パタンと本を閉じるように、そこで一旦口を閉じたトーマは、口元にふっと笑みを浮かべる。

 いつの間にか、ルウンがすやすやと寝息を立てていた。


「続きはまた今度、だね」


 小さく笑って囁いたトーマは、ルウンを起こさないようにそっと椅子から立ち上がると、枕元にあるボウルを手に取って、できるだけ足音を立てないようにして寝室を出た。

 氷が溶けてすっかり温まってしまった水を新しい物に変えると、またそっと寝室に戻って、今度は慎重にルウンの額からタオルを取る。

 こちらもすっかり温くなったものを持ってきた氷水に浸し、きっちり絞ってからまた慎重に額に戻す。

 かなり緊張感のある作業だったが、幸いにもルウンは僅かに身じろいだだけで、目は覚まさなかった。

 ふう……と安堵したように息を吐き、トーマは丸椅子に腰を下ろす。

 何気なく窓の向こうに視線を動かすと、いつの間にか雨が止んでいた。

 それでも空は変わらず分厚い雲に覆われていて、またすぐにでも降りだしそうな気配を濃厚に漂わせている。

 窓からそっと視線を外して、トーマはベッドの上に視線を戻した。

 眠っている顔は穏やかそうに見えるが、頬はまだ熱を持って赤く、呼吸も浅い。


「……今までは、どうしていたんだろうな。こういう時」


 ひたすらベッドに横になって、一人ぼっちで耐えていたのだろうか。それとも、無理していつも通りに動き回っていたのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えていたら、自然と手が伸びていた。

 気がついてハッとして、慌てて伸ばした手を引っ込める。危うくその指先が、白銀の髪に触れそうになっていた。


「何をやっているんだ……!!」


 何とか気力で声量を押さえて頭を抱えたトーマは、やがて音もなくすっくと立ち上がって足早に寝室を出る。

 そして隣の部屋を、またしても動物園のクマよろしくウロウロと歩き回った。もちろん、できるだけ足音は立てないように気をつけながら。


「ああ……ダメだ僕は何をしているんだ。寝ている女の子の頭を勝手に撫でていいわけないだろ!いや、起きていてもダメだけど!でも、ああ……これじゃあまるで――」


“寝込みを襲おうとしていたようだ”とは、未遂でも自己嫌悪が過ぎるので、流石に口にできなかった。

 そうしてトーマはしばらくの間、足音に気をつけながらウロウロと部屋の中を歩き回り、声を潜めて自分を叱り飛ばす。

 気の済むまでそうしてから、今度は疲れたように椅子に座り込んでテーブルに突っ伏した。


「本当にごめん……ルン」


 本人がいないところで謝ってもしょうがないことは分かっているし、そもそもに未遂なのだが、トーマはどうにも謝らずにはいられなかった。

 しばらくそうして机に突っ伏していたトーマは、やがて何の前触れもなく、よし!っと立ち上がると、ルウンがいつも外仕事用に使っているカゴを取りに行く。

 これはせめてものお詫びと、トーマはそっと扉を開けて曇り空の下に出て行くと、駆け足で裏に回った。

 勝手の分からない畑はチラッと視線を送っただけで素通りし、真っ直ぐに鶏小屋に向かう。

 騒ぐ鶏をなだめつつ、ルウンの手順を思い出しながら何とか作業を終えると、雨がぱらつき始めた中を再び駆け足で戻った。

 扉をそっと閉めてから寝室を覗きに行くと、ルウンはまだ寝入っている。

 ホッと一息ついて寝室から顔を引っ込めたトーマは、椅子に腰を下ろし、顔を突っ伏す代わりに今度はテーブルにバッグから取り出したノートを広げた。

 万が一ルウンに話の続きをせがまれた時の為に、予習しておこうと思ったのだ。

 あの話はトーマも聞いた話なので、その時ノートにメモを取った記憶がある。パラパラと捲っていくと、目的のページは割りとノートの最初の方にあった。


「そうだ……元気にしているかな、あのご夫婦」


 ふと思い出したのは、トーマに雨季の始まりだという話を教えてくれた老夫婦。

 歳の割にとても元気でよく喋り、よく笑う陽気な人達だった。

 実の息子のように可愛がってくれた二人を思い出しながら、トーマは文字を読み込んで、お話の流れを頭に叩き込む。

 記憶するのには自信があったが、またどんな風にペースが乱されるか分からないし、その時に覚えたことが飛ばないとも限らない。

 だから何度も何度も、念には念を入れて読み込む。

 時折ルウンの様子を窺いに寝室に顔を出しながら、トーマはその日ひたすらノートに向かっていた。

 途中からはもう、ルウンの為にお話を読み込んでいるというよりは、自分の為に文字を追いかける。

 そうしていると、色んな雑念が振り払えて無心になれた。

 熱で潤んだ青みがかった銀色の瞳も、どこかに行くのかと問う不安げな声音も、縋るように袖口を掴む指先も。それから、咄嗟にルウンの頭に伸びてしまった、自分の手も――。

 何もかも振り払って無心に文字を追いかけ、やがてトーマは、ノートの上に顔を伏せて寝落ちした。

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