東京メトロ ✕ 地獄編

はるか

東京メトロ✕地獄編

地下鉄網がこれほどまでに張り巡らされたのは、外界から「あの世界」の存在を隠す為だろう、と僕は思っている。


仄暗く朱い箱の中に僕はいた。

そこには僕と1人の狐の他に誰もいなかった。僕が目を覚ました時にはもう、真っ白な着物を纏った狐が、赤銅色のロングシートに腰掛けていた。

正確には、「狐」ではない。それは、体毛に覆われた野生の狐ではなく、狐の顔をした生き物―――否、狐の面を着けた人間であった。

この電車は床も窓枠も木製だということに気がついた。焦げ茶色の板が造る長方形の空間に、天井から吊り下げられた豆電球が控えめな光を放っている。

――――ここは、どこだろう…?

いつもの電車ではないことは分かっていた。

見慣れた、あの種々のプラスチックが作り出す空間はここにはなかった。僕が今目にしているのは、歴史博物館で展示されているようなレトロな造りのものである。

果たしてそんな内装の電車が、僕の利用している路線に走っていただろうか、と首を傾げる。


地下鉄特有の、車体が闇を切り裂くごうごうという音が窓ガラスの隙間から漏れていた。不意に、雑音の中に凛とした声がふって湧いた。


「どうなさったのじゃ?」


その容貌に似合わない、妙に明るく柔らかい声だった。「狐」は何も応えないでいる僕を見て不思議そうに首を傾げた。その幼い動作は正に人間の少女のそれであった。

目の前の窓ガラスにはステンドグラスが施されていて、鮮やかな花々が背後の闇を際立たせていた。薄汚れたつり革が無言で揺られている。


「この電車、どこに向かってるか知ってる?」

少女の、年相応の肉声に安堵した僕は躊躇いながらも口を開いた。

「ありゃぁ、にいさま、行き先も知らんで乗ったのかぇ?」

少女は身を乗り出して僕の顔を覗き込んできた。背丈からして小学校低学年くらいだろうか。

風音だけが聞こえた数秒間の後、少女は言った。


「――――地獄じゃよ 」



「地獄じゃよ?、にいさま。」

僕の困惑を表情から悟ったのか、少女は重ねて言った。両手を太腿の上で重ねて真摯な態度で僕を見上げている。

「‥‥まさか、ほんとに‥‥?」


不意に電車の速度が緩まり、身体が進行方向へと傾いた。

窓ガラスの向こう側に見えたのはプラットホームだった。蒸気が抜ける様な音がして、木造りのドアが開いた。

長方形に切り取られたホームを見やる。目の届く範囲に人の姿はない。煤で汚れたホームのコンクリートは黄色くくすんで見えた。

この出来の良い夢の完成度を調べるべく、席から腰を上げた。駅名くらい、記念に覚えておこうと思った。

僕の一歩を、少女が、阻んだ。

その小さな手が、僕の半袖シャツの裾を掴んでいた。

「‥‥?」

唖然として少女を見下ろす。狐の面は子供が「いやいや」をするのと寸分違わぬ首の動きをした。

根負けし、一歩後ろに下がり、再び腰を下ろそうとした僕の視界に、なにやら白いものが映り込んだ。

「‥‥きつね‥‥?」

狐が一匹、電車に乗り込んできた。深紅の着物の裾から伸びる足は、隣の少女同様人間のもの–––––––––ではなく、紛うことなく獣のそれであった。その狐は、小動物特有の頼りない足取りで眼前のロングシートの端までたどり着き、ちょこんと腰掛けた。夢だと理解していても驚かずにはいられない。咄嗟に、少女に目を向ける。

「ちぃとは信じてくれたかいの?」

そう言った少女の手は、彼女自身の物ではない狐の面を抱えていた。

「ほれ」

そう言うや否や少女はその面を僕の顔面へと押し付けた。

僕は反射的にそれを押し退けようとするも狐の面はびくともしなかった。

「これでちぃとは誤魔化せるじゃろか‥‥」

心配そうに少女が呟いた次の瞬間、ドアが閉まった。車輪と線路が甲高い金属音を響かせた。車窓から覗く景色が徐々に後退していく。

駅名が記されているはずの看板には空白だけが存在していた。


「にいさま。よく聞いとくれ。‥‥このままじゃ地獄に墜ちるぞぃ」

少女はあくまで真剣にそう告げた。

「にいさま‥‥死んでしまうぞ?」

次の駅に着いた。先程と同じく一匹の狐が乗ってきて、一匹目の狐の隣に座った。

「ええんか?」

僕はいつの間にか手に握っていたスマートフォンを起動させる。ロック画面の次に現れたのはメール送信画面だった。

「‥‥うそだろ‥‥」

画面に目を落としたまま僕は固まる。

––––––––あの都市伝説は、本当だったのだ。

『地下鉄には、本来あるはずのない線路があって、その線路ってのが変な世界に繋がってるんだって』


ネットに載ってた、いかにも怪しい書き込みがきっかけだった。

『自殺しようとした奴が実際に体験した話なんだけど』

その書き込みを見た次の日、僕は試してみることにした。

話の通り、メール送信画面を開き、本文に『死にたい』と打ち込み、宛先を指定せずに送信ボタンをタップする。当然、メールは送信されない。

乗客の対応にあたっている駅員の目を盗み、僕はそうっと線路に降り立った。中途半端な時間、都心から外れた駅には人も疎らで、電車を待つ僅かな人々もスマホに夢中で僕のことに気がついていなかった。

