分裂・回想・減速

素以エチカ

第1話

 降り止まない雨音が耳にこびりつくようだった。


 ただでさえ暗い部屋なのに、唯一の光源である窓はカーテンで半ば閉ざされ、隙間から覗く空までが暗澹とした雲に覆われていた。くすんだ雨粒が窓にも跳ねて、止めどなく伝い落ちてゆく。


 生温かく湿った空気がねっとりと、腐った肉に纏わりついた。


――湿気で腐っちゃうね。


 誰ともなく呟こうとした言葉は、煙草の灰が落ちる程度の音にしかならない。

 悪く言えば気味の悪い雑音。

 が、ことごとく声を押し潰してしまうらしい。


 弛緩した腕をもたもたと持ち上げて、そっとそれに触れた。

 首を寸断するように突き刺さった肉切り包丁。その分厚い刃は深々とわたしの喉にめり込んでいて、声帯がうまく機能しない。頸動脈は言うまでもない。噴水のように吹き上がった血液が、無地の壁紙に黒々とした水玉を描いている。

 乾ききった血液の色を見て、私は考える。


 ああ、もうかれこれ一週間は経つだろうか。


 そろそろ諦めようか。


 わたしは指を滑らせて、肉切り包丁の柄から刃へ。そして断たれた肉の部分に触れた。凝固した血が皮膚に張り付いて、爪を立てるとその欠片がポロポロと落ちる。

 かさぶたのようなものはなく、化膿している様子もない。ただ溶けたように柔らかくなった肉を、どこからか食い破って這入ってきた蛆がわらわらと蠢いている。ああ、やっぱりわたしは死んでいるんだ。


 人として。


 けれど、わたしだけではないのだ。

 目の前にはもう一つ、真っ黒な死体が落ちている。全身にわたしの血液を浴びて、それから二度と微動だにしない。全身にはたくさんの切り傷、そして口からのぞいているのはまさにその切り傷を作ったハサミの指穴だ。刃先はきっと喉の奥から頭頂へ向かって突き上げるように刺さり、脳みそに穴を開けているに違いない。

 死ぬ直前の苦悶をとどめたように真っ赤な目玉を見開いて、今もなお叫び出しそうな表情。まるで趣味の悪いオブジェのような有様だ。

 それでもそのほっそりとした体躯に整った顔立ち、つんと冷たい雰囲気は、まさに妹の沙奈果さなかのものだった。


 曇り空にくすんだ空の色を眺めて、あの日とはまったく違う夕暮れだと思った。


 こんな結末になるだなんて思ってもみなかった。

 この仕置き部屋でわたしと沙奈果が二人でいっしょにいることなんて想像もしなかったし、そもそも沙奈果がここへ来るのはきっと初めてのはずだ。母に叱られるのはいつもわたし一人だけ。だって沙奈果はカワイソウな知恵遅れ、なのだから。


 急に奇声を上げて泣き出すのも好き勝手に涎をこぼして散らかすのも他人のものでも平気で奪って食べるのもすべてアタマに問題があるからで、沙奈果のせいではないらしい。だからわたしはそのぶんしっかりしなきゃいけないらしい。悪いのは全部わたし、らしい。


 はあそうですか。


 納得はしない。けれどそこで母の言うとおりにしないと、もっとひどいことになるのだろうということは理解していた。だから、わたしはいつもこの狭い部屋で一人、静かに罰が終わるのを待つのだ。


 それでもわたしは沙奈果を恨んだりなんかしなかった。

 話の通じない母親より、言葉がちゃんと話せない沙奈果と一緒にいたほうが楽だったし、そもそも嫌いな相手を世話し続けるなんてことはきっとわたしにはできそうにない。

 汚れた服を拭いてやったり、それ以前に汚れないようにと食事を沙奈果に食べさせるのは、わたしが沙奈果のことが好きであることの証なのだ。沙奈果のほうはわたしのことをどんなふうに思っていたのだろう。沙奈果の本心は、弛緩した表情筋がたたえた奇妙な笑みに隠されていた。


 暗い部屋には湿度の高い押し入れの匂いが立ちこめる。梅雨が始まる。


 そして世界は予兆もなく終わる。

 わたしと沙奈果と母の小さな問題なんてなんでもなかったかのように、世界中が混乱に包まれる。あっという間にあらゆるインフラが停止して、街角には屍が積まれていく。それまでのほんの一週間ほどの間に流れたニュースでは世界規模での伝染病、未知の新型脳炎の疑いがあるとしきりに伝えていた。

 WHOの見解では、人間の理性が壊れる病気だという。いろんな理屈はあるようだったけれど、どのニュースでも一様にそのような解釈をしていた。感染力が異常に強く、感染したが最後。そのまま少しずつ脳が冒され、理性のたがが外れたところで約十日目には死に至る。ワクチンの開発が急務であるというが、実際は感染してから発症までに数時間とかからないため、そんなものに意味があるのかどうかもわからない。

