13

 お昼を少しばかり過ぎた頃、テーブルの上に残された一人分の朝食を見つめて、ルウンは何をするでもなくただぼんやりと椅子に座っていた。

 皿の隣にはトーマが置いていった紙が並べてあるが、それはルウンが何度も何度も手に取ったおかげで、朝見つけた時より少しクシャっとしている。

 それでもやっぱり読めないことがルウンの不安を増長させ、お昼を過ぎても姿が見えないことが、それに拍車をかけていた。

 書かれているのは自分に向けたメッセージであると、そこまでは読めなくても分かる。けれど肝心の内容が分からなければ、それだけ分かっても意味はない。

 もうすぐ、お茶の時間になる。

 それなのにトーマはここにいなくて、代わりのように何かが記された紙だけがポツンと置いてある。

 ルウンがぼんやりとしたまま窓へ視線を移すと、灰色と白の雲が青い中に散らばり、久しぶりの晴れた空を喜ぶように、鳥達が賑やかに鳴き交わしていた。


「トウマ……」


 ポツリと名前を呼んでみる。けれど、その呼びかけに応える声はない。

 またしばらくぼんやりと窓の向こうを見つめていたルウンは、やがて機械仕掛けの人形のようにぎこちない動きで立ち上がると、そのままフラフラとキッチンへ向かった。

 例えトーマがいなくても、当たり前のように時間は過ぎて行く。喉も乾けばお腹も空く。

 いつもは心躍るお茶選びを、今日は弾まぬ心で機械的に行う。

 なんの気なしに手に取ったのは、トーマと出会った時に淹れたのと同じ、ストロベリーリーフ。あの時は結局、飲めなかったもの。

 瓶の蓋を開けると、香るベリーの甘酸っぱさに、その時の記憶が蘇る。

 どうしようもなく、会いたいと思った。

 美味しいねと笑って欲しい。ルンと呼んで優しく頭を撫でて欲しい。もっと色んなお話を聞かせ欲しい。生まれ育った故郷のことを、今まで旅してきた場所や、そこで出会った人のことを教えて欲しい。


 会いたい。どうしようもなく、あなたに会いたい――――。


 一旦瓶を調理台に置いて、ルウンは隣の部屋に駆ける。

 風圧でふわりと浮いた紙を掴んで、もう一度よく目を凝らした。

 これが、お別れの手紙であると決まったわけではない。それ以外に何があるのだと、心の中で訴えてくるものがあったけれど、ルウンは無視した。

 トーマは、こんな紙切れ一枚でサラリと別れを告げて出ていくような人ではない。そんな人ではないはずなのだ。

 そう思ってはみても、不安はしつこくルウンに絡みついてくる。

 それを振り切るようにキッチンへと戻り、放置していたストロベリーリーフの瓶を掴んで、いつものポットにスプーンで三杯入れた。

 忘れていたヤカンも火にかけて、あとは沸くのを待つばかり。当然のように、カップも二人分用意した。

 キッチンにふわふわと漂う甘酸っぱい香りに包まれながら、お湯が沸くのを待っていたルウンは、ふと扉の方を振り返る。

 そこにはもちろん誰もいないし、これから誰かが入ってくるわけでもなかったが、なぜだか視線が離せなかった。

 しばらくそうして扉の方に視線を注いでいたルウンを、ヤカンが忙しない音を立てて呼び戻す。

 お湯が沸いてもまだ、ルウンの意識は扉の方を向いていた。


 **


 テーブルの上には手つかずの朝食と、綺麗なままのカップが一人分。

 空はすっかり夕焼けに染まっていて、茜色の光が家の中にも差し込んでいる。

 ルウンはカップに残っていた冷めたお茶を一息に飲み干すと、ポットを揺らした。

 二人分準備したお茶は、全てルウンのお腹に収まって、ポットもすっかり空になっている。

 ルウンはポットをテーブルに戻して、ぼんやりと窓の向こうを見つめた。

 空が、朱色に染まっている。悲しいほどに綺麗な空。

 今度はテーブルの上に視線を落として、トーマが置いていった紙を手に取る。

 今日一日で、何度その行為を繰り返したか。何度となく繰り返しても、結局読めないものは読めない。

 それでも、不安に押しつぶされそうになるたびに、縋り付くようにその紙に手を伸ばした。

 きっとお別れではないと、ここに書いてあるのは“さようなら”ではないのだと信じて。

 一人でいることが、こんなにも辛いと感じたのは初めてだった。

 一人でいる事が当たり前だった時には分からなかった感情が、どうしようもなくルウンの心を締め付ける。


「トウマ……」


 寂しい。一人ぼっちは、とても寂しい。


 ”だって一人ぼっちは、とても寂しいものだから”

“会えてよかった”


 蘇るのは、トーマが語って聞かせてくれた、雨季の始まりだという物語に登場する少女の言葉。

 今ならば、少女の言葉の意味がよく分かる。いなくなった少女を思って、雨を呼び寄せてしまうほどに泣いた魔法使いの気持ちが、とてもよく分かる。

 もう二度と、会えないのだろうか――不安が大きく口を開けてルウンを飲み込んでいく。

 胸にぽっかりと穴が空いて、今まで貯めてきた温かなものが全部流れ出てしまうような、そんな感覚に襲われる。

 こうやって少しずつ、全てが元通りになっていくのかと思った。

 トーマと過ごした温かな日々が遠い思い出となり、また一人きりで過ごす日常が戻って来るのかと。もう、前のように一人ぼっちではいられないのに――。

 夕焼けに染まっていた空が、徐々に色を変えていく。朱から紫へ、紫から紺へ、段々と夜の色へと。

 徐に立ち上がったルウンは、フラフラとおぼつかない足取りで屋根裏へと続く階段を上った。

 テーブルの上はそのまま、ただトーマが残した紙だけを手にして、階段を一段ずつ上っていく。

 上りきった先でぼんやりと部屋の中を見渡すと、ベッドに近づいて倒れこむようにしてうつ伏せに寝転んだ。ベッドがギシッミシッと不吉な音を立てる。

 どこもかしこも、トーマの匂いがした。温かくて優しい、日向の匂い。

 胸にポッカリと空いてしまった穴に蓋をするように、手の平を押し当てる。そして、まだ残っている温かなものを抱きしめるように体を丸めた。

 胸に抱いた紙が、クシャっと微かな音を立てる。

 わたしも、鳥になれたら良かったのに……と、不意にルウンは思った。

 鳥になれたら、トーマの元へと飛んでいける。街に呑まれることも、帰り道を見失うこともない。ただ真っ直ぐに、彼の元へと空を駆けることができる。

 考えながら目を閉じていたら、やがてルウンの体からくたりと力が抜けた。その拍子に、抱きしめていた紙がヒラリとベッドの下に落ちる。

 その僅かな喪失感にも反応して、ルウンは更に小さく体を丸めた。


 ***

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