スマホの画面に目を落とす。メールは未送信のままそこにあった。

何も起こる気配は無い。

噂では、見知らぬ電車が迎えに来ると言っていたが‥‥

次の駅に向かう方向に歩みを進める。線路を飲み込む闇に近づく。

刹那、もの凄い叫び声がコンクリートの壁に反響した。

驚き振り返った僕の眼前には–––––––

眩い閃光を放つ電車の影が–––––––––


「帰る方法は、無いの?」

「そうとう難しいぞぃ‥‥」狐の面は俯いた。

電車が駅のホームに沿って滑り込む。ドアが開く。狐は三匹になった。電車は淡々と進んだ。

「お狐様が7人揃ってしもぉたら何が起こるか分からんのじゃけど‥‥」

そう言って、少女は僕の胸元に手を伸ばした。胸ポケットに入っている赤ボールペンを引き抜き、インク芯を本体から取り出した。少女はロングシートの上に立ち、ボールペンの芯を僕の頭上に掲げた。

「えっ?」

芯から流れ落ちた流体はつむじから頭皮を伝い、白いシャツを己の彩に染めた。

数秒後には、僕は朱い液体の中心にいた。少女の手には空になった透明な筒が握られていた。少女は空いた方の手で眼前を指差した。

向かいのロングシートは7匹の狐で埋まっていた。

「7人‥‥揃った」

言い終えるより早く、僕の体は平衡感覚を失い、そのまま座席に倒れ込んだ。突如、電車がスピードを上げたのだ。線路との摩擦音が鼓膜を破らん勢いで大きくなっていく。橙のランプが点滅を繰り返す。駅名の無いプレートが幾つも流れすぎていった。狐達はまるで席に固定されているかの様に身動ぎ一つしていない。

「始まってしもおたか‥‥一か八かやってみるかいの」

少女は座席に体重を預けながら立ち上がるとこう言ったのだ。


「にいさま、わしと地獄廻りしましょかー?」


視界が、暗転する。

朱が一瞬にして闇に塗り潰された。

どうやら電球が切れてしまったらしい。

少女が早口に言った。

「にいさま、目ぇ閉じないと目無し芳一にされてしまうぞぃ」

暗闇の中で狐が淡く発光している。

僕は慌てて目を瞑る。眼球と瞼の裏が重なり合い出来た、黒でも闇でもない、無のキャンバスに––––––––––

『ナニカ』が、いた。


白く、朧げな光を纏い、ただその場に佇んでいる。何者も進入することは出来ない場所に、ソイツはいた。それ以外、少女も狐も視認出来ない。

先端が丸まった棒状のナニカは燕尾服を纏っている。

その物体は千歳飴の様に硬そうでも無く、プラスチックの様に人工的な光沢を有しているわけでも無い。

内臓を純白に染めたが如く風体で、体色にはムラがあった。

ナニカはすぅーと僕の前に滑り出てきた。目を開かぬよう細心の注意を払いながら、僕はその場に立ち尽くす。ナニカは緩慢な動作でのっぺりとした顔を近づけてきた。生々しい質量感が間近に迫った次の瞬間、ズボンのポケットに入れておいたスマートフォンが振動した。その激しい振動は痙攣、という表現の方が正鵠を射ていた。スマートフォンは陸に上げた魚のように跳ねると水音を立て、床に転がった。落下した後も辺りをのたうち回っているのが耳に入る音で分かった。

ナニカが足元をじっと見つめている。恐らく僕のスマートフォンだろう。ナニカの関心が僕から逸れたことに胸を撫で下ろしたのも束の間、

僕の視界に14の朱い三日月が出現した。

位置と形からして狐達の目だろう。それらが一斉にこちらに迫って来た。

「にいさま!」

目を–––––––開けてしまった。

狐達の列は僕を中心として端と端を結んだ。僕は朱い目の狐達に取り囲まれる。ナニカが、スマートフォンに手を伸ばしている。色味の無い指先が画面に触れる直前、横から飛び出して来た白い影がそれを攫った。白い着物を靡かせて、少女は狐達の円に分け入った。駆けてきた勢いで僕の手を掴むとそのまま隣の車両に向かった。引き戸の取っ手に手をかけた少女は、言った。

「–––––––すまぁとふぉんに遺書、書いてたんかぇ?」

ドアが開いた。

手首から温もりが消え失せる。

闇が、僕とそれ以外とを隔絶した。

次に、僕の靴裏が触れたのは茜色の絨毯だった。振り返ってみたが、背後に続くのは闇ばかりで少女もドアも存在していなかった。

朱い細道は闇の濃度が薄くなる方へ延びている。歩みは自然と灯りに吸い寄せられていった。

––––––電車の中じゃない‥‥‥

内装からも言えることだが、それに加えて揺れも感じられない。何よりこの場所の異様な空気がそれを示していた。

咲き乱れた花々が金糸で刺繍された茜の絨毯、影に沈むクリーム色の壁紙、等間隔に並ぶ黒檀のドア。

それらが延々と続く廊下を僕は進む。

レースのカーテンが風に揺らいでいる。6つに仕切られた磨りガラスが陽光を透過している。しかし、僕はそこにある筈の風を感じ得なかったし、窓の向こう側にある筈の風景さえもどんなに目を凝らそうと窺い知ることは出来なかった。

