花仙国伝 後宮の睡蓮と月の剣／天川栄人

第一章 その４

「明遠様」

　宮の外に出ると、額に飾り紐（ひも）を巻いた燦逸が顔を青くして待っていた。明遠の顔を見るや、さっと手を上げ、

「ああ、どうか何も言わないでください。どうせ良からぬことになったに違（ちが）いない」

「失礼ね！　否定はしないけど！」

　燦逸はがっくりと肩（かた）を落とす。明遠は腕（うで）を組み、

「紅玉様って嫌（いや）な人ね。私はお前の母だ、だって。初めて会ったのに」

「まあ、今の皇太后殿（でん）下（か）のお立場なら、誰だって恐（きよう）々（きよう）とした気持ちになるでしょう。王宮を追い出されるのではないか、と」

「まさか。口だけでしょ。出ていく気なんかないわよ、あの人」

　明遠がさらりと言うと、燦逸はちょっとだけ驚（おどろ）いたような顔をして、

「明遠様、申し訳ありません」

「何よ急に」

「私、明遠様はちょっぴりお頭の弱い方なのかと思っておりました」

「ちょいちょい失礼よね、燦逸って……」

　燦逸は一度咳（せき）ばらいをし、

「ご明察です。皇太后殿下は後宮を出て行く気などさらさらないでしょう」

　燦逸の言う通り、皇太后は明らかに、王宮での権力を固持したがっていた。でなければ、初対面の明遠に対して『従え』なんて言わないはずだ。

「先ほども申し上げましたが、大方の予想では、皇太后殿下のご息女の那珂様が、次の王と考えられていたのです。実際、那珂様なら血筋も能力も申し分ない。王の素質は十分とお見受けしておりました」

　明遠には、王の素質とは何なのかさっぱり分からない。けれど少なくとも、那珂は紅玉と違って嫌味一つ言わなかったし、明遠に対し、終始優（やさ）しかった。

「実は、即（そく）位（い）式（しき）までの間、明遠様の『王様教育』は、那珂様に指導をお願いしております」

「先生役ってこと？　あたしの？」

「ええ」

　燦逸はとっくり頷（うなず）いた。

「ご自分が受けて来られた教育を無（む）駄（だ）にしてしまわないよう、明遠様に一部でもお教えしたいのだと……あちらからの強いご要望で」

「えっ聖女なの？　良い人すぎて怖（こわ）いんだけど。見て、鳥（とり）肌（はだ）立ってきた」

　明遠が右腕を見せようとするのを、燦逸はやんわり断って、

「鳥肌はともかく……那珂様を嫌（きら）う者などおりませんよ。聡（そう）明（めい）で、誰にでもお優しい」

　顔を緩（ゆる）ませる燦逸。那珂が臣下からも慕（した）われていることがよく分かる。だからこそ……、

「那珂が王なら良かったのに」

「文句なら花仙に直接仰（おつしや）いなさいまし。明遠様のご到（とう）着（ちやく）を首を長くしてお待ちですよ」

「誰が？　花仙が？」

「さようにございます。ご案内しましょう。こちらに」

　ようやく諸悪の根源と相まみえるわけだ。明遠は腕まくりをし、燦逸の後に続いた。

　内（ない）廷（てい）の中央、後宮を背後に据（す）えた白（はく）泉（せん）宮（きゆう）が、王の居宮である。石（いし）壁（かべ）の回（かい）廊（ろう）に囲まれた巨（きよ）大（だい）な宮は、見るも鮮（あざ）やかな瑠（る）璃（り）瓦（がわら）ぶき。柱という柱に吉（きつ）祥（しよう）の文様が彫（ほ）り込まれ、家具や照明、建具に至るまで、素人（しろうと）が見ても一級品と分かる壮（そう）麗（れい）さだ。案内されるままついて行くと、執（しつ）務（む）室、書（しよ）斎（さい）、衣（い）裳（しよう）部屋、居室、寝（しん）室（しつ）……飛翔の庵（いおり）が十は入りそうな広さで、明遠はめまいがした。

　居室の手前で、燦逸はようやく足を止めた。彼が手を叩（たた）くと、どこからかさっと女（によ）官（かん）が現れ、ずらりと廊（ろう）下（か）に並ぶ。明遠を迎（むか）えに来た燦逸の部下同様、彼女たちも特（とく）徴（ちよう）的な飾（かざ）り紐を額に巻いていた。

「彼女らが身の回りのお世話をします。播家の者しかおりませんので、どうぞご安心を」

「播家って？」

「貴方（あなた）の味方です」

　言いながら、燦逸は飾り紐で額に留められた小さな石を指さした。

「それって、その紐を巻いてない人はみんなあたしの敵って意味？」

「ははは、明遠様はご冗（じよう）談（だん）がお好きだ」

　燦逸は棒読みでそう言って、そそくさと立ち去ってしまった。不（ふ）穏（おん）だ。

「明遠様、こちらに」

　廊下で突（つ）っ立っていても仕方ないので、明遠は女官が招く方に足を向ける。王がくつろぐための居室。寝室と繫（つな）がっているらしい。

「ここで花仙がお待ちです」

　そう言って、女官が戸を引いた瞬（しゆん）間（かん）、

「！」

　明遠はとっさに身を屈（かが）めた。野性の勘（かん）だ。直後、視界を何か白いものが横切って行き、背後でふごっという情けない音がして、泣き交じりの声が響（ひび）いた。

