第42話 飛翔

「凪海選手‼ 残り時間1分です‼

 既に、3アテンプト‼ 次のトライが最後の挑戦になりそうです‼ ガンバ‼ 」

 MCの言葉で2人は、舞台で孤独に挑む一花を見つめた。


「ガンバ……頑張れ……頑張れ、一花先輩……」

 もう叫ぶ事もままならない喉で、華は必死に搾り出す。


 ――妹の為じゃないと言えば、嘘になります。

 谷寺の脳裏に甦る、確かな記憶。


「そうだ、一花。

 登るんだろ? ツグの為でなく――自分の為に。

 その為に……お前は、わたしの元でやってきたんじゃないか……

 勝つ為に――‼ 」


 先程の野村と比べ、余りに危なっかしく、余りに不安定な一花のトライ。

 だが――。何故だろう。

 何故、彼女の一挙手一投足が……こんなにも見る者の心を奪う?


 制限時間終了のブザーの音も聞き逃す程、MCも会場も野村の時とは違う空気に包み込まれる。


「うぅぅあぁあああああーーー‼ 」一花の悲痛ともとれる咆哮。そしてしっかりと掴まれる最後のホールド。

 瞬間――会場を埋め尽くす程の大歓声が。


 その場に居た誰もが思った。

 何故、こんな選手が今まで出てこなかったのだ?

 それはとても簡単な事実が解答だった。

 以前の一花なら、ここまでの強さを見せる事はなく。それこそ、以前の谷寺の評価通り予選で敗北していても不思議ではなかった。

 この現象を、スポーツ界では『ミックスアップ』と呼ぶ。

 その一花の勇気が齎した産物とも言えるだろう。今までとは違う精神状態で得た経験値によって、一花はこの大会中にも信じられない速度でどんどんと強さを増したのだ。

 一花本人でも気付いていなかったそれを――。

 歴戦の強者の野村と、一番近くで彼女を見ていた谷寺だけが知っていた。


「凪海選手……すごい……‼

 アテンプト数は4ながら……第4課題も遂に完登……‼

 最終課題を前に……2位以上が確定しました……‼ 」


「ぐぅう……い、一花先輩……がんばれぇ……」

 そこで、声援を送る事しか出来ない自分に華は悔し涙を浮かべた。


 満身創痍の一花の前に立ちはだかるは……。

 前人未踏、最大最強の課題。


 無力を感じる華と反対に。

 一花の胸は華と、谷寺、そして妹への感謝の気持ちで溢れていた。


 だからこそ。

 ――身体が動く限り……目指すんだ……‼


 一花が最終課題に手を伸ばした瞬間。

 会場の空気がビリビリと痺れを帯びる。


 群衆は、魅せられる。

 野村の様に、偉業を難なく見せる特殊な能力だけではなく。

 ボロボロに弱る等身大の少女が必死に挑むその悲痛な姿にも。


 今、会場は。

 一花を中心に呼吸を始めた。


 この空気は――。

 大会というものを熟知している者なら知っている。


 ――信じられない出来事が起こる時。


 なんと、この最終課題の初っ端のトライで。

 一花は最終地点まで到達する。

 全員が野村の時とは違う緊張感で息を呑んだ。


 ――さぁ一花、お前は一体どんな解答を出したんだ?

