第10話 決意

 電車に揺られて僅か数分。華は親の車以外で初めて隣町の駅に降り立った。

「こっちだよ。華」

 そう言うと、その小さな手が素早く握られた。

「ふえぇ……」一花のエスコートに、思わず華の心が揺さぶられた。

「お姉ちゃん、カホゴだからね~。ウザかったらちゃんと言うんだよ華ちゃん」


 それを聞いて「こらっ、ツグ‼ あんたはいらん事言うなら、さっさと先に行きなさい‼ 」と一花は細い眉を縦にして怒る。


「ふ~んだ」それを受けて、頬を膨らませると継葉はスタスタと時折スキップを刻みながら先に行ってしまった。

「あ……華? 本当に迷惑だったら言ってね? 」先の言葉が気になったようで慌てて繋いでいた手を離して、一花は優しい微笑を見せる。

「ふえぇ……」華は少し残念そうに手を見つめる。



「ちぇ……何さ。アタシにだけ厳しいんだ。お姉ちゃんは……」






「ここが、アタシ達の来道市で唯一のボルダリングジム‼

 KURDクルド ボルダージムだよっ

 アタシもお姉ちゃんも、スポクラ始めた当初からずっとお世話になってんだ‼ 」

 建物の中に入ると、継葉が両手を広げて無邪気に紹介を始めた。


「はいはい。いいから早く入るわよ。

 今日は天気も悪いから、早めに暗くなりそうだし」

 そんな継葉の様子には目もくれずに一花は華を連れて入ってしまう。

 その後ろ姿を頬を膨らませながら睨むと、スタスタと歩調を早めて継葉は2人を追い抜いてしまった。


「お、お待たせしました」

 華が先に準備していた2人の前に現れると、一花も継葉も表情を緩める。

 華は、服装こそ学校指定の体操着だが、継葉に貰ったシューズと、一花に貰った手作りのチョークボックスがボルダーとしての型を引き立てている。馬子にも衣裳は言い過ぎだろうか?


「似合う似合う。華ちゃん。しっかりクライマーだ」

 継葉は、先の世界大会の時の格好と同じだった。黒のノースリーブシャツから覗く逞しい肩幅は、同性の華でも目を離せない程に目を瞠る。そしてよく見ると、その服、いやズボンにまで町で当然のように見る携帯会社やスポーツメーカーのロゴが刺繍されているではないか。恐らく継葉個人のスポンサーなのだろう。

 そんな華の視線を気にもせずに継葉はその場に座り込むと、腰や関節をクイクイと伸ばし始めた。そして、そこで一花が居なくなっている事と――。

 周囲に居た施設の職員や利用者が傍に寄って来ている事に気付いた。


「継葉ちゃん。もしよかったら俺達にコーチしてよ」

「こないだの世界大会見たよ‼ 惜しかったね‼ でも次はきっと継葉ちゃんが優勝だよ‼ 」

 そう言って近寄って来た若い男性組を皮切りに、一気に雪崩の様に継葉の元へ彼らは駆け寄って来た。


「あばー」間抜けな悲鳴虚しくその人並みに飲み込まれる様に、華の小さな身体は瞬く間に継葉から遥か彼方へ圧し流されてしまった。


 結局人波が途絶えるのは、その周辺10メートル程。とてもじゃないがもう継葉には近付けそうにない。

 先程まで壁の平面にバランス良く壁に並んでいた利用者達は歪に集まり、むしろ初めよりジム内はいている様にも見える。

 しかし、困ったのは華だ。いざ向かわんとしても始め方が解らない。きょろきょろと首をめいっぱい動かして、華はもう1人の先輩を捜した。


 存外呆気ない程簡単にその待ち人は見つかった。ジムの入り口付近のサロンの所に。ここでは似つかわしくない学生服、スカート姿のままで一花は教科書を開き、勉強をしていた。