「なぜお避（よ）けになるのです！」

「そっちこそ、なんで飛びついてくるのよ！」

　振（ふ）り返ると、そこにいたのは、

「長い間、お待ち申し上げておりましたので……！」

　柱にぶつけたのか、赤くなった額を気にも留めず、胸の前で手を合わせて目を輝（かがや）かせる……、それはそれは綺（き）麗（れい）な青年だった。

「あなた……」

　そこまで言って、言葉が続かない。明遠が驚くのも無理はなかった。瑞の民（たみ）は大（たい）概（がい）、黒い直毛に浅黒い肌（はだ）をしているものだが、彼の髪（かみ）は色が薄（うす）い上にふわふわとした巻き毛で、肌ははっとするような白（はく）皙（せき）。額には大きな花の紋（もん）があった。これだけでも十分目を引くが、極（きわ）めつけに、彼の少し垂れた目は、虎（とら）眼（め）石のような鈍（にぶ）い金色をしている。

　一目見るだけで人ならざる存在と分かる、美しい、生き物。

「あなたが……新しい花仙？」

　確信を込めて、明遠は問う。彼は姿勢を正し、頷いた。幼さの残る顔立ちながら、背筋を伸（の）ばせばすらりと長身で、そばに立つと明遠は彼を見上げなくてはならなくなる。

「いかにも、私が瑞湖国の新しい花仙です。初めまして、明遠」

　彼は長いまつ毛を伏（ふ）せ、ふわりと笑（え）んだ。美（び）貌（ぼう）の青年にいきなり呼び捨てにされ、明遠はたじたじになる。だいたい、ただ目を合わせただけなのに、どうしてこんなに嬉（うれ）しそうなのか。

「おかけになっては？」

　なぜか上（じよう）機（き）嫌（げん）な彼は、勝手知ったる我が家のように明遠に席を勧（すす）め、自分は卓（たく）を挟（はさ）んで向かいの椅（い）子（す）に腰（こし）かけた。間（かん）髪（はつ）を容（い）れず、女官たちがわらわらとやってきて、お茶を淹（い）れたりひざ掛（か）けを用意したりと、せわしなく視界をうろちょろする。青年は平然としているが、明遠はどうしても落ち着かなかった。それに、明遠には不必要なくらい甲（か）斐（い）甲（が）斐（い）しく世話を焼くくせに、青年にはひと声もかけず、顔を見ようともしないというのはいかがなものか。

「あの……あたし、喉（のど）は渇（かわ）いてないし、寒くもないの」

　明遠は迷いつつも、女官たちにそう告げた。すると女官の一人が恐（きよう）縮（しゆく）して頭を下げる。

「これは、出過ぎた真似（まね）を。お許しください」

「あ、そうじゃなくて」

　何十も歳（とし）の離（はな）れた相手に低頭されては、明遠の方が当（とう）惑（わく）してしまう。青年は苦（く）笑（しよう）しつつ、

「明遠、用済みならば、『下がって良い』と」

「ああ……、その、じゃあ、下がっていいわ」

　明遠はしどろもどろでそれらしく命令をし、他（ほか）の女官たちにも目配せすると、

「ありがとう」

　そう付け加えた。女官たちは顔を見合わせた後、奇（き）妙（みよう）な表情で一礼し、室（へや）を出て行った。明遠はほっと一息つく。

「おかしな方だ。あの者たちにいちいち感謝の言葉は必要ありませんよ」

「どうして？」

「どうしてって、彼女らは女官で、あなたは王だから」

　当然のように言う花仙の青年。そこで明遠はようやく当初の目的を思い出した。彼に言わなければならないことがあるのだ。

「あなた……その」

　明遠は言いかけて、言葉を切った。あっちは呼び捨てなのに、こっちはいつまでも『あなた』じゃあ締（し）まらない。

「……あなたの名前は？」

「私ですか？　みな睡蓮と呼びますが」

「睡蓮……そうか、あなたも睡蓮の花仙なのね」

　世界には、国の数だけ花仙がいる。

　椿（つばき）に薔（ば）薇（ら）、牡（ぼ）丹（たん）、蘭（らん）と、その種類は様々。しかし、花仙はそれぞれの花の性質に合った場所でしか生きられない。高山の国・瑞では、建国以来ずっと、寒さに強い睡蓮の花仙が咲（さ）いてきた。そして新しく生まれた彼もまた、睡蓮仙ということらしい。

