I Could Have Danced All Night

手を振りながら早足でこちらにやってきて「おはよう、待った?」と問われる。「いや、全然」この慣例は、どんな時代になっても残りそうだ。


「今日の君は、ずいぶんとお嬢さんってかんじだなあ」

 いつもポニーテールの髪はハーフアップにまとめられ、華やかな印象だ。水色と白のストライプ模様の開襟ワンピースが、これまたよく似合うのである。ウエストから膝の下まで、ふんわりと裾が広がる。ウェッジソールのサンダルはヒールが厚く、すこしばかり目線の高さが近づいた。

 彼女はちょっと気取ったふうに、くるりとターンをしてみせる。ワンピースの裾がきれいに弧を描いた。


「あなたはいつもコレね」

 おれのポロシャツの胸ポケットのアンブレラマークを指差す。

「ファッションに詳しくないし、いつもコレになる」

「このブランドにこだわっているわけではなくて?」


「うーん、幼稚園の時にさ、靴箱とか荷物とかを区別するために、園児一人ひとりにその子だけのトレードマークが与えられてたんだ」

 すでにロッカが「なるほどね」とニヤつく。

「母が先生に『啓吏くんってカッコイイお名前ですね』って言われて、由来を教えたらしくてさ。それが原因なのか、俺のは傘になった。卒園までずっとだよ。母もそれを面白がって、俺に傘マークのものばかり……そのまま愛着がずっとあって」


 そんなことを話しているうち、駅からほど近い喫茶店にたどり着く。入口には埃っぽい食品サンプルが並んだ硝子ケースがあって、経年劣化でひどく焦げたように見えるピザトーストや「ナポリタン」の札を添えられながら蕎麦の色に変色しているサンプルを横目に入店する。


「傘のマークがいやになったりしなかったの?」

 壁際の席に落ち着いてなお、興味があるらしく問いかけてくる。

「思春期の頃はちょっといやだったな。いつまでも幼稚園でもらったマークを掲げなきゃならないなんて。でも、こんなこと言うのは、おこがましいんだけど」

 店主とおぼしきおじちゃんがお冷を持ってきてくれて、引き返すのを待ってから言葉をつなぐ。


「ジーン・ケリーは好きだし、ものすごく遠い親戚のおじさんみたいに思ってる。血の繋がりはない代わりに、同じトレードマークを持ってるつもりだ」

「いいじゃない。だってあなたは、彼に名前をわけてもらったんだもの」


 店内にはおれたちと店主しかいなかった。白いレースのクロスの上に、透明ビニールが重ねられた丸テーブルのつらなりが鈍く光って見える。

 飲み物や油のシミがついた品書きに目を落とし、ミックスサンドとフルーツサンドでえんえんと迷っているロッカを無視しておじちゃんを呼んだ。

「ちょっと待ってよ」

「ミックスサンドとフルーツサンドをひと皿ずつ。あとレモンティーをアイスで。君は?」

「……アイスロイヤルミルクティー」

 おじちゃんは伝票にメモを取り、ひとつ頷いて去っていく。


「どっちも食べたいんだったら、どっちも頼んで半分ずつ分けたらいい。蕎麦みたいなナポリタンも惜しいけど」

 ロッカはすぐ隣の壁に頭をもたせかけて「ふふ、ありがと」と笑った。無防備だった。

 

 運ばれてきたサンドイッチの皿には、どういうわけか両方に小盛りのナポリタンが添えられていた。

「会話が耳に入ったので。ウチのナポリタンがおソバだと思われっぱなしなのも困りますからね。サービスですよ」

「えっ、ありがとうございます」

 気恥ずかしそうに手を振って、おじちゃんはふたたびキッチンのほうへ引っ込んでいった。

 大皿ふたつと、それぞれのサンドイッチを半分ずつ取り分けた皿もふたつ、飲み物のグラスふたつでテーブルはいっぱいだった。ナポリタン、野菜やタマゴサラダやハムにチーズのサンドイッチ、生クリームに埋もれた果物たち。


