこが嫌いなんだよ」
釧路はお見舞いの品をベッド横のテーブルに置くと、振り返りもせず病室を出て行く。後ろから「ありがとう」という掠れた声。返事はしなかった。
父が亡くなったのはそれからすぐだった。血の繋がった実の父親だ。悲しみはあった。だがそれよりずっと怒りが勝っていた。父親への――もっと大仰に言ってしまえばこの社会だとか世界だとかへの怒り。釧路自身は絶対に搾取される側には回らない。搾取する側に回ってやると――そのとき誓ったのだ。
(――どうしてだ?)
釧路が初めて
おかしいと思い始めたのは、図書館に行くと常に彼女を見かけることに気づいてからだ。彼女はいつも参考書を広げ、レポートを書いていた。時には手書き、時にはパソコンで。毎日実験があるわけでもないし、どうしてそこまでの分量を書いているのだろうかと疑問に思う。
ある日、釧路は前に座って彼女の様子を眺めてみることにした。こちらに気づくこともなく、丁寧な字で黙々とレポートを書いている。小一時間ほどで彼女はレポートを仕上げた。続いて、彼女は二本目のレポートに取り掛かる。釧路は顔を顰めた。なぜなら彼女が取り組み始めたのは、今仕上げたのと同じレポートだったからだ。だが先ほどの丁寧な筆跡とは違い、今度は字を乱雑に崩している。文面も新たに考えているようだった。
「なんで同じレポート書いてんだ?」
釧路が言うと、少女はびくっと震えて顔を上げた。彼女は手元のレポートを身体で覆って隠す。警戒したネコのような目で釧路を見つめていた。
「ど、どちら様ですか?」
「別に。誰だっていいだろ。なぁ、答えろよ」
「……友達のを代わりにやってあげてるだけです。もういいですか? 集中しすぎて
「そうかい。そりゃ悪かった」
釧路は言われた通りもう話しかけなかった。ただ黙ってその様子を観察する。結局、彼女はその後二時間ほどかけて計三本の筆跡が異なるレポートを作成した。少女が図書館を出て行くと、図書館の入り口近くにある学内喫茶店のテラスに二人の人物がいた。地味で暗めな服装をした少女とは違い、明るく派手に着飾っている。少女は彼女らにレポートを手渡した。彼女らは明るい笑みを浮かべて去っていった。すると少女は安堵したかのように息を吐く。
遠巻きにその様子を眺めていた釧路は、得心がいった。
(なるほど、友達ねぇ……)
要するに彼女は宿題係なのだ。釧路の高校でもよくあった。女子グループの中でそこそこ頭がよく立場が弱い人物が、グループから外されることを恐れて他の人の宿題を代わりに仕上げるのだ。もっともそれは高校という閉鎖的な環境での話で、大学では無縁な話だと思っていた。
(搾取される側の人間か。ま、わたしにゃ関係のない話だ……)
――そう思っているのに、つい学内で少女を見かけると目で追ってしまう。用もないのに図書館へと行き、今日も彼女が一人でレポートを書いていることを確認してしまう。彼女は土曜も日曜も図書館へと来ており、友人たちのレポートをほぼ全て任されているようだった。
始めに声をかけてから二か月ほど経った頃。その日も彼女は図書館前で友人たちにレポートを手渡して、安堵の表情を浮かべていた。
「お前、馬鹿じゃないのか?」
釧路が後ろから声を掛けると、少女はびくっと震えた。
「な、なんですか。またつけてたんですか!」
「友人たちのレポートをやってるだ? 馬鹿を言え。いい加減に気づけ。お前は、あいつらに搾取されてるだけだ。向こうはお前を体のいい道具にしか思ってねえよ」
少女は下を向くと、か細い声を出した。
「……分かってるんです。そんなの」
「……あ?」
予想外の反応に釧路は目を細める。てっきり「あなたごときに何が分かるんだ」と啖呵を切られることも想定していたのだが。
「二人が私を利用してるだけってことはわかってるんです。でも、私はそれでいいんです。利用されないよりは、利用されたほうがよっぽどいいから」
「はぁ? 対人関係だぞ。利用されないほうがいいに決まってんだろ」
「利用されてるってことは、必要されてるってことです。彼女たちは、私を求めてくれてる。利用でも搾取でも、誰かの役に立つなら私は満足なんです。この世界でゴミみたいな価値しかない私が、存在意義を持てるから……」
「だから筆跡も文面も変えてレポート作成ってか? 馬鹿らしいことこの上ねーな」
「あなたに馬鹿にされても、私は幸せだからいいんです。私、今までの人生で誰にも必要とされてきませんでしたから」少女は弱々しく笑った。
「はっ、一々物言いが大げさだな」
「……本当ですよ。誰にも、です。お父さんにも、お母さんにも、お兄ちゃんにも、お姉ちゃんにも、叔父さんにも、叔母さんにも。友達なんかもいませんでしたから」
「そりゃ、気の毒なこったな」
「そう、気の毒だったんです。でも、今はそうじゃない」
彼女はぺこりと頭を下げると、去っていった。夕陽を浴びる彼女の背中は小さく頼りない。その背中はどこかで見覚えのある気がした。
(――どうしてだ)
(――どうして私はこんな終わったことを思い出してる?)
