魔王は聖女をいじめます


 翌朝。

 アランはいつもどおりメルヴィナを起こすため、彼女の部屋に足を踏み入れていた。

 気配を消して忍ぶように近づくのも、主のかわいらしい寝息に耳を澄ませるのも、全てがこれまでと変わらない行動だ。

 そのあどけない寝顔にキスをしたいと思うのも、その代わりといったように彼女の足に手が伸びるのも、やはりいつもどおりだった。

 が、途中でその手は、メルヴィナの足から手へと進行を変える。

 危ない。そういえば足へのキスは謹慎中だった。

 もう少しで、アランの手がメルヴィナの手に触れるというとき。


「アラン、あなた凝りないわね」


 朝一番の、メルヴィナの呆れた声が響いた。


「おはようございます、メルヴィナ様。昨夜はよく眠れましたか? おそばに控えさせてくださらなかったので、それが気になって仕方なかったのです」

「……そうね。とりあえず、おはよう。そして今何をしようとしたのか説明を求めるわ。確か私、交換条件で足へのキスを禁止したと思うのだけど」

「ご安心ください。ですから今は、ちゃんと手へと軌道修正いたしました」

「そういう問題じゃない!」


 朝から頭が痛い。メルヴィナはこめかみを押さえた。

 でも、おかげでなんとかアランと普通に接することができている。

 気づかれないよう息を整えた。


「もういいわ。あなたのこれは、今に始まったことじゃないものね。それより早く支たく――っ!?」


 しかし、寝台から身体を起こそうとしたら、なぜかアランに肩を押された。身体はそのまま寝台へ戻る。

 ぱちり、と目を瞬いた。その間にアランが覆いかぶさってきて、またぱちぱちと瞬きをする。この体勢はなんだろう。いや、押し倒されたことは理解している。問題は、なぜ押し倒されたのかだ。


(あれかしら、まだ起きるには早い時間だったとか?)


 思考が完全に現実逃避をしているが、メルヴィナは気づかない。アランの行動にかなり動揺しているのに、それすらまだ認識できていない。


「メルヴィナ様」


 いつものように名前を呼ばれる。でもいつもと違って、彼の右手が頬を撫でてくる。左手は、まるでメルヴィナを逃さないよう、視界の右側で寝台を押さえているのが見えた。

 

「メルヴィナ様は、いつもどおりなのですね」


 何が、と内心で問い返す。

 何がいつもどおりなのか。どこがいつもどおりなのか。

 目の前に、アランの真面目な顔があって。

 頬には彼の手が触れていて。

 ここは寝室で、背中には寝台があって、上にはアランが乗っていて。

 これの、どこがいつもどおりなのか。全然いつもどおりじゃない。


「〜〜っ、意味、分かんないこと、言わないでっ。さっさとそこから下りなさい!」

「いいえ。意味の分からないことなど申し上げておりません。私は昨夜、敬愛する主に取るべきではない態度を取ってしまいました。焦っていたとはいえ、あまりにも無礼な行いです。きっとお咎めがあるだろうと思っていたのです」


 お咎めだなんて。

 むしろメルヴィナは、昨夜のことなど掘り返されたくない。だから平静を装った。彼の言ういつもどおりとは、このことか。

 理解したところで、この体勢は変わらない。


「そんなことより、早くどいて」

「そんなことではございません。あなた様が望むのでしたら、私は自刃も辞さないつもりだったのですよ?」


 アランの言葉にぎょっとする。あの程度で?

 でもこの男の場合、どんなことでも有言実行だから恐ろしい。出会ったばかりの頃、同じようなことを言われて本当に自分に剣を突き刺したときには、メルヴィナは気絶しそうになった。あれは今でもトラウマだ。


「言っておくけど、絶対やめてよ」

「ちなみに、こちらにそれ用の剣も用意してございます」

「なっ。今すぐその剣貸しなさい!」

「介錯していただけるのですか?」

「なんでそうなるの! しかもなぜちょっと喜んでるの!? あなたが変な真似をしないよう預かるだけよっ」

「それは残念です」


 幻覚の犬の耳と尻尾がしゅんと垂れる。

 いったいどこが残念なのか、訊きたいけど訊きたくないメルヴィナだ。

 

「ですが、やはりメルヴィナ様はお優しい方です。こんな私でも生きていていいと仰ってくださるのですね」


 これには思わず半目になる。


「ねぇ、このやりとり、何回目かしら。もう飽きたわ。だいたい昨夜のことなら気にしてないもの」

「どうやらそのようですね。だから、いつもどおりで、面白くないのですよ」


 はい? と、ここで眉根を寄せたメルヴィナは、決して間違った反応はしていない。どうしてそこで面白いとか面白くないとかいう話になるのか。

 そんなメルヴィナの疑問を読み取ったように、アランがおもむろに口を開いた。


「ねぇ、メルヴィナ様? なぜあなた様は、昨夜のことを問い詰めてくださらないのでしょう。いくら私が関係ないと言ったとしても、メルヴィナ様ならもう一度くらい訊いてくれると思いましたのに」


 メルヴィナは絶句した。なんだそれは、と目を丸くする。どうして自分が、自分で、心の傷を広げなければならないのだろう。

 こっちの気も知らないで、と少しだけ苛立つ。けれど、そう、彼は知らないのだ。そして、知られないようにしているのは自分だ。

 この苛立ちは、正しく八つ当たりなのだろう。

 メルヴィナは一度奥歯を噛むと、深く息を吸い込んだ。

 大丈夫、と心の中で唱えてから。


「あのねアラン、私は別に、あなたがどこで何をしていようと気にしないわ。だから問い詰めない。あなたも、いちいち私の顔色を窺わなくていいの。むしろ昨日は……邪魔をした私のほうが悪いわよね。ごめんなさい」


 本当は謝りたくなんてない。謝ったら、昨日の出来事を認めるようで。

 なのに、そんなメルヴィナに、アランはさらなる追い討ちをかけてきた。

 無言で両手をとられ、それを素早く頭上で縫いとめられる。


「アラン!? もうっ、いい加減に――」

「『邪魔をした』? それは、どういう意味で仰っているのでしょう」

(な、それを私の口から言わせるの!?)