「なんだかお子様ランチみたい」

 いくばくかの間テーブルを見つめてから、フォークに巻かれた紙ナプキンを外してナポリタンから食べ始める。

「ナポリタンにもサンドイッチにも、特別な思い入れがあるわけではないのに、なんか懐かしいなあ」

「わかるわ、そういうものってあるわよね。私は、あの、ほら」


 フォークに巻いたナポリタンを一口運んでから、

「ゼリーとグミの中間みたいな、砂糖をまぶしたフルーツ味のお菓子」

「ああ! わかる、アレだろ、名前が出てこないけど」

「特別好きじゃないし、あっても気にはとめないのに、無くなったら寂しいの」

 この街には、そういうものがそこかしこにある。どこからやってくるのかまるで判然としない、郷愁や慕わしさがそこらじゅうに漂う。


「そういえばさ」

 サンドイッチに塗られたマーガリンの風味が、舌の上で後をひく。

「このまえ、君のとこの煙草屋に行ったとき『ごめんください』って言葉が自然と出てきたんだ。何年ぶりに使ったのかわからないよ」

「へえ、キリコさんと顔を合わせたのね」

「キリコさんっていうのか。レミーは勝手にジョルジェットって呼んでるけど」

 ジョルジェットというのは、フランス映画の『アメリ』に登場するカフェにある煙草屋の女性である。レミーもまあまあ、ひねている。


「これ、彼女にやってもらったの」

 ロッカは横を向いて、ハーフアップのヘアアレンジを指した。なんと呼べばいいんだ、三つ編み? 編み込み? 女子のオシャレに無縁の俺には、よくわからないが複雑に見える。

「すごい。器用だな。よく似合ってる」

「そうなの。いったいどこで覚えたのかしら」

「煙草屋の前は美容師だったとか。パーマネント・キリコの店長」

「やめてよ、想像しちゃったじゃん」

 しばし各々のパーマネント・キリコの妄想に耽り、各々ひとりで笑いはじめて食事に手をつけられなくなった。


 はあ、と息を落ち着かせてロッカが言う。

「彼女は多くを語らないわ。若い頃に恋人を追って華汀に来たとか、駆け落ちに失敗したとか、似たような噂話はたくさん聞くの」

「ミステリアスだな」

「今はあそこの煙草屋兼大家さんなの。でも部屋を借りてるのは私だけで、煙草屋だって儲かってるようには見えないでしょう? じゅうぶんに生活を賄えてるのか、正直に言って疑問だわ。家賃は月々三万円だし」

「やっす」

「キリコさんについて私がわかるのは、料理の味付けが濃い、派手な色と花柄が好き、月に一度宝くじを買う、それだけ」

 ロッカは三本の指を立て、どことなくニヒルな表情をつくってみせた。


「宝くじでとんでもない額を当てたのかも」

「その説もあるわね。でもまあ、わからないから面白いのよ」

 ほどよく冷房が効いていた店を出た瞬間、全身が夏の熱気に包まれ「暑い」と反射的に言ってしまう。炭水化物で胃が膨れてけっこうな重たさだが、俺たちは高台にある名画座に向かわねばならない。左舷市はとにかく坂が多いのだ。


 住宅街を分け入る、ゆるやかな石の階段をのぼる。一段ずつ微妙に段差が違い、じわじわと体力を消耗して汗が垂れてきた。セミの鳴き声の合間に、どこかの民家の軒先から風鈴の音が聞こえる。

「こんなところに映画館が?」

「あるのよ、もうちょっと頑張って」


 数歩先を行くロッカの額にも汗が滲んでいたが、軽やかにぽんぽんと進んでいく。

 暑さとともに「どこから来るのかわからない懐かしさ」が相変わらず俺を取り巻いている。例のゼリーだかグミだかわからない菓子の甘さと、セロファンのような鮮やかさが空気中に溶けだし、そこらじゅうに散らばっているような。そんな空想を、やはりどこかから漏れ聞こえるテレビの笑い声が霧散させる。