前方に脇机を見つけた。黒塗りの板の上でバレリーナが踊っていた。剥げかけた塗装と錆びた縁の彼女は乳白色の肌に薄紅を添えて固まった笑みを浮かべていた。音の出ないオルゴールはきゅるきゅるとその体を軋ませながら舞姫とツマミを回し続けている。視界の上端から朱い粒がひらりと落ちてきた。見上げると、草臥れた絵画が艶のある額縁に入れられ壁からぶら下がっていた。キャンバスの中で彫りの深い男性が鮮やかな花束を携えている。目線を落としたがそこにはもう朱い花弁などどこにも見当たらなかった。心なしか、小さな劇場で舞い踊る女性の口元が緩んだ気がした。

脇机はぽつりぽつりと壁際に立っていて通りかかる僕の目を楽しませた。

湯気の立ち昇る「百年前のカレー」。

蒼い蝶を生み出す「硝子のパズル」。

絵巻を刺繍し続ける「ブリキのミシン」。

展示品の先に、一つの窓があった。一際明るい窓が、あった。

そこだけに昼下がりの陽気が息衝いているかの様な空間が、窓の周りに広がっている。鳥の囀りさえ聞こえてきそうな穏やかさが、その奥の暗闇を際立たせる。日向の傍らにあって尚、闇は濃く、廊下の行き着く先が見えない。明暗のコントラストの形容し難い不気味さを覚え、僕は一歩後退る。

直感が、「この先に行くな」と告げている。

進行方向を変え、僕はそこから足早に一番近いドアへと向かい、金メッキの剥げかけたドアノブを回した。濡れた樹の色をしたドアは意外にも軽く開いた。室内に足を踏み入れる。後ろ手にドアを閉めた瞬間、黴臭いにおいが鼻腔に侵入した。

室内は日本旅館の様相を呈していて、土間の向こうに廊下と襖が閉まった部屋が見えた。靴の踵に手をかけて、ふと思い留まる。朱い目の狐と、白い化け物が脳裏をよぎる。何かあったときのためにと靴を履いたままで、板の間に上がる。

–––––––何かあったとしても夢なら別にいいじゃないか

頭の片隅でそう思っている自分もいないでもなかったが、脳より早く肌が感じ取るこの場所の異質さが、そのまま進むことを強要したのだ。

一歩進むごとに板が軋む。その音は廊下の突き当たりに近づくにつれて大きくなっている様に感じられた。

突き当たりの襖を滑らせた途端、先程までの黴臭さが一瞬にして鳴りを潜め入れ違いに、別なにおいが辺りに充満した。

なにかを燻した様な、焦がした様な、そんなにおいがする。それはどこか懐かしくも感じられた。

狭い畳部屋の中央には布団が敷かれている。色褪せた和柄の布団は、膨れていた。好奇心にも似た、「怖いもの見たさ」の欲求に突き動かされるまま、僕は布団に歩み寄る。

僕が畳に膝をつくのと、薫るにおいの正体に気がつくのとではどちらが早かっただろうか?

線香だ。喉に張り付くざらざらとした違和感は間違いなく線香の煙によってもたらされたものだ。

布団には、人が横たわっている。眠っているのではないことはすぐに判った。

白い布が、顔に、被せてある。

「この人はもう、息をしていない。」

無機質な白はそう語ってる。

頭蓋の内側で警鐘が鳴り響いている。それなのに、僕の右手は他の一切を無視してそれに吸い寄せられる。指先がひやりとした布端を摘む。

血の気が、引いた。ざっと引いた。

–––––––僕がいた

僕が、布の下から顔を覗かせた。

始めは、見間違いかと思った。

それでも、本能は覚っていた。

これは紛うことなく、僕であると。


鈴の音がした。

それっきりなにも聞こえなくなった。

重たい汗が、シャツと素肌の隙間をなぞっていく感触がやけに生々しかった。背中に目でも生えてしまったかの様にそこの感覚が膨張している。心臓が、その存在を主張する。

‥‥なにか、いる。

背後の薄闇で、なにかが息をしている。闇の濃淡がマーブル模様を描いているのを体の背面が痛い程に感じ取っていた。

振り向いてはいけない。

このままでいてもいけない。

葛藤しながら、ただ息を殺していた。

耳の管が、悪寒に震えた。


「–––––後ろの正面だあぁれ?」


膝立ちの状態からよろめき畳に尻餅をついた。

耳から這い上がってきた声が、皮膚の裏側から毛穴をこじ開けた。幼児の声を無理矢理低音に変換したかの如く肉声が、直接脳を揺さぶる。

尻餅をついた拍子に、体の向きが変わってしまった。僕は必死に目線を逸らす。それでも視界の端に靴先があるのが分かってしまう。

––––––逃げないと

確実に、なにかがいる。

靴が、こちらに近づいてくる。逃げないと捕まってしまう。

確実に、なにかが‥‥多分、きっとあの「白いナニカ」が、いる。


「にいさまっ」

体重が一気に右へと傾いた。右手首が痛い。僕は引き摺られる様にして押入れに飛び込んだ。

真っ暗闇が僕らを呑み込む。


「‥‥えっ?、きみ、どこにいたの?」

体勢を立て直した僕は前を行く少女に向かって尋ねた。暗闇に慣れてきた目が少女を捉える。

「にいさまこそどこ行ってたんじゃ?いきなり消えてしもうて」

押入れはどこか別の場所へ繋がっていたらしい。靴底が硬い地面を蹴る。薄ぼんやりと前方から光がさしている。僅かではあるが地面を水が覆っているらしく、2人分の靴底が地を踏む度音を立てて水が跳ねた。

