プロローグ 家でも不幸

 私は公園で時間を潰し、日が暮れる頃になってから、家に帰った。


「ただいま」


 という私の声にかぶさるようにして、金切り声が聞こえてきた。


「あなたはどうしていつもそうなの!? こんな不便な場所にローンを組んで家を買って! 私を家に閉じこめて! 私に相談もせずに何もかも勝手に決めて……! 挙句の果てには同僚と起業するから会社を辞めた!? いい加減にして!」


 母の声だ。

 私は足音を殺して洗面台に向かい、手を洗う。


「俺の人生なんだ! 俺の好きなようにして何が悪い! おまえは楽だよな!? いつも俺におんぶにだっこ! 家にいるだけで毎月金が入ってくる! これだけ恵まれてて何が不満なんだ! 嫌ならおまえが代わりに働いてみろ! どうせ俺の給料を当てにして結婚したんだろう!」


 父親がこの時間に家にいるのは珍しかった。

 だけど、


(ラッキーかな)


 父親がいなかったら、母の金切り声が向けられるのは私だ。


 私は足音を忍ばせたまま階段を上がり、自室へと引きこもる。


 制服を脱ぎ、部屋着に着替え、ゲーム機の電源を入れる。


「そんなことなら離婚するわ! もうこんな人と一緒にいられない!」


「勝手にしろ! もうこれ以上俺の人生を邪魔するな!」


「慰謝料は払ってもらいますからね! 親権なんていらないから、あの子はあなたが引き取ってよ!」


「おまえ、それでも母親か! 慰謝料をもらうんなら子どもくらいちゃんと育てろ!」


「離婚した後に、あなたの子どもなんて見たくもないわよ! あんな、いじめられてもへらへらしてるような薄気味悪い子どもなんて――」


「そんなふうに育てたのはおまえだろう! だから俺は言ったんだ、私立なんて行かせないでもっと人生経験をだな――」


「子育てのことなんて何もしなかったくせにえらそうに言わないで!」


 …………。


 私はヘッドフォンを手に取り、頭にかぶる。

 今日は、音量を大きめにしておこう。


「今日は、ベリーイージーで」


 ゲームの難易度を最低まで落とす。

 300時間プレイし、メインシナリオを何周もしてる私のキャラクターは、序盤の弱いモンスターを紙切れのように倒していく。

 小気味のいい効果音が、ささくれだった気持ちを慰めてくれる。


 気持ちよくゲームをプレイしてると、急に胸が苦しくなった。


「うっ……」


 私は心臓の辺りを右手で押さえる。


 心臓が締めつけられるように痛い。


 それでも私は、震える右手をコントローラーに戻す。


 そして、


「あ、あははは……」


 笑いながらゲームを続ける。


 心臓の動悸は、いつものことだ。


 私は生まれつき心臓が少し弱いらしい。


 こうして時々発作に襲われる。


 もう慣れっこだから、気にしないことにしてる。


 今回も、ゲームをやってるうちに心臓の発作は収まっていった。


「ふぅ」


 私が安渡の息をついたところで、


「――もういやあああああ!」


 家の一階から、母の絶叫が聞こえてきた。

 ヘッドフォン越しでも余裕で聞こえる特大のものだ。


「何をするんだ! 俺の買った家なんだぞ!」


 父の怒鳴り声に続いて、何かが壊れる音がする。


 私はヘッドフォンの音量を上げる。


「や、やめろ! 駄々をこねるのもいい加減にしろ! おまえはいつもそうだ、むすっと不機嫌に黙りこんで俺に機嫌を取れと催促する! 俺だって疲れてるんだぞ! おまえこそ俺の機嫌を取ったらどうなんだ! おまえは俺の金で生きてるんだろうが!」


「私を家に閉じこめたのはあなたじゃない! こんなの、私の人生じゃない! こんなはずじゃなかった! あなたが私を強引に口説いたりしなかったらこんなことにはならなかったのよ!」


