第11話 強化選手

「はい、華。あと30回。ガンバ」

 その一花の声を聞くと華は顔を林檎の様に真っ赤にして「ふんぎぎぎぎぎ~」と、大きな鼻息を纏わせ呻く。すごい迫力だ。

 僅かにその身体が持ち上がったか?


「ふにゅ~。もう駄目です~」

 目をグルグルと回して、華はペタンとその場に倒れ込んだ。火照り切った身体に体育館の冷たい床が少し心地良い。


「華の弱点は、やっぱり全体的な筋力ね。クライミングではどこの力も必須となるけど、やっぱり最初にフォールを掴む腕の力は、絶対必要だからまずはここでせめてフォールを掴めるくらいには鍛えておかないとポケットで体重を支えられないとかは言語道断よ? 」

 しかし、華は頭頂からもくもくと湯気を上げていてその声は届いていないようだ。


「その点、基礎体力はお姉ちゃんゴリラ並みだよね~

 脚力は陸上部の短距離代表並みだし、握力は左右で併せて130キロあるし

 真面目に毎日基礎トレしてると、人間こんなになるんだね~」

 華の隣でハンドクリップを握る継葉の言葉に、一花は赤面しながら唇を尖らせた。


「あ、ああああ、あんたは、基礎サボり過ぎよ、ツグ‼ 」

 だが、その言葉を受けて継葉は、ふふ~んと両手を外国人タレントの様に大袈裟にジェスチャーを付けて広げ余裕シャキシャキと言った感じで。

「だって、アタシは無駄なお肉ないから、筋肉も必要最低限でいいも~ん。身体重くなっちゃうし」そう言って、見事に6つに割れた板チョコの様な腹部をシャツを捲って見せつける。


「ば、バカ。あんた、だ、男子も居るのよ? 」

 何故か、一花の方が慌ててしまう。


「見られても全然恥ずかしくないお腹だも~ん」

 だが、その反応を見て、継葉はあろう事か隠そうともせずにふりふりと腰を振り始めた。


「ぎゃっふんっ」

 その脳天に丸められた冊子による一閃が突き刺さり継葉が乙女とは思えぬ顔貌に崩れた。


「下らん事するな~お前が何か言われると、わたしが怒られんだぞ~ツグ~」

 谷寺は心底から気怠そうにそう言い放つと、3人を体育館の隅に集めた。


「あ~、もうすぐ夏休みだな~

 今年は、去年と同じ様に、基本夏休み中はボルダリング部は活動はしない~

 もし、練習がしたいなら個人、職員室に体育館使用許可を得る事~

 間違ってもわたしに頼るな~?

 そんで、ツグ~」

 谷寺の面倒そうな声に床に指で落書きしていた継葉が顔を挙げる。


「お前は、全日本スポーツクライミング協会から日本大会に向けて強化選手の指名があった~。

 場所は東京だ~、親御さんに連絡をしっかりとっとけ~?

 わたしが付き添いで一緒に行くが、間違ってもわたしに頼るな~?

 盆前の1週間くらいになっていた~、だから宿題は早めに終わらせとけ~」

 そこで、話は終わる。谷寺はそこで継葉の返答を寝ぼけまなこで待つ。


「……ねぇ、めいちゃん……アタシ、それ断っちゃ……ダメ? 」


 シン……と4人の周囲が凍り付いた様に時間を止めた。その為か、隣のコートを駆けるシューズの擦れる音がキュッキュッと天井まで良く響いている。


「あ~~……」谷寺が頭をボリボリと掻いて、眉を顰める。

「いちお~、理由を訊いてやる~。ツグ~どうして、断りたい? 」


 皆の視線を集めて、継葉は困った様に頬を人差し指でポリポリと掻く。

 因みに、言わずもがな一番強い視線を送っていたのは一花だ。


「んっとね?

 なんか、アタシだけそういう特別な扱いされるのって……公平じゃないなぁって思って……」

 そこまでで、続く言葉は出てこない。

 それを受けて、谷寺は耳に指を入れて何度か動かすと、天井を見つめながら言った。


「いいか? ツグ。

 お前がこの強化選手に選ばれたのはな?

 お前に、スポクラの才能と実績が在るからだ。それは、同時に責任の所在も意味する~。

 この強化選手合宿の費用はな? 全日本スポクラ協会の会費や興行費用から出ている。何故か? 簡単だ。この強化選手達が後の国際大会で活躍してくれれば、世界的に日本のスポクラのレベルを知ら占めれるからだな。すれば、その費用は協会によっては投資と同じ事になる訳だ。

 それを怪我でもなしに、断るってのは日本のスポクラの未来に貢献しない。って言ってる様なもんだぞ。

 それに……公平じゃないってのは、どういう意味だ? 」

 谷寺のその質問に対して、継葉は俯いてつま先で地面をグリグリと押す。その姿を見て一花が代わりに答えた。


「ツグ、それはひょっとして、私に対してなの?