清らかな静寂–––––そこに、それ以外の音が混じった。

足音ではない。

斜め後方で風が呻っている。足元の水面に白銀の筋が走った。僕は咄嗟に頭上を仰ぎ見た。

燕尾服の襟首から上が異様に長い白い物体が宙を滑っていた。その姿は闇夜に泳ぐクジラそのものである。

その先端から、羽化して間もない蝉の羽に似た薄板が生えてきた。白い棒から伸びる半透明な板は爪を彷彿とさせた。

「‥‥指?」

そうだ。これは巨大な指だ。

僕は呆気に取られ、頭上を凝視した。

「にいさま走るんじゃ!追いつかれてしまうぞぃ」

まるで、少女の声に反応したかの様に「指」はその刹那巨大な体躯の向きを変えた。

爪の先が、僕らに向けられた。

「にいさま、掴まって!」

少女が振り返り、自身の肩に僕の手を添えさせた。

「指」が飛来する。

爪が僕らの体を貫く寸前––––––地が、裂けた。

足裏の地面が消失する。裂け目は正円に広がる。

光を放つ穴の中へ、吸い込まれた。

朱い鳥居が螺旋状に、幾重にも壁面から突き出ている。煌々と輝く朱い輪を潜り抜け、只ひたすらに墜ちゆく。鳥居の狭間に枝を伸ばす笹の木は、彩とりどりの短冊を携えていた。僕らを取り零してしなった枝先の色紙が、願いの飛礫を虚空に放った。黄金に煌めく言の葉が、迫り来る白い凶刃を受け止めて星屑になった。



「ここまで来れば振り切れたじゃろかー?」

喧騒と人混みの中を歩きながら少女は呟いた。

朱と白の縦縞模様のテントが所狭しと並んでいる。売り子が客を呼び込む威勢の良い声、露店から漏れ出る橙の灯、頭上を抜ける祭り囃子––––––抜け穴は祭りの会場へと繋がっていた。

人の間を縫って進んでいく。肩が触れ合うほど近くにいるというのに、この祭りの来場者の顔を誰一人として視認出来ない。無いのではない、視えないのだ。皆が一様にフードを被っている。それが造る影が濃すぎて、首から上が黒く塗り潰されてみえる。

客が客なら店も店––––––屋台で品物を売り捌く者達は人の顔をしていなかった。

馬、豚、牛、等々比較的体の大きい動物が二足歩行をしている、調理をしている、勘定をしている。

七色の金魚が提灯の役割を果たす。店主の手の中で溶けたルビーが、粉雪の山に注がれる。

店先に繋がれた羊をその場で捌いて焼いている。観衆から期待に満ちたどよめきが起こる。順番待ちをしている羊はただ独り薄闇で震えていた。


少女が、僕の手を引き前を歩く。白い肌に投げかかられる暖色の光と肌の冷たさが何処と無く奇妙だった。からんころん、と雑踏の中に響く小さな下駄の音が小気味良い。からんころん、からんころん。

不意にその音が止んだ。それに倣って僕も足を止める。

「にいさま‥‥なにか聞こえないかぇ?」

耳に意識を集中させる。雑音の合間の音を手繰り寄せる。

その声を聞く前から僕の腋はじっとりと湿っていた。


「–––––もういいかぁい?」


下駄の音が、包丁がまな板を打ちつける様なものに変わる。

人混みの隙間に体を捻じ込み、駆け足で進む。

「まだじゃまだじゃっ、全然まだじゃ!」

少女が上空に向かって抗議する。

「しもうた‥‥このお祭りどこで終わるん?」

「人の頭で先が見えないな‥‥」

「わしはお腹しか見えん‥‥」

背伸びをしようとすると重心が人の波に攫われる。文字通りの八方塞がりであった。

「にいさま、あすこはどうじゃ?」

短い人差し指が示す先に屋台があった。店番の豚が居眠りをしている。食材の残骸が散らばるテーブルの下に僕らは身を隠した。テーブルクロスが僕らを覆い、広場からも店内からも見えない様にした。「もういいかい」の問い掛けに「まだじゃまだじゃ」と応じながら少女は小さな声で僕に尋ねる。


「‥‥遺書、すまあとふぉんに書いてたんじゃねぇ‥」

僕は頷く。「でも、それは、都市伝説を試してみようと思って‥‥」僕の弁明に、少女は何処か哀しそうな顔になって言った。


「ほんとぉに、そうなのかぇ?」


本当に–––––––、とは、どういう意味だ?


「ほんとぉはそうじゃあないからメール、届いたんじゃぁないんかねぇ‥‥?」

言葉を失った口を半開きにして固まった僕の耳に、少女の言葉はするりするりと入り込む。

「嘘ではここへ来れんのじゃ‥‥」


そうだねと力無く僕は呟く。

「どうしてだろーなぁ‥‥どっちに転んでもいいと思ってた‥‥」



少女が何かを言いかけて、僕に手を伸ばそうとした瞬間、視界が一気に明るくなった。咄嗟に目線を上に移す。

呆気にとられた僕らを見下ろしていたのは、豚だった。

前掛けを着けた大きな豚は、鈍い光を宿す包丁を掲げていた。鼻息を荒らげた二足歩行の豚は中華包丁を僕らに向かって振り下ろした。

僕を庇った少女の袖が分断された。胸ぐらに飛び込んできた少女の肩ごしに裁たれた袖が砂に帰る様と鉄の板が深々と地面に突き刺さっているところが見えた。1メートルほど後方に倒れこんだ僕を、少女は引きずるようにして立ち上がらせた。地面から包丁を引き抜いた豚は鋭い眼光を僕らへと浴びせる。