 坂を登りきり、例によって小奇麗な住宅の建ち並ぶ通りを歩いていくと、断崖絶壁と言って差し支えないところにその名画座はあった。

 薄桃色の小さな建物で、両開きの硝子扉の上に掲げられたプレートには〈はしご座〉と角の丸いゴシック体で綴られている。その脇に、三日月にかけた梯子を登る少年のシルエットが描かれていた。


 入口脇の掲示板には、館名のプレートと同じ書体で「上映のおしらせ」の文字があり、いったいどこから引っ張りだしてきたのか『パリの恋人』と『マイ・フェア・レディ』の見るからにヴィンテージなポスターが貼られていた。

 思わず「うわあ」と声を上げ、スマホで写真を撮る。


「エスエヌエスとかいうやつに載せるの?」

「いや、家族に自慢する」

「仲良しね」

 俺たちがそんなやりとりをしている間にやって来た別のお客も、俺と同じ反応をして、俺と同じく写真を撮りはじめた。それを横目に、重厚な硝子戸の取っ手を引く。


「あらあ、ロッカちゃん。いらっしゃい」

 入ってすぐ、スタッフ証を提げた私服のおばちゃんが声をかけてきた。ロッカは親しげな笑みを浮かべる。

「お久しぶりです」

「ホントよお、いつぶりかしら?」

「『俺たちに明日はない』と『パブリック・エネミーズ』の時にジョージさんと来ました」

「そうそう、そうだったわねえ。もっと観に来ていいのよ」

「ふふ、こっちのバーにも来てくださいよ」


 おばちゃんはロッカと話しながら、チラチラ俺を気にしていた。気付かないふりをしてやり過ごし、会話が終わるのを見はからって互いに会釈をした。

「あらやだボーイフレンド?」などと言われようものならどうしよう、と勝手に気にしているのが勝手に恥ずかしくなった。中学生男子か?


 ラーメン屋にあるような券売機でチケットを買い、おばちゃんに半券を切ってもらう。

 待合ロビーには、使い込まれて革がやわやわになったソファーが並び、壁には雑誌や新聞の映画批評の切りぬきが貼られ、近隣の映画館のチラシが置かれたコーナーもある。

 シネコンのようなコンセッションはないが、菓子パンやスナック菓子を販売するちょっとした売店がある。飲み物は自動販売機。やたらとレトロな風貌のポップコーン自動販売機にも惹かれたが、上映中にものを食べない主義なのでやめておいた。


「都会にだって、名画座はあるでしょう?」

 館内の様子に視線を巡らせていたら、小さめの声量でロッカに問われた。

「ミニシアター系のところには何度か行ったことがあるけど、名画座には足が向かなくて。選り抜きの名作を上映しているところより、シネコンでの封切りから数カ月経った、いわば準新作を抱き合わせて上映するところが多いんだ。中丸なら社員証があれば最新作をタダで観れるから、二番館には縁がない。興味をひく特集を組んでいる劇場があれば、情報を掴めたかも」


 腰が深く沈むソファーに、半ば背中を埋めるようにして座り、他のお客をそれとなく眺める。空きすぎず混みすぎず、ほどよく賑わっている。夏の日差しの中、辺鄙な場所にある名画座に集まってヘップバーンを観に来た人々に、口をきかずとも親近感を抱いた。


「それにしても、ふしぎな名前だ。はしご座って」

 視線を隣に移し、ロッカと視線がかち合う。存外すぐそばにいて、肩がぶつかりそうだった。

「昔は市内の至るところに、映画館があったんだって。ここの館長はその頃に青春時代をすごして、いつか自分も映画館を持って、他館のお客さんにはしごしてもらうんだ! って思いを抱き続けて、この名前にしたって聞いたわ」

