頭の上から聞こえてくる鳥達の声に、ルウンの意識がゆったりと浮上する。

 開いた目を何度か瞬いてみると、視界が少し斜めになっていた。

 ぼんやりした頭でしばらく考えて、体が斜めになっていることに気がついたルウンは、ゆらりと体を起こす。

 見上げれば空は既に茜色に染まっていて、巣に戻る鳥達の姿が遠くに見える。

 視線を足元に移せば広げたままのティーセットがあって、そこから徐々に視線を上げたルウンは、自分の向かい側を見つめて二、三度目を瞬く。

 そこに、あるはずのものがない。

 いや、いるはずの人物がいない。

 寝起きでぼんやりしていた頭が段々と覚醒してきて、ルウンは大きく目を見開く。

 それから、消えてしまったトーマの行方を探そうと首を巡らせて、横を向いた瞬間に動きを止めた。

 自分の真横、肩が触れ合いそうな程近くにトーマがいて、その体は斜めに傾いている。

 テーブルの縁に頭を預けた状態で目を閉じて、安らかな寝息を立てるその姿に、ルウンは息を呑んだ。

 そこで、はたと気がつく。

 コクリと喉を鳴らして意を決し、ルウンは自分の考えを確かめるようにゆっくりと体を斜めに倒していく。

 コツっとトーマの肩に自分の頭が触れた時、つい先ほど、目が覚めた時に見たのと同じ斜めの景色が視界に広がった。

 勢いよく体を起こしてトーマから距離を取ると、慌てていた指先がカップを引き倒し、自分でもビックリするほど大きな音を立てた。

 その音に、トーマのまぶたが覚醒の兆しをみせて揺れる。

「んん……?」と聞こえた声にルウンは急いで立ち上がると、持ち上げたお盆の上でティーセットが跳ねるのも構わずに、一目散に洋館に向かって駆け出す。

 トーマが薄らと目を開けるのと、館の扉が音を立てて閉まるのはほとんど同時だった。


「あれ、僕なにして……――ルン?」


 トーマが寝起きでぼんやりする頭を起こして周りを見渡した時、そこには既に自分以外の人影はなく、代わりに置き去りにされた黄色い布が地面に広げられたままになっていた。


「これは……もしかして、嫌な予感的中かな」


 忘れられた布を拾って振り返ると、館の扉はピッタリと閉じられていて開く気配はない。

 なんだか、建物からも拒絶されているような気がして、トーマは困ったように笑った。


「やっぱり、ルンは猫だな」


 顔は困っているのに、どこか楽しそうに呟いて立ち上がると、拾い上げた布の土埃を払って椅子の背もたれにかける。


「まだなにも聞けてないのに、出て行けって言われたらどうしよう」


 切実さの欠片もない声でのんびりと呟いて、トーマはバッグを手にいつもの定位置にゆったりと戻る。

 まだほんのりと温もりが残っているような気がする肩に手を当てて、トーマはふっと頬を緩めた。

 自分も眠ってしまうまでのほんのひと時、肩に感じる重みと、隣から聞こえてくる微かな寝息、すぐそばにある安心しきった寝顔は、まるで人見知りの激しい猫が懐いてくれたような、そんな心がほっこりと温まる喜びを感じさせてくれた。


「そういえば……いつだったかお世話になったおばあさんの家にいた猫も、人見知りの激しい子だったな。不用意に近づいて散々引っ掻かれたっけ」


 バッグを地面に置いて自分も腰を下ろすと、トーマはいつものようにそこに頭を乗せて横になる。


「元気にしているかな……」


 ポツリと呟いてから頭に思い浮かべた顔は、おばあさんでも人見知りの激しい猫でもなく、ルウンの顔であったことに、トーマは小さく笑った。


 **


 その頃洋館の中では、寝室のベッドの上、ルウンが頭からすっぽりと布団を被って丸くなっていた。

 未だバクバクと煩い程に鳴り続ける心臓を抑えて、ルウンはギュッと目を瞑る。

 目を閉じれば、浮かんでくるのはトーマに寄り添うようにして眠る自分の姿で、今度は堪らず目を開ける。

 部屋の中も薄暗いが布団の中はもっと暗くて、目を閉じていてもいなくても、暗がりにトーマの姿が浮かんでくる。

 ふるふると頭を激しく横に振ってガバっと身を起こしたルウンは、寝室を出て隣の部屋に向かい、テーブルの上に置きっぱなしにしていたティーセットを洗いにかかった。

 ガシガシと一心にカップやティーポットを洗っていると、少しずつ心臓の音も落ち着いてくる。

 ルウンは、小さく息を吐いて手を止めた。

 あんなに近くに他人を感じたのは初めての事で、思い出せばまた心臓が高鳴り出す。

 でも、嫌な感じのドキドキではない。

 確かにビックリはしたけれど、それだけ。

 窓から外を眺めれば、茜色の空が徐々に紫に染まっていくのが見えた。

 もうすぐ、夜がやってくる。

 ここからは見えるはずもないのに、ルウンは外の景色の中に、自然とトーマの姿を探してしまう。

 明日顔を合わせたらすぐにでも、逃げるようにその場からいなくなってしまった事のお詫びと、肩を貸してくれた事へのお礼をしなければと思った。


「……お礼」


 ポツリと呟きながら動き出した体は、しかしすぐにピタリと止まる。

 果たして、明日もトーマはいつもの場所にいるのだろうか――。

 せっかく親切に肩を貸してくれたのに、お礼も言わずに逃げ出した自分に腹を立て、さっさと荷物をまとめて出て行ってしまったりはしていないだろうか――。

 考えれば考えるほど不安が胸を覆い尽くして、表情にまでそれが滲み出る。

 先ほどとは全く違った意味で、胸がドキドキしてきた。

 不安は募るばかりだが、どうしたらいいのかは分からなくて、どうしたいのかも分からない。

 答えを求めるように窓の向こうに視線を移すと、外はもう間もなく、夜の帳が降りようとしていた。


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