少女が僕の手を引き、人混みに飛び込む。豚は猪さながらに人の波に割って入る。

少女は通り過ぎ狭間に攫った射的屋の長銃を構えた。銃口から勢いよく飛び出したコルクの弾丸は豚の眉間で小気味の良い音を生み出した。外れた弾は見事射的の的に命中したらしく、店主は少女に向かって景品を投げ渡した。

豚の図体では通れないような狭い路を選んで進んだ。

人混みが薄まる。雑踏が遠のく。屋台が途絶える。

僕らは祭の広場から抜け出すことに成功した。

灯の橙が闇に抗って出来る境界の向こう側へと足を踏み入れる。藍色の暗がりに竹林が広がっている。


もういいかぁい。

まぁだだよぅ。


笹の葉が頬を掠める。足元で鈴虫が鳴いてる。奥へ奥へと進むに連れて草の匂いが濃厚になっていく。

「にいさま、こっから逃げ出すぞぃ」

足を止めずに少女は言った。

「そんなことができるの‥‥?」

「確証は無いんじゃが、方法は思いついた」

「生憎、地獄は今人口爆発中らしくてのぉ‥‥上へ上へと拡大していく内に地下鉄まで侵略してしもぅた訳なんじゃが‥‥、言い換えればそりゃあ、ここで一番高い場所が地上に一番近い場所いうことじゃろ?」


もういいかぁい。

まぁだだよぅ。


竹と竹の間の暗闇から獣の息遣いが聞こえる。祭囃子の音はいつの間にか遠く離れていた。

しばらく路なき路を進んでいくとやがて竹林が途切れ、開けた場所に出た。

「にいさま、手、大丈夫かぇ?」

目を凝らしてみると制服の袖から下に幾つかの切り傷が確認できた。


「痛いの痛いの飛んで行け」

少女は僕の腕に小さな手で触れ久しく聞いていなかったそのおまじないを繰り返した。

「すまんのぅ、お薬も絆創膏も持っとらんで‥‥」

狐の面に隠れて見ることの叶わない少女の表情は、その真剣な声音により自然と想像出来た。

「痛いの痛いの飛んでいかぬならわしに感染ってくれんかのぅ」

「重症じゃないし大丈夫だよ‥‥」

「ほいでも、にいさま、痛いんじゃろぅ?‥‥死んでもえぇと思うくらい」

その言葉に意表を突かれた。口を半開きにしたまま僕は呆気に取られていた。

「‥‥そんなこと無いよ」

僕の口から零れた一言は、僕が改心したから–––––––ではなく、今も尚僕の手を一心にさすり優しいおまじないをかける少女に報いたいという想いから生じた。

ここへ来たのも半ば自業自得であるというのに、この子は危険も顧みず僕の手を引き、導いてくれた。

「もう、いいよ」

再度、大丈夫だという意味を込めてそう告げた。少女はこちらを凝視し、「にいさま‥‥」と強張った声で呟いた。


背後の竹林が、騒めいた。

闇と混ざり合った鴉の声が、彼方上空へと消え去った。

脳に直接響いてくる低い微笑い声の正体に思い至った瞬間、皮膚の下に悪寒が迸った。

もういいかぁい、まぁだだよぅ。

もういいかぁい、「もう、いいよ」。

僕は、返事をしてしまったのだ。

竹林から離れようと反対側へ走り出す。程なくして、僕らは『街』に行き着いた。土が剥き出しになっているひらけた土地の終りは小さな崖になっていて、その下に街は存在していた。

街、というよりも『摩天楼』と呼ぶ方がより正確かもしれない。

数多の電車が玩具のブロックの如く積み重なり組み合わされ、一つの建造物を創りあげていた。車内に灯された電灯は燦々と煌めき、街全体が一つのイルミネーションさながらであった。

幾つもの線路が、隅の暗闇から現れ街を横断している。電車の上に駅があるとはなんとも不思議な光景だった。

「にいさま、見えるじゃろ?」

少女が指差す方向には一番高い線路を飲み込む駅とその頂点に座する巨大な文字盤があった。

「あすこを目指すんじゃ」

言うが否や少女は僕の腕を掴み、崖下に身を投げた。反射的に目を瞑るも、数秒後には地面を踏むことが出来た–––––––––「あれ?」はっとして目を瞬いた。僕の靴の裏が触れているのは地面、ではなく、漆黒の車体であった。ぼうぼうと黒煙を噴き出し進む汽車は僕らを屋根に乗せたまま、駅のホームに突っ込んだ。行き着いた木造りの駅から降り立てば、そこはもう電車で創った集合住宅の一角であった。立方体に成りきっていない建物は、崩れかかった団地を思わせた。