「シャレてるなあ」

「そう、シャレてるの。私たちはシャレてる喫茶店でブランチして、シャレてる名画座に来て、シャレてるミュージカル映画を観るの」

 目を細め、小癪な台詞を言ってのける。彼女の表情を真似て、多少の恥じらいを押し殺しつつ答えた。


「つまり、俺たちはとびきりにシャレたデートをしているわけだ」

 ロッカは真ん丸の目をぱちぱちさせてから、おしゃまで気取った笑みを浮かべる。

「そのとおり。とても素敵で、誰よりも小粋なデートよ」

 あれ、君はそんなに美人だったっけ?

 なんて言い出しそうになるのを抑え、シャレた男の笑みを演じ……られたかはわからない。


 劇場への入場がはじまる。スクリーンはひとつだけ、定員は百人ほどだろうか。入場券一枚で二本観られるので、午前の一回目を観終えた人の大多数が、同じ席に残っていた。そこそこ埋まっているが、満席にはなりそうにない。

 俺たちはうしろ寄り、中央あたりの席に並んで腰を落ち着けた。やがて上映時間になると、開映を知らせるブザーが鳴り、くすんだえんじ色の緞帳が開いて、照明が落ちる。


 まずは『パリの恋人』。原題は『Fanny Face』で、いったいオードリー・ヘップバーンのどこがファニーフェイスなんだよ(もちろん、彼女の外見だけをあげつらった題名でないのは百も承知だが)というかんじだが、なかなか味のある作品である。

 書店員で共感主義のあか抜けない女の子が、ファッション誌のカメラマンに見出され、モデルとしてパリへ撮影に向かう……というあらすじのミュージカル映画だ。

 黄金期の作品はどれもそうだが、ミュージカルシーンの演出があまりにも華やかで突き抜けていて、おかしくて笑ってしまう。オードリーが真っ黒な衣装を着て、はちゃめちゃなダンスをするシーンが印象的だ。アステアもジンジャー・ロジャースと組んでいた頃と比べると老いてはいるものの、持ち前の長い手足を駆使して優美なステップを見せてくれる。


 フィルム上映だったが、想像以上に保存状態が良好で驚いた。とはいえ、画面上に小さな塵が散ったような傷が混じり、音声も独特のくぐもった響きをしている。しかし観客の大半は、そういったものを良しとしているに違いない。


 十数分の休憩時間を挟んで『マイ・フェア・レディ』。こちらはフィルムではなく、デジタル修復されたデータでの上映だった。

 品のない言葉遣いをする花売りの娘が、言語学者の手ほどきによって淑やかなレディへと成長していく。有名すぎるストーリーだ。オードリー・ヘップバーン主演の名作は枚挙に暇がないが、この作品がいっとう気に入っている。

 可憐でキュートなイメージが強い彼女の、粗雑なふるまいの演技をはじめて観た時は本当にびっくりした。作中で変身していく彼女の魅力はもちろん、ミュージカル独特の華やかさを三時間弱にわたり披露してくれる、贅沢の極みといったかんじの作品だ。