 谷寺が目を細めてその行く末を見守ると。

 一花は大きく息を吐くと同時に、その身体を左右に揺さぶり始めた。


「野村の時と同じだ‼ 」誰かが、騒ぐ様にそう口にする。


 ――一花もスウィング・バイ……だが、それでは野村と同様だ。

 しかも、体格さで圧倒的に上回る野村ですらも通用しなかった策。今の一花では万に一つの可能性もない。

 そして、それ以前に。


「あっ‼ 」

 華が悲痛な声を挙げると同時に、一花は振り子運動の反動を支えきれずそのままマットに落下した。

 そして、その姿を見て誰かが口にした。

「仕方ないよ。それでも、ここまで野村に肉薄しての2位だ‼ 」

 そうして、その言葉を受けて徐々に会場の全員がまるで子どもの運動会を眺める親の様に優しい声援を一花に掛け始めた。


「ちがう……やめてよ……

 いちかせんぱいは……まだ、おわってないんだよぉ……」

 だが、華にも解っていた。その一花にはもう力が残っていない事。

 肩を震わせると俯いて溢れる涙を隠す。しかし、それを阻止する様に谷寺が華の顔を起こした。

「信じるんだろ? 一花を。

 例え、わたし達だけになっても……」



 ――ああ……なるほど。あの姿勢だと身体が安定して振れないんだな……

 ふらふらと立ち上がると、一花は腰のチョークバックを外し足元に置いた。ほんの少しでも身を軽くしたかった。その重量すらが煩わしかった。

 そしてその壁を見上げ――彼女は思った。


 ――きっとこの課題。ツグが見たら喜んだだろうな。

 筋肉疲労、いやそれだけではないだろう。痛覚を通り越して感覚を無くし始めているその両掌を眺める。



 ――次が、泣いても笑っても最後。

 それを覚悟する様に、一花はゆっくりと瞼を閉じた。


 瞼の裏、その暗闇の中に浮かぶ景色。その全てに。

「おねえちゃん、おいていかないで」

 その……全てに。

「みて! おねえちゃん、できたよ! 」

 長すぎた妬みも苦痛ももう無い。そこにあるのは笑顔だけだ。


「――お姉ちゃん、大好き」


 一花のボロボロの身体。その一か所――瞳が。灼熱を今灯す。


 そして、初手を掴むとまるで体力が復活したかの様な動き。


「燃えかけの蝋燭」多分、それで正しい喩えだと一花も自身で思った。


 だったら、それで構わない。

 燃え尽きるその瞬間までに――必ずこの手を届かせる。


「な、凪海選手……制限時間……終了。このトライが最終チャレンジです……

 ……ガンバ……

 凪海選手……ガンバです‼ 」

 そのMCの声を皮切りに。

「ガンバ‼ 」

「ガンバ‼ 」と、会場中からその言葉が飛ぶ。


「何事……? 」

「……凪海一花? ……最終課題か? 」

 選手控室の壁を揺らす程のその声援を受けて。


 一花は再び最終地点と相まみえる。

 そして、それも先程と同様に、彼女は身体の振り子運動を始めた。


 ――継葉、私。あんたみたいに、跳べるかな?

 振り子運動が徐々に幅を大きく増す。

「落ちないで‼ 」祈る様に両手を握る華と、それを瞬きもせずに見届ける谷寺。


 間もなく来る――その瞬間。

 その時だった。


 一花の右足がホールドから落ち、傍からはバランスを崩した様に見える。


「ああっ‼ 」

 会場全体が絶望に絶叫したこの場面。

 状況を理解した谷寺だけが立ち上がり、驚愕の表情で叫んだ。



「……サイファー‼ 」

 サイファーとは。跳躍分類に入る高等技術であり、足をホールドに設置して跳ぶ跳躍と違い、片足をホールドから離してスウィング・バイと同じ様に足の振りにて勢いをつける跳躍方法だ。手足の長い選手に特に効力が高い。


 ――跳躍力を増す為に……スウィング・バイとサイファーを組み合わせた⁉ なんて、馬鹿げた賭けを……だが、もしこの2つの技術が……一花の身体能力と組み合わさった時……!


 ――一体、どうなる⁉


 谷寺にすら結末が予測できない中、閃光の如く勢いをつけた一花がそらかける。


「と……届えぇえぇえええええええ‼ 一花ぁああああ‼ 」

 それは華が初めて見た。

 あの常に冷静に取り乱す事のなかった谷寺が、必死の形相で叫び声援を送る瞬間だった。


 一花は、その一瞬の筈の滞空時間で自分の内を様々な思いが駆け巡っているのを感じた。

 その主は、この跳躍の行く末、その結末だが。

 一花の身体が伝える。

 ――残念だ。と。

 ほんの僅か、ほんの僅か体力が残っていれば、或いはこの身体を向こう岸に届けれただろう。

 だが、もう限界だった。

 そうして、その一瞬で一花は納得した。

 ――精一杯出来た。後悔は……ある筈がない。


 その胸に虚無を混じらせた達成感が生まれようとしていた。その時だった。


 風が――吹いた。

 窓を閉め切り、空調を効かせた屋内で?

 だが確かに、彼女はその背にそれを感じている。


 ――仕方ないなぁ、お姉ちゃんは……本当は負けず嫌いのくせに、すぐにそうやって諦めちゃうんだもん。


 ――あ……あぁ……。

 感じる。掌の暖かさを。忘れない。その温もりが。

 背中を押す。その最後の一伸びが。

 一花の2本の指の第二関節を届かせる――‼


「と……飛翔んだ~~‼

 凄まじい飛距離‼ これは、もう跳躍と言うよりも飛翔と言った方が相応しい‼ し……信じられない‼ 着地点のホールドを……とととと捕らえた~~~‼ 」


 しかし、会場の全員がそこまでなら既に見覚えがあった。

 野村の身体ですらも抑え込みきれなかったその衝撃を――一花が受け止めきれるのか。


 飛翔の着地。その勢いによって大きく一花の身体が流れる。

「あ~~‼ 」その姿を見て、会場が悲鳴に包まれる。


 だが――。

 一花と野村には大きな違い――いや、差。と言ってもいいそれが在る。


 先の野村がこのホールドに届けれたのは、2本の指の第一関節まで。

 だが、対して一花は第二関節まで送る事が出来た。それは、余りにも短くされど大きな違い。


 そこまで掴んだクライマーの指は決してそれを離さない。

 まるで、遠く……その思いまでも掴む様に。絶対に……。


 やがて、一花の身体の揺れが止まる。

 当事者の彼女だけが味わう、世界すらも静止した様な感覚。

 そうして残る最後のホールドに、彼女はゆっくりと手を伸ばした。


 それを掴んだ瞬間。


 会場が爆発した様に、今日一番の歓声を挙げる。

 華と谷寺は涙を浮かべながらその身体を抱き締め合った。


 ホールドを掴んだまま、切れた息のまま、振り返った彼女はそこであの一文の意味に気付けた。


 ――あぁ……そうか、あんたはこの景色を私に見せたかったんだね?

   でもね……? でもね、ツグ。

   あんたと登るのは、これが最後だよ。

   これからは、私……私の為にクライミングを続けるから……だから。


 窓から差し込む光は、冬の太陽――その近さを思わせる眩い、眩いもの。


「ありがとうね、ツグ」

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