耳元でチャプチャプと水の音がして、ルウンは薄らと目を開ける。

 視線を巡らせてみると、枕元にトーマが立っていた。


「あっ、ごめん。起こしちゃったね」


 視線に気がついて申し訳なさそうに笑ったトーマは、ルウンの額にそっと濡らしたタオルを載せた。


「具合はどう?少しはマシになったかな」


 どれくらい眠っていたのか定かではないが、心臓の音に呼応するようにして痛んでいた頭はだいぶよくなっている。

 ルウンがコクっと小さく頷いてみせると、トーマの表情がほんの少し緩んだ。


「何か食べる?キッチン使ってよければ、簡単なものなら作れるけど」


 ルウンは小さく首を横に振る。朝から何も食べてはいないけれど、お腹はちっとも空いていない。


「そっか、食欲はないか……。本当は少しでも食べたほうがいいんだろうけど」


 トーマは困ったように呟きながら、ベッド脇の丸椅子に腰を下ろす。

 ベッドの中からジッと自分を見つめる熱で潤んだ瞳に、そんな場合でないこと充分に分かっていても、トーマの胸が高鳴った。


「……やっぱり、もう少し眠るといいよ。そしたら、少しは食欲も戻ってくるかもしれな――」


 咄嗟に視線を逸らしながら告げると、トーマの言葉を遮るように、袖口が弱々しく引かれた。

 チラッと様子を窺えば、ルウンが不安げに見つめている。トーマにしてみれば、子犬のようなその瞳は正直反則だと思った。


「どうしたの?」


“平常心”を自分に言い聞かせながら、トーマは笑顔で問いかける。


「……トウマ、どこか……行く?」


 不安げに揺れる瞳と声音、縋るように袖口を掴む指先に、心臓がことさら大きく早く脈打ち始める。


「……どこにも、行かないよ」


 答えた瞬間、ルウンは目に見えてホッとしたように表情を緩めた。その安心しきったような顔は、トーマとしては反応に困る。

 ひとまず、袖口を掴んでいた指先を解いてベッドに戻すと、もう一度寝るように促す。途端にルウンは、困ったように顔を曇らせた。


「……眠くない、から」


 頭の痛さや熱っぽさに引っ張られるように、朝から幾度となく眠りに落ちていたルウンだったが、いい加減その眠気も遠のいてしまった。


「分かった。それじゃあ無理に眠らなくてもいいから、そのまま横になっていて」


 それならばと小さく頷いたルウンは、特に何をするでもなく横になったまま、またジッとトーマを見つめる。

 ルウンにそんな気はないのかもしれないが、トーマにしてみれば、見張られているような気がしてならない。

 それに、潤んだ瞳に長時間見つめられるのは、正直居た堪れなかった。

 即座に脳をフル回転させたトーマは、思い立ってすぐさま口を開く。


「ルンがよければ、退屈しのぎに何かお話でもしようか」


 思いつきで放ったそのセリフに、ルウンは想像以上の好反応を見せた。それは、提案したトーマの方が驚く程。


「えっと……そうだな。じゃあ、何がいいだろう」


 咄嗟の思いつきであったことと、すっかりペースが乱されてしまったこともあって、トーマの脳内はプチパニック。ルウンがワクワクした顔で見つめてくるのも、それに拍車をかけていた。


「ごめん!ちょっと待って」


 犬に“待て”をするように咄嗟に手の平を突き出して立ち上がると、ルウンの表情が一瞬不安げに歪む。

 けれど、それからトーマは動物園のクマよろしく部屋の中をウロウロと歩き回り始めたので、またホッとしたように表情を緩めた。

 待っている時間が長ければ長いほど、期待感も膨らんでいく。

 トーマは、一体どんなお話を聞かせてくれるのか。旅人として巡った場所や出会った人達の話だろうか。それとも、物書きとして創造した世界の話だろうか。

 どちらにしても、ルウンにとってワクワクするような話であることに違いなく、歩き回るトーマを追いかける視線も、自然と熱を帯びる。

 時間をかけるほどにルウンの期待感が高まっていることなど露知らず、トーマは部屋の中をウロウロ。部屋の端から端までを行ったり来たりしながら考えている途中、ふと顔を上げると、窓が目に付いた。

 勢いはさほどでもないが、今日も雨が降っている。それをジッと眺めていると、自然と足が止まっていた。

 しばらくそのまま窓の向こうを見据えて動きを止めていたトーマは、やがて何かを思いついたように一つ大きく頷いて、椅子まで戻って腰を下ろす。

 それを待っていたルウンは、一層表情を輝かせた。


「雨の話にしようかと思うんだけど、どうかな……?」


 ただでさえ気分が憂鬱になる雨季に雨の話など、尚更気分が落ち込むかとも思ったが、これまたトーマの予想を裏切って、ルウンはすぐさま頷いた。


「あっ、えっと……ルンは、雨季の始まりを知っている?」


 またもペースが乱れそうになったのを何とか気力で耐えて、トーマは問いかける。ルウンは、コテっと首を傾げた。


「……はじ、まり?」


 それは以前聞いた、”雨季の意味”とはまた違う話なのだろうかと考えていたところで、トーマがホッとしたように続ける。


「よかったら、聞いてくれる?」


 ルウンは一旦浮かんだ疑問を引っ込めて、小さく頷いた。


「今から話すのはね、大昔に本当にあったって言われている話なんだ」


 驚いたように目を見開いたルウンに、トーマはようやく力を抜いて楽しそうに笑った。


「それじゃあ定例に則って、昔々から始めようか――――」

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