翌日、釧路は午前中から図書館に行った。少女がいつも陣取っていた二階の端に行くも、そこに彼女の姿はない。午後になったら来るかと思い夕方まで本を読んで過ごすも、結局彼女は姿を現さなかった。
参考書を借りて、釧路は図書館を後にする。研究室の居室に戻り、明日の実験準備をしてから帰ろうと思った。その帰途、農学棟の廊下で学部生らしき女子二人とすれ違う。二人はこそこそと何か話している。
「レポートの剽窃?」
「そ。レポートボックスから他の人の抜き出して、文面変えて自分のものにしてたんだって。計算式とかが一致してたのが怪しまれて発覚したみたい」
「真鍋さんてあの大人しそうな子でしょ。裏じゃそんなことやってたなんて」
「しかも常習犯。懲戒退学もありえ……」
真鍋――という苗字が耳に入る。
「オイ」すれ違った二人に声を掛ける。「今の話、詳しく聞かせろ」
ノックもなしに、釧路は学部長室へと入っていく。入るとすぐにデスクがあり、事務員がぽかんとした表情を浮かべている。パーティションで仕切られた向こうには学部長の席。そこから言い争う声が聞こえてきた。
「だからぁ、こいつが私たちのレポートを全部パクってたんですよ!」
「本当にかい? 彼女は入学時から成績も優秀で評価も高いが……」と学部長の声。
「そりゃそうです、私らのをパクってたんですから! だろ真鍋! なぁ!」
「そ、そうです……」か細い声が聞こえてきた。「わ、私がやったんです。ずっと二人のレポートをボックスから抜き出して、盗用してたんです」
「……そこか」
「ちょ、ちょっとあなた!」
釧路は事務員の静止を振り切ってパーティションを超える。三人の女子が学部長の前に並んでいた。二人は着飾ってあか抜けた女。もう一人は大人しそうな少女だ。彼女らはぎょっとして、乱入者の釧路を見つめる。
「な、なんだよあんた」
先ほど熱弁していた女が、釧路を睨みつける。逆に、釧路も彼女を睨み返した。その鋭い眼光にひるんだのか、向こうは気まずそうに目を逸らす。
「噂で聞いたぜ。なんでもこいつがレポートの剽窃をしてたらしいじゃねえか」釧路は少女を親指で示す。「でも、おかしいな。私は図書館前であんたらがこいつからレポートを受け取ってるのを見たけどな。盗用してたのはお前らのほうじゃねえの? 課題をこいつに押し付けて、ばれたら罪をなすりつけか?」
「な、なんだよあんた。証拠もなしに……」
「図書館に行きゃあたんまりと目撃証言があるだろうな。二階で毎日何時間もレポートを書いていたこいつの姿にな」
「うっ……」と向こう二人がひるむ。
「……どういうことだい?」と学部長が怪訝そうに言う。
これで事件は解決だろうと思ったが、
「や、止めてください!」
と大きな叫び声が部屋に響いた。
少女――真鍋が顔を真っ赤にして、釧路を睨みつけていた。
「な、なんで邪魔するんですか! 私は二人の役に立とうとしてるんです! そ、それを何の権利があって邪魔してるんですか。私の幸福の権利を妨げないで――」
「幸福、だと?」
釧路は雪花の襟首を両手でつかんだ。そのまま彼女を背中から壁に叩き付ける。机の向こうにいる学部長が立ち上がって叫んだが、釧路は構いもしない。
「何の権利があって邪魔してるか、だと? てめえがむかつくからだよ! てめえみたいな諾々と搾取を受け入れているような馬鹿が大嫌いなんだ! 幸福の権利を妨げないで? そんなしけた顔で幸福を語んな!」
事務員が飛び込んできて釧路の肩をつかまえる。学部長も協力し、二人は釧路を少女から無理やり引き離した。少女は茫然とした様子でへたりと床に座り込んしまう。女子二人が、逃げるように部屋から飛び出ていく――。
逃げていく彼女らを見て、釧路はかすかに笑った。
(お前らにこいつは、勿体ねえよ)
暴力行為による二週間の停学――それが釧路に下された処分だ。学部長の前であんな真似をしたのだ。むしろ軽い処分と言える。指導教官である柴崎にも話は届き、釧路はしばらく研究室に通うこともできなくなった。当の柴崎は「釧路ちゃんは元気だねぇ」だなんて笑っていたが。
ちなみに少女――真鍋雪花にレポートを強要させていた二人組だが、退学という厳重な処分が下されていた。雪花にレポートをやらせていたこと自体ではなく、罪をなすりつけた点を加味されてのものだった。
釧路はいつもの習慣で図書館へと行く。二階の定位置に彼女がいた。だが一つ前とは違っている点がある。彼女は今日、机の上に参考書を広げていなかった。何もせず、椅子に座って俯いている。
「よう。暇そうじゃねーか」
声を掛けると雪花はゆっくりと顔を上げた。