いや、事実それは文字通り団地と呼ぶに相応しいものであった。

電車の中では、狐が暮らしていた。窓の向こう側に、家具や陳列棚らしきものが見える。これら無数の電車は、彼らの家、あるいは店なのである。

「‥‥高っ‥‥、これ、たどり着けるの?」

崖の上で見たよりも、時計塔の駅は高く聳えているように思えた。高さだけでなく、建造物全体の複雑さも考慮すると摩天楼の頂点までたどり着くのは容易ではない。

「無理じゃろなー」

少女は唄うように呟く。

「ちぃとズルするかのぉ」

そう言うが否や、少女は着物の袖に手を突っ込み、「祭りの戦利品じゃぁ」

赤と白に彩られた紙袋を取り出した。紙袋を地面に敷きシート替わりにすると、足元にはたちまち小さな露店が出来上がった。

「わぁっ」

少女が年相応の黄色い歓声を上げて景品に魅入る。

ラムネ菓子、紙風船、シャボン等々、三原色を基調とした品々は昔ながらの駄菓子屋さんに売っていそうな、レトロな風合いを持ち合わせていた。

「おぉ、懐かし」

カラフルな玩具に埋もれた、透明な板を拾い上げた。

「にいさまは、ぷらばん、作ったことあるかぇ?」

「小学生の頃やった気がする。中々平らに作れないんだよなー」

オーブンで焼いたら縮む摩訶不思議な板は地獄でも健在なようである。

少女は近くの店から油性ペンを借りて来て早速何やら描き始めた。

「早く、逃げないと」

「ちぃと待ってくれんかの。これがありゃ、時計塔まで一本道じゃあ」

––––––––と、その時だった。

白い影が、視界の端を横切った。

それらは、宙を疾る線路の上を飄々と進んでいる。先程、僕らを乗せた汽車が停まった駅の方へ、加速しながら、進んでいる。

「きつね‥‥!」

ここに暮らしている狐達とは異なり、その瞳は朱く煌々と輝いている。

目が、合った。

奴らは、僕らを追って来ている。

「ねえ、まだなの?」

焦燥に駆られ、僕は早口にそう尋ねた。少女はプラ板から目を離さずに首を横に振った。

狐達はもうすぐそこまで迫っている。

捕まったら、僕はどうなるのだろう?

地獄に落とされ永遠の苦痛を味わうのだろうか?生きたいと、切に願っているわけでもないが、死にたいと切望しているわけでもない。

それなのに、気が遠くなる程永い時間、業火に焼かれ焦がされねばならないというのか。


「‥‥‥いやだ」


熱々の油揚げが、宙を舞った。

僕の手から飛び立った油揚げは、弧を描き、油を撒き散らし、彼ら目がけて飛んでいく。

鈍い音が鳴った。

油揚げを咥えようとした7匹が、互いを頭突きした音である。

売り子の狐の悲しそうな視線を振り切り、僕は店頭に並んでいる油揚げを次々と前方に向かって投擲した。朱目の狐達はそれらを見事にキャッチしその場で食欲を満たし始めた。騒ぎに群がって来た狐達がごった返し、辺りはたちまち宴会場へと成り代わった。僕と7匹の狐の間に分厚い防壁が出来上がったのを確認し、僕は少女の元へ駆け寄った。

「後は切るだけじゃ」

少女は、懐から取り出した小刀で、完成した絵を器用に切り出していく。

その作業が終わる頃には、店の狐が巨大な鍋を持ち出し、大盤振舞いを開始していた。燃え盛る炎に熱せられた鍋の中で、油揚げが食欲をそそる音を立てている。

「にいさま、出来たぞ!」

綺麗に切り取られたプラ板を、少女は鍋の下に放り込んだ。

ぺらぺらとした板は、炎に煽られ、総身を畝らせ、踊り狂っている。やがて皺くちゃになり、それは小さな––––、

否、それは大きく大きく肥大していった。大鍋を薙ぎ倒し、街並みを圧迫し、見る見るうちに僕の背丈の何十倍もの大きさに成長した。

観覧車が、突如現れのだ。

ゴンドラも支柱も全てがガラスのように透きとおっている。

「行くぞぃ」

てんやわんやの狐達を尻目に、僕らはゴンドラに乗り込んだ。

ゴンドラは滑らかに上昇して行き、段々と街の全貌を把握出来るまでの高さに到達した。

アーケードに灯りがともる瞬間を、神輿を担いで行く一団を、家族団欒の情景を眺めているうちに、ゴンドラは着々と時計塔との距離を縮めていた。

「どうじゃ?ナイスあいでぇあじゃろぅ?」

少女は得意げな声色で言った。

「すごい‥‥なんか、凄すぎて‥‥こんなことも出来るのか‥‥」

出逢ってから今の今まで、この少女には度肝を抜かれてばかりいる。

「そういえば、降りるときはどうするの?」

「時計塔の駅行きの汽車に飛び乗るかいの」

随分と大胆なことを言ってのける。

どうしてだろう、僕はいつ頃からか、面の下の少女の素顔を見たいと思っているようだった。

汽笛の音が聞こえる。窓の外を見遣ると、後方から、ジェットコースターのレールさながらに波打つ線路の上を真っ黒な汽車が駆けてきていた。

少女がゴンドラのドアを開け放つ。吹き込んだ夜風が髪を撫でる。異様に白い塊が、髪を撫でる。


見ぃつけた。


–––––––白い、塊が‥‥

高速で飛来し、髪を数本攫って行き、ゴンドラを串刺しにした。細切れになった透明の欠片が宙に飛散した。

「大丈夫?!」

巨大な指の付け根から立ち昇る赤黒い煙に遮られ、僕の位置から少女の姿は見えなかった。

「大丈夫じゃあ!それよりにいさま、早ぅこっち!」

指と長椅子の間から這い出て、少女の隣に並ぶ。汽車はまだ飛び移れる距離まで到達していない。

白い指が、むくむくと身動ぎを始めた。

少女は必死に、プラ板に何某かの絵を描いている。

僕は、後ろを振り返った。

見ぃつけた、見ぃつけた、と繰り返す低音を遮って僕は言った。

「ここから帰る方法を‥‥教えてください」

冷たい汗が、衣服の下を這っていく。足が、恐怖と緊張で小刻みに震える。

「‥‥僕はまだ、死んでない‥‥」

言い終えるより先に、ゴンドラが爆ぜた。足場を失った僕らは、なす術なく地上に向かって加速して行く。弾き飛ばされた先の虚空で、僕は咄嗟に手を伸ばした。伸ばした手を、少女が掴んだ。