 二本立ての観賞を終え、劇場の外に出た時にはもう夕暮れ時だった。あっという間だったような、相応の時間が過ぎたような。

「冷房効きすぎじゃなかった? 冷えちゃったみたい。少し散歩しよう」

 そう言って、来た道とはちがう方向へロッカが歩き出す。陽が傾いたというのもあるだろうが、蒸し暑さがさほど苦にならない。


 好きな衣装や台詞、曲、俳優の仕草……とりとめのない感想を言い合いながら、高台の舗装路をゆく。久しぶりかつ、新鮮な心地だった。

 職場で封切り直後の作品の感想を言い合うのもいいがすてきな女の子とふたりで映画館に足を運ぶよりも幸せな観賞方法なんて、今は思いつかない。

 劇場の暗がりで過ごした後の、充足感と倦怠感の名残。ぬるくなったペットボトルの緑茶。どこからか聞こえてくる、かなかな蝉の鳴き声。今更気になり出す自分の汗の臭い。

 夏だ。


「ほんとうに君ぐらいだよ、こんな休日をともに過ごせるのは」

 考えなしに、するりと口からこぼれる。夢の中で言った台詞を、寝言として実際に発した時の気分になった。

「似たようなこと、前も言わなかった?」

 汗ですこしばかりつややかになった頬にえくぼをつくり、お得意のいたずらっぽい笑みで言われ、バカみたいに恥ずかしくなる。叫び出したいのを抑え、へらへらと誤魔化す。


「そういえば、そういえばさあ」苦し紛れに話題を変える。「ロッカって漢字、数字の六に花って書くんだな」

「なに、出し抜けに」

「手帳に書いてたじゃん。俺のはじゅうぶんにわかっただろうけど、君の名前の由来も知りたい」


 歩いているうち、風景の中になんとなく馴染みのある空気感が漂いだした。いつのまにか、華汀まで歩いてきたらしい。

「おばあちゃんがつけてくれたの。六花って、雪の結晶のことなんだって」

 おばあちゃん、と口にするロッカの横顔を、見つめるのは不躾な気がして目を逸らす。

「このあたりって、ほとんど雪が降らないの。結晶なんて見れっこないわ。だから」

 気付けば、例の急勾配の坂道にたどり着いていた。眼下には、沈みゆく夕陽を背に、港町の輪郭がくっきり浮かび上がっている。

「そういう、誰にも思いもよらない、すてきな女性になるようにって」

 得意げな顔で言い、坂をくだろうと踏み出した瞬間、ロッカがよろめいた。


 小さな悲鳴を上げた彼女の腕をとっさに掴む。ウェッジソールと地面がざりりと擦れ、小石が坂を転げ落ちていく。俺たちは間抜けなポーズで停止したまま、それを見送る。

 ややあって顔を見合わせ、互いに笑いだす。


「ごめん、ありがとう」

「足首ひねってない?」

「うん。大丈夫」

 俺はロッカの腕を掴みっぱなしだった。はっとして離すも、今度はロッカが俺の手を取り、握った。

「こんなお嬢さんがここから転げ落ちたら、こまるでしょう?」

 これでオチない野郎がいるのか? 俺のほうが転びそうである。

 慎重になりつつ、手を握ったままのびやかに一歩ずつくだってゆく。 


 中学生どころか初恋を味わう小五男児の顔になっていることを危ぶみ、視線を逃がした夕空には、桃色とも橙ともつかない色が溶け合っている。どこかの家の味噌汁のにおいが、生ぬるい空気にのって運ばれてくる。柄にもなく、ふわふわした気分だ。

 こういう時だけが、続けばいいのに。


「こういう時間だけが、続けばいいのにね」

 ロッカが言った。小五男児フェイスをも省みず、彼女の横顔を凝視してしまい「何?」と言いたげに首を傾げられる。

「今、まったく同じことを思ってた」


 そう白状すると、今度は彼女がまんまるの目をもっと丸くして瞬かせる。そして、もう、めちゃくちゃにかわいい顔で「あら、奇遇ね」とおどけてみせた。

 平地に差し掛かり、視界の中に港町の遠景が埋もれてゆく。

 ロッカは繋いだ手をおもむろに持ち上げると、踊るようにその下をくぐり抜け、するりと手をほどいた。

「今日はとても楽しかったわ」




 そんな甘やかな休日も、一時の思い出にすぎない。

 お盆に突入し、中丸シネマズ華汀スタッフ一同、忙殺である。事務所とフロアを走り回り、お祭り感が楽しくもあるが、疲れるもんは疲れる。

 