「分からないんです、何をすればいいか……」ぼそぼそと彼女は呟く。「私、あの二人に尽くすためだけに生きてる気がしてました。でも、あの二人はもういません。だから、何をすればいいか分からないんです。あの二人と会うまで暇な時間は何して過ごしてたか、全然覚えてないんです……。分からないんです……」
「……」
――この世界でゴミみたいな価値しかない私が、存在意義を持てるから……。
ついこの前、少女がそう言っていたのを思い出す。極度に低い自己肯定感。誰かに搾取されることすら喜びとして感じてしまう。だから自分がいわれのない罪で処分されることすら受け入れてしまう。
ならばかけるべき言葉は一つだ。
「――じゃあお前、私のところに来いよ」
「……え?」釧路の言葉に、雪花がぽかんと口を開ける。
「もし何もやることがなくて暇だってなら、私の下で働けよ」
「……何をするんですか?」
「希少生物の販売だ」
「希少生物?」
「天然記念物だとかを捕獲して高値で売り飛ばしてる。それをサポートしろ」
「え? でも、天然記念物の捕獲は犯罪なんじゃ……」
「知ってるよ。そんなことは百も承知でやってんだ。ただ一人でやるには少しきつくてな。犯罪なんだから片棒担がせるにも人選がむずい」
雪花は、渋っている様子だった。不安そうでどうすればいいのか分からないらしい。彼女が待ち望んでいる言葉を、釧路は理解していた。
「私にはお前が必要だ。あいつらと違って搾取なんかじゃない。お前を真に必要としてる人間がここにいるんだぜ」
その言葉をかけた瞬間、雪花の身体がぶるりと震えた。ぼんやりとしていた瞳に輝きが戻ってくる。彼女は釧路を真っすぐ見つめてきた。
「必要、必要……。私が、必要とされてる……?」
「ああ」
「……!」
彼女の頬がほころび、徐々に笑顔になっていく。釧路の言葉に喜んでいることが、ありありと分かった。そんな彼女を見て、釧路は内心ほくそ笑む。ああ、そんなんだから自分が今も搾取されていることに気づいていない。
釧路は彼女を搾取から救ったのではない。全ては、自分がより有用に搾取をするためだった。犯罪の片棒を担がせるのに最も適した人物、それは自分に忠誠を従う愚か者だ。あの二人組はこれ以上なく正しかった。唯一の失策は、それを釧路に知られたことだ。この真鍋雪花という女には利用価値がある。
釧路は天然記念物を密猟して、高額で売り飛ばしていた。だが一人でするには、多くの問題がともなう。動植物の捕獲も困難だし、輸送手段も確保せねばならない。そして何より一人では逮捕されたときに言い訳ができない。真鍋雪花という女は、サポートにも罪のなすりつけにもぴったりの存在だった。彼女は自分が必要とされていると勘違いしている。いざというときには、彼女がすべての罪を引き受けてくれるだろう。要はトカゲのしっぽ切りだ。
(私は、ありとあらゆるものを搾取する立場になってやる。こっちを妄信してくれるなんてありがてえじゃねえか。存分に利用させてもらうぜ)
そう、釧路が雪花を救ったのは搾取するためだ。
だが一つだけ、自分でも納得いかないことがある。学部長室に乗り込んだとき、釧路は演技ではなくて本気で彼女にむかついていた。あんな真似をしなくともこの女を篭絡させる方法はいくらでもあっただろうに。これではまるで――自分が本当に雪花を救いたくて「実は搾取するためだった」と言い訳しているみたいじゃないか。
(……ありえねえ、な。どうしてこんな奴を救う必要がある。私はお父さんが死んだとき、搾取する側に回ってやるって決めたんだ。こいつを助けたのもそのためだ)
釧路の思惑に気づきもせず、雪花は釧路を大いに慕いいつも後ろをついてきた。同じ研究室にまで入る始末だ。自分が搾取されていることにも気づかず、にこにこと楽しそうに笑っている。自分が必要とされていると、本気で思い込んでいる。こうして美味しそうな飲食店を紹介するのも、全ては彼女を手なずける方策だというのに。いざとなれば、釧路は平気で彼女を見捨ててしまうのに。
そう、釧路は自分の身が一番大事で、いざとなれば彼女を見捨てる。
それなのに――。
(どうして私は、こんな真似を……)
腕の中にいる雪花は泣き顔を浮かべている。自分の頭部から途方もない量の血液が流れていると分かった。木槌の撃った銃弾が、脳に入り込んでいるらしい。思考がぼんやりとする。視界が明滅し、暗くなっていく。
どうして自分がこの状況で雪花を庇っているのか。答えは簡単だ。ここで雪花を死なすわけにはいかない。雪花には利用価値がある。釧路は雪花を搾取する立場だ。むざむざと、木槌に殺させるわけにはいかない。これから先もずっと雪花は釧路の道具なのだから。
(そう、ただそれだけだ――)
そう自分に言い聞かせながら、釧路の意識は闇に沈んでいく。
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