 わかっていることは、それだけだ。


 美しく整った顔立ちで、沙奈果は笑う。

 信じられないくらいに目まぐるしく変わる世界が、まるでおとぎ話であるかのように。そんな彼女をあやしながらも、わたしは家の奥から聞こえるすすり泣きにとらわれている。トイレで母が泣く声に。

 国も親戚も、誰も助けてはくれない状況で、やがて母は家に篭もり始めた。この状況下においてそのような逃避は正しい選択肢であるといえる。

 だけど、母は静かに狂い始めた。それもまた、ある意味では正しいのかもしれないけれど。


 そしてわたしは、初めて沙奈果が母に殴られるのを見た。もともと噛み癖の強かった沙奈果は、よくテーブルの脚や木のスプーン、着ている服などを涎でぐしゃぐしゃになるまで噛むことがあったが、それがいけなかったのだ。その日もまたいつものように絵本の角を噛んでいた沙奈果は綺麗に生えそろった白い永久歯をのぞかせてガシガシ。くるみ割り人形のように丈夫な前歯が、汚れきった絵本に立派な歯形を残した。


「やめなさい!」


 母の怒号が飛んだ。

 突然のことで、横で見ていたわたしはあまりに驚いたのを覚えている。母はいままで、カワイソウな沙奈果のことをこんなふうに怒鳴ったことはなかったのだ。

 それに、そのときの母の様子は異常に神経質だったのだろう。母が感情の昂ぶりに任せて握った、その長いグラスが割れる。牛乳が静かに流れてテーブルの脚を伝い落ち、わたしはその様子を呆気にとられたまま見ていると、その牛乳の白にほんのり朱が差していた。


「ぎっ!」


 奥歯を噛みしめる厭な音がした。慌てて母は裂けた手のひらをかばうように拳を握り、震える腕を見つめた。握りしめた指の隙間から血が滲み出て、肘でぷっくりと滴が膨らんで落ちる。


 母はいったい何を見ているのかと疑問に思うが、すぐに思い至る。さっきまで流れていたニュースの内容を思い出す。ああそうか、『感染力が異常に強い新型脳炎』。


 どうしても滲み出る血と塞がらない傷口。それだけで、気が滅入ってしまっていた母を壊すには充分だったのだろう。


 沙奈果に母の機微は判らない。

 知らぬ顔で絵本をかみ続ける彼女の頬を、母の拳がばちんと打った。傷だらけのその手で。

 おそらく母は当然のように病気の感染を恐れていて、だから沙奈果の噛み癖に恐怖を感じたのだと思う。過剰な恐怖は怒りに変わり、それが暴力として発露したのだ。

 けれど殴るのに傷のある手を使うなんて、それこそ感染してくれと言わんばかりの愚行じゃないか。目的と手段が噛み合っていない。あまりに矛盾している。


 正常な思考を失った母は、そもそもどう見たって感染なんてしていない沙奈果を、物置部屋に閉じ込めた。そんな部屋にひとりぼっちの沙奈果だが、孤独かどうかは感じ方に依るところ。わたしにとっては馴染みの暗い部屋を、彼女がどう感じているのかは判らない。


 さて。


 その後に何があったのか、今はっきりと思い出すことができない。どうにもわたしのなかで出来事の前後関係がはっきりしなくて脳がむず痒い。しかし、指で直接掻くわけにもいかない。わたしの頭蓋まわりはもう腐ってぼろぼろなので、丁重に扱わねばならない。

 それに加えて問題なのは回想がやたらと行ったり来たりしている気がすることで、しかし現実の出来事が前後することなんてあるはずがないのだから、どちらかと言えばきっと記憶のほうが誤りだ。とはいえ回想というのはそういうものなのかもしれない、とも思う。

 都合のいいように脈絡の釣り糸で引き上げられた記憶は過去そのものではない。だからきっと記憶に誤りなど存在しない。より正しく言えば、そもそも齟齬があるのが記憶であり回想なのだ。そういう意味で、齟齬のある回想は在り方として正しい。だからわたしもまた正しい。

 よかった。


 けれど正しいことをしたわたしは、壊れてしまった世界との間に齟齬を来してしまったのだろうか?


 考えるのをやめて、まぶたを開く。

 わたしはまたこの部屋の惨状を眺めながら、ふいに部屋がほんのり明るくなっていることに気付いた。さっきまで夕暮れのくすんだ空が窓の外に浮かんでいたはずなのに、どうやら今はもう朝だ。時間の流れがとても速いような気がする。あるいは、わたしの思考がずいぶんと遅くなってしまったのだろう。あっという間に、あらゆる出来事がわたしの思いを飛び越していく。脳が侵されていく。


 わたしは感染していた。


 沙奈果が仕置き部屋に閉じ込められたあと、真っ黒な犬が家の中に窓を割って飛び込んできた。きっとその犬は飢えていたのだろうと思う。牙をむき、母に向かって飛びかかった犬の前に、とっさにわたしが飛び出していた。

 わたしの腕に噛みついたままぶら下がる犬を見ながら、母が無事でよかったと思った。わたしはきっと、正しいことをした。けれど、見上げると母は肉切り包丁を手に持って、まっすぐわたしに向けて言う。