 もし、そうなんだとしたら、それは余りにも私に対しても、スポクラに対しても侮辱的な事だわ。だって、私。最高に成長した最高の状態のあんたに勝ちたいもの。それを、私に合わせてわざわざ最高の環境を手放すなんて、自分の成長を放棄してる様なものじゃないの‼

 そんな、手加減みたいな真似、止めてよね‼ 」


 一花の言葉に、継葉はビクンと肩を揺らして震えながらどんどんと顔を蒼くした。その様子を見て、谷寺は「ま~、一花もその辺にしとけ~」と、一花を諌める。


「そーいうことだから、いいよな~ツグ~? 納得できたか~? まだ何か言いたい事は無いか~? 」

 谷寺の最後の確認に俯いたまま、継葉は泣きそうな表情で小さく頷いた。華はただ1人、その様子におろおろと見守る事しか出来ない。


「そ~か~、じゃあそう言う事で頼んだぞ~。

 一花も、あまりツグに怒ってやるな~、お前と公平な環境でやりたかった。ってのが本音だってのは、お前が一番分かってる事だろ~? 」

 一花は、口をへの字にして深く鼻で息を吸った。その様子を見ながら谷寺は体育館から立ち去る。


 暫らく3人の間を沈黙が支配する。先の先まであんなに場を盛り上げていた継葉がしょんぼりしているから、余計に寂しい雰囲気だ。


「……お姉ちゃん、おこ? 」

 やがて、おどおどと継葉が口を開き一花の方に視線を恐る恐る送る。

 それを受けて、一花の反応はと言うと。


 プイっとそっぽを向けて、ボルタリング設備の方へと戻っていってしまった。


「つ、継葉先輩。大丈夫ですよ。一花先輩も今はちょっと無理かもだけど、きっと許してくれますよ」

 華が、慌ててフォローの言葉を掛けるが。

「うん……アリガト華ちゃん。でもごめん。アタシ、今日は先帰るね? 」

 それだけ言い残し、とぼとぼと腰を曲げて継葉は出口に向かっていった。

 これほどまでに背中で語るのも実に継葉らしい。


「あ、あの‼ 」

 トタトタと華が駆け寄るのは、ホールドに登る一花の所だ。

「あ、あの‼ 一花先輩‼ 継葉先輩、行っちゃいました‼ 」

 その言葉を受けて、ゴールのホールドを掴んだ一花はストン。と、マットの上に落下し、華に近付く。

「うん、ごめんね。華が居たのにあんな態度で。

 でも、あの子の場合あのくらい厳しくしないと、本当に強化合宿に行かない可能性があるの。

 あの子って、スポクラを競技。と捉えてないでしょ?

 多分、結果なんて二の次で、一番は……」

 一花は、ふぅと溜息を吐くと瞼を開く。


「自分が楽しむ事」

 それを聞いて、華はいやに納得した。

「はぁ、た、確かに」

 その言葉を受けて、一花は「でしょ? 」と困った様に笑った。


「勿論、それが間違ってるとは言わない。

 でも継葉の次元になると、そうもいかなくなる、先生も言ってたけどこの強化合宿は目先のボルダリングの日本大会に向けて。だけじゃなくて、3年後の東京五輪に向けてという意味合いが強くあるの。

 スポーツクライミングの種目は3種類。

 その中でスピードとリードは安全性に特に厳しい国内では練習の機会もあまり得る事が出来ない。その訓練を、世界を経験した選手の人達と出来るのは間違いなくあの子の未来に影響するとても大きな事。ハッキリ言って、その経験からのレベルアップは最早義務の様なものなの。

 だって、あの子はその実力を秘めているのもの。

 東京五輪でメダルを取るという、スポーツクライミングに携わるものとして、最大最高の目標の」

 一花は、少し遠くを寂しそうに見つめる。


「つまり……あの子の実力は、もう自分の為だけのモノじゃないの。

 先生が言ってたように。

 もう、あの子はスポーツクライミングの未来も背負ってるの。

 そしてそれは、あの子達の責任でもある」

 その言葉を聴きながら、華も見る見る肩を落とし俯く。流石にそこで一花は話を切り上げる。


「よしっ、この話はおしまい‼

 今日は一緒に帰ろうか、華。お詫びに一之瀬スーパーいちのせでかき氷奢ってあげる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る