「……今日は、うるさいな」


 学校が軽く済んだ分、家のほうは酷いってことか。


 そこで、家のチャイムが鳴った。

 両親はそれを無視して怒鳴り合ってる。

 チャイムはしつこく鳴り続ける。


「なんだ、うるさいぞ!」


 父親が玄関に出たらしい。


「またですか、乗蓮寺じょうれんじさん。ご近所から苦情が来てるんですよ!」


 この声は、近所の交番の警察官だ。


「あまり酷いようだと、相談センターに連絡しないといけなくなるんでね」


「なんだと! 俺が暴力を振るってるとでも言うのか!? 暴れてるのは妻なんだ!」


「そんなこと言われてもね……旦那さんにも問題があるんじゃないですか?」


 ……あれ? 父親の反論が聞こえないぞ。

 こんなこと第三者に言われたら間違いなくキレると思うんだけど。


 そう思ってゲーム画面から目を離す。


 その直後に、ぐしゃっ!って音。


(あはは⋯⋯どこかで聞いたような音だね)


 あれだ、ホラーゲームでゾンビの頭をバットでかち割ったときに、こんなような音がする。


「きゃあああああっ!」


 母親の悲鳴が家中に響き渡る。


「ち、ちょっと……冗談だよね?」


 さすがに、いつもの夫婦喧嘩の域を超えている。


 私は慌てて部屋を出ると、階段の上の吹き抜けから顔を出し、慎重に玄関口を覗きこむ。


 するとそこには、


「ひ、人殺し! ついにやったわね! どうしてくれるのよ! まだ離婚もしてないのに!」


「う、うるさい! 最初に言うことがそれか!」


 父親が、血のついたゴルフクラブを手に、玄関口に青い顔でたたずんでる。

 それにすがりつくようにして泣き叫ぶ母親。


 そして、父親の足元には、頭から血を流してなじみの警察官が倒れてた……。


「これはひどい」


 思わずつぶやく。


「これはひどい」


 二度、つぶやいてしまった。


 いつもだってひどいけど、これは本当に、本当にひどい。


 私は、いま立ってる床が抜け、底なしの沼に足から飲みこまれてくような錯覚をおぼえた。


「つ、通報するわ! その前に救急車を呼ばないと! ああ、死んでないわよね!?」


「や、やめろ!」


「何するのよ!」


「俺を犯罪者にする気か!」


「まぎれもなく犯罪者じゃない! ざまあないわね、これであんたは人殺しよ! あんたは刑務所にぶちこまれて、財産は全部私のものね!」


「なんだとてめえ……この期に及んで……」


「……あ、もしもし、119番ですか! 急いでください、うちの主人が――」


「やめろ!!」


 父親の声の直後、湿った音がした。

 母親の声が聞こえなくなる。


「じ、冗談でしょ……」


 さすがの私も青くなった。


 そんな……仲が悪いとは思ってたけど、まさかこんなことになるなんて……。


 うろたえた私は、思わずうしろに後ずさる。


 ガラガラガラ!


 派手な音を立てて、廊下にあった衣装立てが倒れた。

 母親は服を買うのが趣味で、部屋に入り切らない服が廊下に放置されてるのだ。


「だ、誰だ! みなとか!」


 父親が言って、階段を上ってくる。

 その手には、血のついたゴルフクラブがあった。


「は、はは……っ」


 もはや笑いしか浮かばない。


 父親は追いつめられた顔で言った。


「……見てたのか?」


 あれだけ大騒ぎしておいて、気づかれないと思っていたのか。


「あはは……」


 思わず、笑い声がこぼれた。


 私は、辛い時はいつだって笑う。

 なぜ笑うのかと、母親にはよく問い詰められる。

 自分だって、理由なんかわからない。

 ただ、どこからともなく笑いがこみ上げてくるのだ。


「あはははははっ!」


 私は頬を引きつらせて笑う。

 笑い続ける。


 父親が青白い顔色のまま真顔になる。


「……にがおかしい」


「あははははっ!」


「何がおかしいんだ! 言ってみろ!」


「あはははははっ!」


 何も言えない。

 ただただ笑えてしまう。

 以前母が私を精神科に連れて行ったことがある。

 その精神科医によれば、私の笑いは、緊張が度を越した時に反射的に笑ってストレスを低減しようとする防衛機制の一種だろうということだ。

 そうかもしれない。

 血に汚れたゴルフクラブを握りしめる父親を見て、私には笑いしか浮かんでこない。


「何が……何がおかしいんだよおおおっ!」


 父親がゴルフクラブを振りかぶった。


「あはははははははっ!」


 私は笑う。


 笑う私の脳天に、ゴルフクラブが振り下ろされる。


 最後の瞬間、私は言った。




「……なに、このクソゲー」




 頭に経験したことのない衝撃が走り――私の十六年の生涯が終わった。

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