その姿を見送るように視線を上げた少女は、その途中でトーマとバッチリ目があった。


「キミはまるで、この森に住む妖精みたいだね」

「……?」


 少女がコテっと首を傾げると、トーマはカップを置いてから、何気なく自分の隣に手を伸ばす。

 伸ばした手が何もない空を掴んだことに驚いて視線を向けると、ハッとしたように振り返った。

 さっきまで自分がいたところに、ポツンとバッグが置き去りにされているのを見ると、トーマはホッとした顔で立ち上がる。


「どこにやったかと思って焦っちゃったよ。これには、僕の大事な商売道具が入っているからね」


 バッグを抱えて、安心したように笑いながら戻ってきたトーマが腰を下ろすと、ふわりと日向の匂いがした。


「実はね、キミがこの森に住む妖精だったらって考えた話があって」


 トーマは、荷物から取り出したノートをパラパラと捲っていく。


「あと他には、とっくの昔に潰えたはずの魔女の末裔とか。とある国から亡命してきた王女様とか」


 楽しげに語るトーマの声を聞きながら、少女はお茶を飲む。


「どれもこれもいいお話は書けそうなんだけど、いまいちピンと来ないんだよね。なんだろう……なにかが違うっていうか、これじゃないって感じがして」


 難しい顔で唸るトーマを見ながら、少女はパンをちぎって口に運ぶ。


「だからさ、やっぱり思ったんだ。今回書くお話は、僕の勝手な想像じゃダメなんだなって」


 もぐもぐと噛み締めていたパンを飲み込んで、お茶も一口飲んだところで、少女はようやく手を止める。


「僕は、自分が面白いと思ったものを書きたいんだ。僕自身が、これだ!って思ったものをね。だから今回は、どうしてもキミの話が聞きたいんだ」


 困ったように首を傾げる少女に、トーマは笑顔を向ける。


「難しく考えないで。全然特別な話じゃなくていいんだ。僕が知りたいのは、この森で、この洋館で、キミがひっそりと紡いできた日常なんだから」


 そう言って、トーマは子供みたいに無邪気に笑う。


「それじゃあ早速だけど、聞いてもいい?」


 何を聞かれるのかとドキドキしながら、少女はコクっと頷き返す。


「えっと、それじゃあ……」


 トーマは、手にしていたノートをパラパラと捲った。

 トーマが持っているノートは随分と古いもののようで、いつもバッグに入れて持ち歩いているからなのか、こうして外で使っているからなのか、全体的に形が歪んでいた。

 パラパラと捲られていく中の紙も、すっかり黄ばんでいたり、シミがついていたり、端がちぎれているものもある。

 それをぼんやりと見つめながら、少女は再びパンをちぎって口に運ぶ。

 やがてトーマは、まっさらなページを開いて手を止めた。


「どんなことを質問しようか、書き留めたつもりだったんだけど……。どうやら、自分の想像を残すことに夢中になって、忘れていたみたいだ」


 ははっと笑って、「そういうわけだから、ちょっとだけ待ってね。すぐに考えるから」とトーマが言う。

 少女はコクっと頷いて、またパンを食べる。

 ふかふかのパンと一緒に木の実をカリッと齧れば、香ばしさが口の中に広がった。


「ええっと、そうだな……」


 迷うように呟きながら、トーマは万年筆のお尻でガリガリと頭をかく。


「聞きたいことはたくさんあるんだけど、まずは何から始めたらいいか……」


 どうにも決めかねている様子のトーマを眺めながら、少女はお茶を啜る。

 チラッとバスケットに視線を移せば、残りパンは一つ。

 手を伸ばそうかどうしようか迷いながらカップの中身をちびちび飲んでいると、突然トーマが「ああ!」と声を上げた。

 その声に、少女の肩がビクッと震える。

 視線を移すと、トーマはとても可笑しそうに笑っていた。


「……?」


 少女が不思議そうに首を傾げると、トーマは可笑しそうな表情のままで口を開く。


「とても大事なことを忘れていたよ」


 万年筆を持ち直して、まっさらなページにペン先を置くと、書き出す準備を整えてトーマが続ける。


「まだ、キミの名前を聞いていなかった」


 言われて初めて、少女も自分がまだ名乗っていなかったことに気がついた。

 思えば誰かに名前を聞かれることも、自分から誰かに名乗ることも、今までなかった経験だから、初めてのことに少女の胸が僅かに緊張で高鳴る。