 思わず内心で叫ぶ。勘弁してほしい。

 今日のアランは、いつにも増して理解できない。

 

(人が! せっかく! 忘れようとしてるのにっ。だいたい、さっき自分でも言ってたけど、関係ないって言ったのはアランでしょうが! それを自分で蒸し返しておきながら不機嫌になるって、どういうこと!?)


 やっぱり意味が分からなすぎる。むしろこれを理解できる人間がいるのなら、ぜひとも通訳してほしい。

 メルヴィナは、だんだんと苛つく自分を自覚していた。昨日の自分が悪かったとしても、アランだって勝手じゃないかと。


「メルヴィナ様、お答えを」


 なおも追求してくるアランに、ついに、メルヴィナの中で何かがキレる。


「いい加減にして! お答えを、じゃないわよ。そんなもの一つしかないでしょ。あなたが恋人と会ってるところを邪魔して悪かったわっていう意味よ!」


 これで文句ない!? と内心では泣きそうだ。何が悲しくて、立ち直りかけているところを自分で突き落とさなければならないのか。

 ああ、今日の朝食は何かしら。脳が現実放棄を始める。――と。


「失礼します、メルヴィナ様」

「え、ちょっと!?」


 放棄しようとした現実が、一瞬で目の前に戻ってきた。アランがメルヴィナの首に顔をうずめてきたからだ。

 

「ア、アランっ。待って。なにを――――いたっ」

「メルヴィナ様が悪いのですよ。まさか昨日のあれをそんなふうに勘違いなさっていたとは。あなたに他の女を勧められたようで、非常に不愉快です」


 アランが喋るたび、生温い吐息が首筋に触れる。いや、吐息だけならいざ知らず、彼は実際にメルヴィナの首筋に噛みついてきた。湿った柔らかい何かが首に触れたと思ったら、続いた小さな痛み。

 まさか、と思う。

 

「メルヴィナ様。僭越ながら、私から一つの問題を提供させていただきます」

「も、問題?」


 すっと顔を上げたアランと、視線が交差する。

 吸い込まれそうに深くて綺麗な青眼なのに、今はそれに堕ちるのが怖いと感じた。


「ええ。、よくお考えくださいませ」

 

 つうっと肌の上を滑ったアランの人差し指が、先ほど痛みを感じたところでぴたりと止まる。

 この意味、というのは、おそらくそれのことを指しているのだろう。

 男性との交際経験がないメルヴィナだが、知識だけはある。淑女のお茶会は時に赤裸々だ。

 だから、メルヴィナは考えるまでもなく、すでに一つの答えを導き出していた。

 まさか……


(まさか、キスマーク!?)


 実物なんて見たことはないし、もちろんされたこともないけれど。それなりに察しのいいメルヴィナは分かってしまった。しかも、アランが何度も何度も確かめるように〝その場所〟をなぞるものだから、余計に確信してしまう。

 

(もう嫌っ。なんなのこの人! 人が決意新たに頑張ろうとしているところに水をさすの、やめてほしいわ!)


 まあ、何も知らないアランにそれを言ったところで、詮無いことではあるのだが。

 それにしたって、タイミングを計ったように仕掛けないでほしい。これじゃあいつまでたっても吹っ切れない。乙女心はそう簡単にできていないのだと、誰ともなしに文句を言いたくなる。

 色々な限界を超えたメルヴィナは、無駄と分かりつつも、唯一自由な足でアランを蹴り上げようとした。

 これで少しでも隙ができれば。と、思ったのに。あっけなくそれも捕らえられる。

 さらに、捕らえられた片足を、なぜか高々と持ち上げられた。

 今のメルヴィナは、完全にオフの状態だ。着ている白のワンピースは、寝るためだけのネグリジェである。だから、足が持ち上げられるたび、すーと裾がどんどん捲れ上がっていき。


「え、え、嘘でしょ待って!? 裾がっ」

「ありがとうございます、メルヴィナ様。まさかあなた様から、こんなご褒美をいただけるなんて」


 なぜそうなる。


「違うわよ! どこをどう解釈したらそう……って本当に待って!」

「ああ、この絹のようになめらかな白い肌。華奢な足首。美味しそうな桃色の爪。食べていいですか?」

「だめに決まってるでしょ! って、ちょっとやだ。それ以上はっ――」


 と、ここで。


「お、ま、え、ら、なぁ〜〜」


 お約束のように現れる男、ジル・クラウゼ。


「なに二人でイチャコラ楽しんでんだこの脳内お花畑野郎どもがッ! 羨ましいんだよちくしょうッ」

 

 メルヴィナの部屋の入口で、なぜか彼が涙目で地団駄を踏んでいた。


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