「でも、それは名前じゃないでしょ」

「ええ」

　彼は待っていましたとばかりに、

「花仙は契（けい）約（やく）のときに王から真名を頂（ちよう）戴（だい）するのです。明遠、あなたが名付けてください」

　明遠は眉（み）間（けん）に力を入れ、長く息を吐（は）きだした。このままだと彼の調子に乗せられてしまう。

「あたしは……王にはならない」

「……？」

　彼はきょとんとしている。心底意味が分からないというような、いっそ純（じゆん）粋（すい）な表情。

「でも、明遠は王ですよ？」

「違（ちが）う」

　明遠は強く言い切る。

「あたしはほんの数日前まで、田舎（いなか）の宿屋で下働きしてた、ただの庶（しよ）民（みん）で……、自分が王族だってことも知らなかったのに、急に呼び出されて王になれだなんて」

　無理だ。明遠には、そんなこと。

「断るためにここに来たの。あたしは王になる気はない」

　花仙の青年は、しばらく黙（だま）ったままだった。美しい顔が、捨てられた犬のような表情に変わっていく。彼は明遠を上（うわ）目（め）遣（づか）いで見やると、

「……でも明遠は王です」

　そう繰（く）り返した。

「あなたねえ……」

　めでたく振（ふ）り出（だ）しに戻（もど）る。明遠が次の策を探していると、彼は不意に明遠の手を取った。

「な、……何？」

　両手でぎゅっと握（にぎ）りしめられ、明遠の顔は勝手に火照（ほて）る。何しろ、飛翔以外の男性に手を握られたことなんてないのだ。動（どう）揺（よう）する明遠をよそに、彼は、困ったような、憂（うれ）いたような表情を浮（う）かべ、金の瞳（ひとみ）でこちらをじっと見つめた。

「明遠、契約を。私に名前を下さい」

　明遠はとっさに青年の手を振り払（はら）った。うかうかしていると自分を見失いそうだ。

「契約って？」

「明遠は花印をお持ちでしょう」

　明遠は左手に視線を落とす。手の甲（こう）に、薄い痣（あざ）。花仙に選ばれた者の証（あかし）だという……。

「今はまだ、契約が完（かん）了（りよう）していません。だから花印もそんなに薄い。私に名前を下さい。それをもって契約成立となり、王と花仙とは一（いち）蓮（れん）托（たく）生（しよう）、一生を共にします」

　一生を共に、なんて言われても、想像がつかない。

「名前って……あたしがつけなきゃいけないの？　自分でつけたら？」

「花仙の真名は、王にしか分かりません。王ならば、考えずとも自然に頭に浮かんでくるものと言います」

「自然に……」

　明遠は一応目を瞑（つむ）って集中してみる。けれど、頭の中にはふわふわの髪がちらつくばかりで、名前なんて一文字も浮かばなかった。

「ごめん、分からないわ」

　へにゃりと笑ってごまかす明遠。青年はむっと口を曲げて不服を表明している。

「やっぱりあたし、王じゃないんじゃない？　何かの間違いで……」

「明遠」

　睡（すい）蓮（れん）仙は真（しん）剣（けん）な表情で遮（さえぎ）った。

「次の王はあなたです。受け入れてください。そうすれば、私は誠意をもって、あなたに力をお貸ししましょう」

「力？」

　そう言えば、花（か）仙（せん）には特別な力があるという。人の心を操（あやつ）ったり、噓（うそ）を見（み）抜（ぬ）いたり、姿を変えられる花仙もいるとか。

「睡蓮仙の力って、何なの？」

　興味本位で尋（たず）ねてみると、

「夢です」

　彼は短くそう答えた。

「睡蓮仙は、夢を見るのです」

　明遠の眼（め）が飛翔くらい細くなる。どっと疲（つか）れが押し寄せてきた。

「……そりゃ幸せな仕事だわね。おやすみなさい」

「明遠っ！　私は本気で言っているのです！」

　青年は再び明遠の手を摑（つか）んで、上下にぶんぶん振る。

「とにもかくにも、契約を！　話はそれからです！」

「知らないったら知らない！　あたし、帰る！」

「明遠っ！」

「ぎゃああ離して！」

　少女にすがりつく青年。人（ひと）払（ばら）いしておいてよかった。ほとんど情けない光景だ。

「ああもう、鬱（うつ）陶（とう）しい！」

　抱（だ）きついてくる彼をなんとか引きはがしながら、頰（ほお）に触（ふ）れる柔（やわ）らかい髪（かみ）に、明遠はなんだか既（き）視（し）感を覚えた。いったん動きを止め、眼をしばたたかせる。

　瑞は高山の国だ。農工資源に乏（とぼ）しく、わずかな産業といえば、酪（らく）農（のう）。

「あなた……」

　もこもこの髪に、つぶらな金色の瞳。温順に見えて意外と頑（がん）固（こ）。主（あるじ）と見るや、どこまでも追いかけ、意地でも離（はな）れたがらない……。

「……羊」

「え？」

「羊に似てるわ」

「……ヒツジ、ですか」

　この日、明遠は結局花仙に真名を与（あた）えなかったし、契約も完（かん）遂（すい）しなかった。ただ、少なくとも『あなた』以外の呼び方を見つけた。いわく、ヒツジと。