「じゃあ、改めて。キミの名前を、教えてくれるかな?」


 コクっと小さく頷いた少女は、心を落ち着かせるように一度息を吐き出す。

 それから、吐いた分をスッと吸い込んで、口を開いた。

 少女の口から零れ落ちた音を捉えて、トーマはすぐさまペンを動かす。

 けれどそれは、文字を生み出すことなくすぐさまぴたりと止まって、そのまま動かなくなった。


「えっと……ルーン?」


 少女はふるふると首を横に振る。


「ルウン」

「ええっと……、ルー……」


 言い終わる前にルウンが首を横に振ると、トーマは困ったように笑いながら、また何度も言い直す。

 その度に、ルウンも今気強く首を横に振って、訂正を続けた。


「うーん……微妙な違いなんだけど、難しいな」


 二人が住む国は、東西南北四つの地域に分かれていて、同じ言語を使っていても、生まれた地域によって若干の訛りや発音の違いが存在する。

 その為、トーマは慣れない音にかなり苦戦していた。

「ル、ルー、ルーン……いや、違うな」と何度もブツブツ呟いて、終いには頭を抱え出す。

 そして唐突に、何かを閃いたようにパンっと手を打ち鳴らした。

 止まっていたペンが、ようやく紙の上を動き出す。

 相変わらずのミミズ文字を眺めていたルウンは、書き終わって顔を上げたトーマと目があった。


「ごめんね。どうしてもキミの名前をうまく発音できないから、もし嫌じゃなかったら、別の呼び方をさせてもらおうと思って」


 申し訳なさそうなトーマの言葉に、少女はひとまずコクリと頷き返す。


「えっとね、キミのこと“ルン”って呼んでもいい、かな?」


 おずおずとしたトーマの口から発せられた言葉、その響きが、少女の鼓膜を揺らした。

 しばらくその余韻に浸るように、少女は黙り込む。


「やっぱり、嫌かな……?そりゃそうだよね。昨日あったばかりの男に、突然馴れ馴れしい呼び方をされたら、そりゃあ嫌に決まって――」


 トーマの言葉を遮るようにして、ルウンは慌てて首を横に振る。

 決して嫌だったから黙っていたわけではない、ただ初めての響きに、少し戸惑ってしまっただけだった。

 首を振っただけではまだ不安そうなトーマに、ルウンは小さな声で「嫌、じゃない……」と返す。

 それでようやく、トーマの顔に安心したような笑みが広がった。


「そっか……良かった」


 トーマのホッとしたような呟きを聞きながら、ルウンは心の中で何度も“ルン”と呟いてその響きに浸る。

 なんだかくすぐったいような気がするけれど、全然嫌な感じはしなかった。


「……?」


 突然目の前に差し出された右手に、ルウンは顔を上げてトーマを見つめる。


「昨日もしたけどね。でも、改めてこれからよろしくの意味を込めて」


 そう言って笑うトーマに、ルウンは差し出された手をしばらくぼうっと眺める。

 まさか、握手というものをこんなに何度も経験することになるとは思わなかった。

 一度顔を上げて笑顔のトーマを見つめると、また差し出された手に視線を落として、ようやくルウンはおずおずと手を伸ばす。

 その手が差し出した手に届くのをジッと待って、トーマは指先がちょこんと触れたルウンの手を、迎え入れるようにして優しく握った。


「これからよろしくね、ルン」


 手の平に感じるトーマの温かさ、久しく感じることのなかった自分以外のその温もりに、ルウンの胸が微かに高鳴る。


「これからは遠慮なくルンって呼ぶから、僕のことも気軽にトーマって呼んで」


 コクコクと何度も頷いてみせるルウンに、トーマは笑みを零す。

 天気は快晴、ぬくぬくとした気温の中、向かい合うトーマにルウンは、はにかむようにして笑ってみせる。

 初めて見るルウンの笑顔に、トーマはなんだか嬉しくなった。

 ようやく心を許してもらえたような、少しだけ近づけたような、そんな気がしたから。


「よろしく。……トウマ」

「……ん?」


 先ほどの自分と同様、やや異なる音の響きが聞こえて、トーマは首を傾げる。

 けれどすぐに「まあ、いっか」と笑った。

 ちょっとくらい響きが違っても、自分が呼ばれていると分かればそれでいい。

 午後の日差しが柔らかく降り注ぐ中、風が枝葉とルウンの白銀の髪を優しく揺らしながら通り過ぎて行く。

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