次の瞬間、僕らはもの凄い勢いで建物の壁へと叩きつけられた。


鋭い爪の先が、僅か数ミリの距離にある。ワイシャツの襟を串刺しにした爪が、電車の側面に突き刺さっている。

僕らは、時計塔からほど近い建物の壁面で宙釣りになっていた。

指の腹が、今にも顎を掠めそうだった。

「どうか、にいさまを赦してやってくれんかのぅ?」

呼吸するのでさえ一苦労な緊迫した状況下で、少女は口を開いた。

「悪気は無かったんじゃ、なぁ、赦したって下さいな」

僕が手を離せば命の保証は無いというのに、少女は僕の身を案じることを辞めなかった。

その事実が、僕の胸に火を灯した。

電車の体側に、足裏をぴたりとつける。

タイミングを見計らい、渾身の力で電車を押しやった。

爪が襟を引き裂き、僕らの身体は宙に放り出された。

黒煙を潜り、僕らは鉄の屋根に身を転がした。

汽車が、颯爽と僕らを攫ったのだ。

汗ばんだ手を離さずに、僕らは先頭車両へ向かった。少女が袖から薄い板を取り出し、車輪とレールとが生み出す火花にそれを翳した。

燃え移った炎が、端から順に透明な板を溶かし踊らせ、成形していく。少女は、未完成のそれを、線路に突き立てた。車輪が、それを巻き込んだ。

––––––––硝子の線路。

新しい線路が、誕生した。

炎に包まれ揺らめく先端は、時計塔を目指し、綺麗な曲線を描いていく。極彩色の光を宿した線路は、紳士の如く優美に汽車をエスコートした。

楽器顔負けの壮麗な汽笛の声が夜陰を切り裂いた。


「誰かぁ!いませんか?!」

闇に沈む天井に向かって僕は声を張り上げた。ここが一番外界と近いのならば、すぐ真上に駅のホームがある可能性は零ではない。

「誰かっ!聞こえてませんか!」

「にいさま、あすこ、すぐそこまで来とるぞぃ!」

白い影が、視界の端で蠢いている。

もう、時間が無い。

スマートフォンを取り出す。画面には、『圏外』の文字が淡々と記されている。

「うわぁ、あれ、にいさま!なんじゃああれ」

少女が指差す方向に目をやると、駅舎の屋根にまで迫った指が視認出来た。

しかし、様子が、どうにもおかしい。目を凝らす。「‥‥ぇ」違和感の正体に気がつく。指の腹に一本線が引かれた。線、正確に言うと曲線が、指の腹を瞬く間に覆い尽くしていく。彫刻刀で彫ったような線が描いたのは––––––

