B-5

 「今や、ありとあらゆるものが貨幣で取引できるようになっている」


 この表現レトリックははじめ疑いようもなく、『これまでにない程、なんでも貨幣に換えられるようになった時代』という警句の変奏に過ぎなかった。記憶に定かではないが、いつ頃からかそれは、無邪気に消費社会を歓迎する合言葉へと姿を変え、一気に人口に膾炙しはじめた。


 商品目録カタログページの中では、小窓に区切られた幾つもの『商品』たちが楽し気に惹句を纏い、見る者の購買意欲を煽るように踊っている。販売業者側も、空前の大消費社会を寿ぐかのように、目新しい選り抜きの新商品を何百と揃えてみせているようだ。品定めをする消費者側にとってみれば、見るもの、聞くものすべてが新鮮。ちなみに「商品」としての「見るもの義体眼球」「聞くもの義体耳」の流行は、鳶色など淡い寒色をした重瞳と、薄く尖った耳朶みみたぶの小さいものだ。街を歩いてみれば、青や緑の重瞳をした男女何人ともすれ違うことになる。


 

 いま私は、社会の潮流にやや遅ればせながら、この大消費社会を本格的に楽しもうと商品目録を物色しているところだ。これまで使いどころのなかった報酬の累積は、全商品を買い占めてもなお余りある程莫大な金額になっていたが、買い物を楽しむうえでそれは殆ど無意味なものだ。買い物の醍醐味とは、並べ立てられた商品のひとつひとつを矯めつ眇めつしながら、どれが自分の欲望を最も直截的に叶えてくれるのだろうと思案し、答え合わせを楽しむプロセスにこそあるのだから。

 

 今日こんにちの消費社会を喜ばない人種の声は、日に日にか細くなりつつある。生まれ持った「本当の自分」の尊重を説く彼ら自然主義者ナチュラリストを、「『元』お仲間自然主義者」である私は、しかし時代に駆逐されゆく可哀想な人々だと冷淡な目で見ていた。外形も中身もすべて貨幣で取引でき、誰もが洒脱でスマートな「理想の自分像」たちに占拠された現代社会において、彼らの野暮ったい見てくれと不器用な振る舞いは、滑稽という言葉が似合うほど悪目立ちしていた。


 細く柔らかな緩やかなウェーブの髪や艶っぽく腰のある直毛、何種類かの形のいい胸、メリハリの利いたラインを描く脚やほっそりとした手指。そしてそれに似合う仕草や立ち居振る舞い、話し方からコミュニケーションスキルまで、自分の願うあらゆる種類の「憧れ」をちょっとした金額で手に入れられてしまえる大多数の現代人に対して、立ち向かうための道具として「本当の自分」とはいかにも弱弱しい。


 新しく施術を行う移植情報を物色しようとページをめくると、商品目録カタログページの中に見慣れたフレーズを見つけて、ついにやついてしまった。22歳の冬の日に、私はこのフレーズを見せられて口説かれたのだ。


 陳腐だと評する向きもあるが、私は内心なかなか悪くないキャッチコピーなのではないか、と思っている。短く、端的で、直截的で。すべては、「そこ憧れ」から始まるのだ。








「女性は内側から美しく!当社はすべてのお客様のを実現します」





                                   <了>

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感情教育マーケット 威岡公平 @Kouhei_Takeoka

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