 それでも、平日のレイトショーともなればゆったりとした時間が訪れた。フロアはバイトスタッフに任せて大丈夫そうだし、事務所には他の社員が控えている。

 そんな時は、新作の試写をするのだ。配給会社から機密機器として送られてきた映画データに、問題がないかチェックする。データに欠陥があることはほとんど無く、給与をもらいながら公開前の映画をいち早く観賞できるおいしい業務だ。


 その日の上映をすべて終えたスクリーンで観るわけだが、この日は1番スクリーンを使うことになった。3Dメガネの倉庫を抜け、映写フロアへ向かう。

 ひとつのスクリーンに対してひとつの映写室があるのではなく、すべてのスクリーンの映写をワンフロア管理できるよう、区切りなく行き来することが可能だ。薄暗がりの中、あちこちのスクリーンを小窓から見おろして寄り道しつつ、最奥のスペースを目指した。


 DCP……デジタル・シネマ・パッケージの映写機は、家庭用プリンタのような出で立ちをしている。作品データをハードディスクから取り込み、パソコンの専用システムで操作すればちょちょいのちょいで上映できる代物である。

 画角を調整し、映写機のコンディションをチェックする。問題なし、とその場を去ろうとした。しかし、普段は気にもとめないのに、1番スクリーンにだけ設置されている、あるものの存在に引き留められる。


 フィルム映写機だ。

 DCPが主流になるゼロ年代後半までは、あたり前ながらシネコンもフィルム上映だった。今では新作はほとんどすべてDCPなので、中丸シネマズ華汀にフィルム映写機はこの一台しか残っていない。


 たしか「何か使う機会があるかもしれないってことで、一応置いてあるんだ」と支配人が言っていた。「まあ、ここ十年はいちども使ってないんだけどね」とも。

 DCP映写機よりも何倍もの巨体で、あちこちにリールやらなにやらのギミックが縦横無尽に取り付けられている。興行には使用していないものの、メンテナンスは行われているので古びた様子はない。それでも、最新の上映環境に囲まれ、どことなく居心地が悪そうに見えた。


 はしご座の映写室を想像する。きっと、映写技師のおじさんがせわしなくフィルムの巻取りをしているのだ。熟練の技師の手によって、映写機が律動する……。

 などと妄想している場合ではない。設定した開映時間まであと僅かだ。足早に客席へ向かう。


 貸し切り状態の劇場の中、後方列の中央に座る。まもなくして設定どおりに照明が落ち、設定どおりに開映する。

 少女漫画の実写化作品だ。ティーンに人気の若手俳優が出揃う、高校生の青春ラブストーリーである。甘酸っぱい紆余曲折を経てキスシーン。ハッピーエンド。主題歌とともにエンドロール。

 やはり、上映に際して何の問題も無かった。やがて場内に照明が灯り、チェック表に記入を済ませる。よし、今日はもう退勤。

 座席から立ち上がった瞬間、ある文字列に気をとられた。

 前の座席のナンバープレート。

 

 改めて視線を落とし、その意味を味わうようにして読み上げる。

「J-16……」

 そうか、そういうことか。


 奇しくも、この1番シアターはキネマ華汀の客席を復元したデザインになっているのだ。他のシアターは中丸シネマズ全館共通のシンプルで現代的な内装だが、ここだけはレトロな雰囲気である。

 他のシアターの座席は青いメッシュ生地なのに対し、ここの座席はロビーの絨毯と同じ赤色のビロードだ。壁はやわらかいアイボリー、照明はアートアンドクラフツを思わせる装飾がほどこされ、スクリーンの前には、緞帳つきの舞台もある。

 大げさなぐらい、喜びと爽快感がこみあげてきた。今すぐロッカとジョージさんに報告したい。なぜ今まで気付かなかったのだろう。

 

 ナンバープレートを指でなぞり、思わず含み笑いを浮かべてしまう。

 まったく、この町はどこもかしこもロマンがすぎる。

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