「い……一花先輩」

 華の声に、驚いた様にノートを閉じて一花は振り向く。

「ど、どうしたの? 華。継葉は? 」

 華の視線を追うと、そこには人だかりが見える。


「あ~、やっぱそうなっちゃったか~……」

 困った様に頬を掻く一花に、華がもじもじと呟いた。

「一花先輩。ボルダリング……教えてもらえませんか? 」


 一花は「え……」と小さく溢すと、今度は彼女がもじもじと蕾の様な可憐な唇を指で触りながら表情を曇らせた。


「ほ……ほら、華も体育館にある8級の練習用のでいっぱい練習したでしょ? 1人でも大丈夫よ」

 それを聞いて、華が見る見るうちに顔をしょんぼりと明るさを失っていく。


「あ……」それを見て、一花も自分の抹消から血液が引き潮の様に熱を奪っていくのを感じた。


「華……ちょっと来てもらって……いい? 」

 華は、しょんぼりとした表情のまま一花の方を見る。すると一花にしては珍しく華の返事を待たずにその手を引いて、ジムの外に出てしまった。


 急な行動だったからか、ほんの少しの移動なのに2人とも「はーはー」と息が上がっている。

 そして、一花はそれを落ち着けるよう、んぐんぐと何度か息を呑む様に吸って、静かに話し始めた。


「私が、あの子の隣で登ってるとね?

 ジムの人達に気を遣わせちゃうの」

 顔は笑っていたが、その目と声には寂しさが混じっていた。


 その時――華の脳裏には先月の大会の時に谷寺に言われた言葉を思い出していた。そして何となく。だが気付いた。


 これに触れなければ――一花はきっと、ずっとこのままになってしまうと。


「何故……ですか? 」

 華が追及してくるとは思わなかったのか、一花は少し驚いた様に、口を二度三度パクパクと空回りさせて……そして俯いて黙ってしまった。


「継葉先輩と、比べられちゃうからですか? 」

 ビクッと肩を揺らすと、あの凛とした表情とは同一人物と思えない程弱弱しい顔の少女の顔があった。


「……うん、へへ……そっか……バレちゃってるよね……

 情けないな……いっつもツグにお姉ちゃん風吹かせて偉そうにしてるのにね?

 ダメダメだよね?

 実力もないのに……双子の姉だからって世界準優勝のツグと下手くそな私が並んでると……皆に気を遣わせちゃう……皆ツグにクライミング教えてもらいたかったり話が訊きたいんだよ。そりゃ、そうだよ。だってツグは……世界……」


「あたしは‼ 」

 まるで呪いの言葉の様に呟き続けていた一花の声を途切らせる為、華は生まれて初めて叫ぶ様に声を出した。

 慣れない行動に、頭の中が混乱してグルグルと言葉が頭の中を突き破りそうな程溢れてくる。

 でも……。

 でも。

 これは伝えなければいけない。華の中でそう確信があった。歯を噛みしめて、震える脚を必死に堪えて。

「あたしは……一花先輩にも……クライミング、教えてもらいたいです。

 だって……。

 だって、継葉先輩も、一花先輩も。

 あたしのカッコいい憧れのセンパイだから……‼ 」


 そう涙を浮かべて……膝をぷるぷると震わせる後輩の少女を見て。

 一花は、思い出していた。


 いつから、自分は妹と比べられる事に恐怖を覚えたのだろう。

 妹と2人、必死でボルダリングを日が暮れるまで練習した日々。

 今、目の前に居るこの少女は。

 あの時の自分達だ。


 ちょっぴり華は気付いていた。

 凪海姉妹は、しっかり者の姉、一花の方が実は精神的に脆くて。そして。


 ――感情が高ぶると、すごく濃厚な抱擁癖がある。




「華、足のフォールは母指球。足の親指の根本でしっかりと押さえてみて。安定する」

 一花の助言を聞き頷くと、汗の雫が静かに落ちた。


「お姉ちゃん、華ちゃん。何処に行ってたの? 」

 ようやっとといった感じで人混みから抜きんでた継葉が2人の傍に戻って来た。


「うん……ちょっと、外で話してた。

 あ……ツグ」

 スッと振り向くと、継葉は久しぶりに真直ぐにこちらを見る一花を見た。


「日本大会の予選……私、出場る。

 こんな事……あんたより弱い私が言うのもおかしいけど……

 負けないからね……」


 その言葉は、梅雨の屋内であっても。

 まるで春風を帯びた様に――継葉の胸に流れ着く。


「う……うん」いつもの天真爛漫な姿も影を潜めつつ。控えめにそれだけで返事をしながら。


 堪らなく、後ろを向いた継葉の顔は。

 とても嬉しそうだったという。

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