満面の笑み。

笑みを湛えた生物が、一定の速度でこちらに向かって来る。

「‥‥なに、あれ」

呼吸が、浅くなる。得体の知れない、焦燥感にも似た戦慄が身体中を迸った。

「まだ、般若の顔の方がマシじゃぁ‥‥」

少女が上擦った声でそう呟いた。


間近に迫った足音が、心臓の音と共に頭蓋を揺さぶる。

ずるりずるり、皮膚が摩耗する不気味な音が鼓膜を執拗に撫でた。

「‥‥まだ、」

死にたくないです、と告げた声は乾いた口内で溶けて消えた。

––––––––生きたいと、切に願っているわけでもないが、死にたいと切望しているわけでもない。

だからこそ。

「––––––中途半端なままで終わりたくない」

今までの人生は別段、輝かしいものでもなかったが、こんな無様な終わりで締め括るほど価値の無い代物でもなかった。

何も選び取れずに、地獄の釜で煮物にされるより、生きて自分なりの答えを探し続ける方が遥かにマシだ。

「にいさま逃げて!」

少女は僕の前に歩み出て左手で僕を庇い、右手で短刀を掲げた。

「早ぅ逃げて、わしはにいさまを死なせとおないんじゃ」

振り返らずに、少女は続ける。

「友達じゃろぅ?だから生きて欲しいんじゃ。」

「‥‥いつのまに‥‥」

「‥‥そう思っとるのわしだけかぇ?」

純白の着物を纏った小さな背中を、僕は見つめる。

「そうだったら、とっくに逃げてる」

並んで立つ僕らを白い指が、無言で見下ろす。満面の笑みを携えて。

彫刻のような顔が、鋭利な爪、もとい刃を振り翳す。

剣先が、近づく。

光を受けて、刃先に太陽を宿している。目が眩みそうな、太陽が、そこにある。

「死んで‥堪るか」

眼球に力を込める。振り下ろされた刃から目を離すまいと、刃の行き先から目を逸らすまいと、僕は白刃を睨めつける。

爪の先が、僕の耳を掠った。


何かが千切れて、地面に落ちた。


少女が僕の腕を掴んだ。

その時にはもう、僕の顔から狐の面が剥がれ落ちていた。

断たれた紐、唖然とする少女、‥‥‥無傷の僕。

微笑む顔。

それが、僕の頬に口付けた。

「‥‥‥へ?」


不意に、汽笛がけたたましい声で鳴いた。溢れ出した黒煙に、七色の礫が絡まっている。それらは風に巻き上げられ、やがて星の瞬きとなった。

街に、橙色の灯りが点る。

祭り囃子の音が聞こえてくる。


白無垢姿の狐を乗せた観覧車が、からからと廻りだした。柄杓を手に、狐達がゴンドラから水をばら撒いた為、観覧車は水車の様相を呈してきた。

あちらこちらで始まったお祭り騒ぎを眺めながら、少女は懐から手鏡を取り出して僕の顔を映してみせた。

「に、にいさまっそれ、随分とお洒落じゃねぇ」

肩を震わせ、面の下からくぐもった笑い声をもらす少女。

その隣で僕はどんな表情をしているのだろうか?


『たいへんよくできました』


見覚えのある、朱い桜花と決まり文句。小学生のノートに生育しているあの花が、僕の頬に狂い咲いている。

「見事な八分咲きじゃぁ」

「と、いうか!あいつは何だったの?何がしたかったんだよ‥‥」

僕は今にも地面に頽れてしまいそうだった。

「にいさま、バチ当たるぞぃ。様付けんとなぁ、閻魔様って」

「ぇ?え、閻魔様って指なの?」

「閻魔様の、お指さんじゃぁ」

気づかなかったんじゃねー、と少女はけたけた笑っている。

観覧車の勢いはいよいよ凄まじくなっている。飛び散る水は雨の如く降り注いだ。

「‥‥なんか、すっごい疲れた‥‥もう、帰ろうよ」

少女の手を引く。

雨霧に辺りが霞みがかる。

色鮮やかな虹を背負った少女は、その場を動こうとしなかった。

歓喜の唄が溢れる街でただ一人、ずっとずっとそこにいた。


「え?」


景色が、無限の彼方に遠退いた。

小さく縮みあっという間に、金平糖のようになって、消えていった。

闇の中で、消えてしまった。




–––––––仄暗い箱の中に、僕はいた。


目の前に、扉がある。

隣の車両と繋がる扉がある。

扉を開ける。少女がいた。

赤茶色の車内の輪郭が朧げで、今日が何月何日の何時頃なのか、僕はそれさえ分からない。


「どこ、行ってたの?」

少女は何も答えずに、佇んでいる。

「ねえ、」

車両と車両の間隙を越えようとした僕を制止し、少女は言った。

「駄目じゃ」

少女の背後で、蜜柑色の照明が、淡く点燈している。

「もう、“こちら側”に来てはいけんよぅ」

どうして、と問わずにはいられなかった。少女は答える。子供を諭す母親のような口調で少女はもう一度繰り返した。

「にいさま」

約束してくれんかのぅ。僕をいたわる優しい声でそう懇願する。

頷くより他、僕に出来ることなど無かった。

「じゃぁ、ゆびきりげんまんじゃっ」

細く小さな小指が僕の小指をあやす。

舌足らずな童謡が耳を撫でる。


ゆびきりげんまん。

嘘ついたらはり千ぼんのます。

ゆびきった。


「‥‥もう‥指の話はしないでよ‥‥」

「ありゃ、そんなに恐ろしかったかぇ?」

「夢に出てきそうだよ‥‥」

ふと、少女はそこで押し黙った。


‥‥じゃぁ、わしの素顔も恐ろしいじゃろなぁ。


「‥‥君には、感謝してるんだよ、ほんとに‥‥」

してもしきれないくらいに、感謝している。

だから––––––、

「見せてよ」

僕の生を願ってくれる人の顔を恐ろしいと思うはずもない。


少女の指先が、紐の末端を引く。

結び目を、解く。

狐の面が剥がれる。


「‥‥今際の際に良いこと、したかっただけじゃから」


少女の顔をみとめる–––––––寸前、薄闇が僕らを隔てた。

連結器は音も無く外れていた。

少女を乗せた車両との距離が広がっていく。


闇の層は折り重なり、二度と晴れることはなかった。




次に目を開けた時、そこには駅員さんと母親の顔が映り込んだ。


話を聞くところによると、僕は線路の上で眠っていたらしい。

線路に侵入したことに関して、駅員には厳しい注意をされ、母親にはこっ酷く叱られた。


駅員曰く、前駅で小動物と衝突する事故があったらしく、念の為の車両点検により数分の遅延が生じたらしい。その数分の間に、駅員が線路で寝ている僕を発見したのだと言う。

彼は言った。

「あの数分が無かったら、君、助かってなかったよ‥‥」


次の日は当たり前のようにやって来た。

いつもと同じ時間、いつもと同じ駅、いつもと同じ電車で僕は学校へと向かう。

あの『都市伝説』について検索してみたものの何一つヒットしなかった。

制服は破れてなどいなかったし、頬の朱い印も消えていた。


溜息まじりに上を見上げると、おっさんの髪の薄い頭やら見飽きた広告やらが目に入る。

汗と衣類の、匂い。いつもの匂い。

八方に人の熱と圧力を感じながら電車に揺られる。カーブに差し掛かると、人の群れは無抵抗に傾く。

一瞬だけ、視界から人の頭が姿を消した。

真っ黒い窓が、目の前にある。

その向こう側を、白いなにかが横切ったのを、

–––––––––僕は確かに見た。















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東京メトロ ✕ 地獄編 はるか @nemuneyo

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