「近寄らないで」


 真っ黒な犬はよく見ると体中腐った肉の色をしていて、おそらく感染していた。

 母は包丁を振るい、犬の首から下を切り落とす。隔離するという名目で、わたしは仕置き部屋に閉じ込められた。


 健康な沙奈果と感染したわたし。どう考えても一緒にいるべきでない二人が同じ部屋にいた。だからこそ、わたしはなるべく沙奈果と離れて感染させないようにしようと思い、部屋の隅で、


 沙奈果に噛みつこうとしていた。


 思わず自分の口をふさいだ。疑問符を浮かべる沙奈果をよそに、慌てて飛び退くようにして離れる。心臓がぎりりと握られるような思いがした。いったい何が起こっているのか判らなかった。どうして自分が沙奈果に噛みつこうとしていたのか。そんなことわたしは望んでいないはずなのに。


 わたしは沙奈果のことが好きだ。

 たった一人の妹なのだ。沙奈果が何か問題を起こして叱られるのがわたしになるのも仕方がないことだし、わたしがずっとつきっきりで世話をしなければいけないのも当然だ。だって沙奈果はカワイソウな子で、わたしはマトモなのだから。

 わたしはあの子を好きにならなければならない。


 だけど結局、殺してしまった。


 窓の外に、雲に透けた太陽が見えた。さっきは朝だったのに、もう夕暮れ時だ。わたしの思考はどんどん遅くなる。そして意思するよりも先に行動していて、それを止めることができない。


 動かなくなった沙奈果を見て思う。

 どうしてこんな状況でわたしは冷静でいられるのだろう。これ以上ないほど絶望的な状況なのに、どうしてかわたしは、とても気分がいいのだ。降り止まない雨の重みに反して、とても肩が軽くなった気がする。悲しいほどに。


 そんなこと、認めたくなかった。だからずっと待っていたのだ。死んでしまった沙奈果が生き返ることを。わたしのように、死してなお生き続けることを。けれどそれも潮時だ。


 だから、そろそろ諦めようと思う。


 もう一度柄をつかんだ肉切り包丁を、ずるりと首から引き抜いた。張り付いた皮膚と肉まで剥がれてしまうが気にしない。喉を塞いでいたつっかえが取れ、わたしはようやく声を取り戻す。考えるよりも先に言葉が漏れた。


「ごめんなさい」


 沙奈果が死んですっきりしてしまって、ごめんなさい。

 わたしはそのことを自覚したくなくて、ずっとあなたが生き返るのを待っていた。けれどいつまでたっても死んだまま。あなたが生き返ればわたしの気持ちもきっと、うやむやにできたでしょうに。こんな姉で、ごめんなさい。


 夜になっていた。


 わたしはいつの間にか仕置き部屋から出て、リビングにいた。思考がまったく追いつかなくなっている。そこに母はいなかった。お腹が空いた。


 バスルームに肉があったので食べる。味はわからないがとにかく貪るように嚥下し胃に流し込む。噛みきれないほど大きな骨を噛みながら、よく考えるとそれは母だった。


 やつれ果てた母の死体だ。浴槽でうずくまり、手首を複数、首を大きく裂いて死んでいる。おそらくずっとこの状態だったのだろう、流れ出た血もこびりついて黒い。

 殺したのはわたしではない。きっと、母は飢えのあまり自殺したのだ。死に瀕するほどの飢えのなか、外に何か食べに出ることも出来ず怯え続けて死んだ母。冗談みたいな話だ。

 けれど母のその苦しそうな顔を見て、沙奈果がわたしを殺そうとした理由がわかった気がした。母だけでなくとも、こんな世界でうまく死ねた人間は幸せだ。


 だからこそ、沙奈果にはちゃんと殺してほしかった。


 吐き気を感じて口の中から肉を掻き出そうかと思うが、わたしの口はひたすら今も母を食べ続けていて止めることができない。わたしは沙奈果を殺してしまった時点で、きっともう人ではなくなってしまったのだろう。


 わたしは考える。外を見ると雨が降っていて、その速度が加速していく。景色は早送りしたテープのように目まぐるしく変転するけど、認識できる速度には限界がある。相対的に高速に流れる世界の時間が結局わたしの頭の中ではすべてを捉えきれなくて、要するに情報量が大幅に抜け落ちた、コマ送りの世界だ。扇風機の羽の回転が速すぎて、逆に止まっているように見えたりするように、わたしが捉える高速の世界は結局わたしの中ではそれほど速くは流れない。

 自覚できない、というのは怖い。いつかきっとわたしの瞬きの合間に、夜が朝になり、朝が夜になる。降りやまない雨の音が降りやまないうちにわたしはゼロになる。


 どんなことにも永遠なんてないのだ。カワイソウな沙奈果はカワイソウなままではいられなかったし、わたしが母に言われて義務感でやってきた沙奈果のことを愛する真似事も、さっきようやく終えることができた。わたしは今になって、彼女のことを心の底から愛しく思う。けれど生まれたてのその感情も、またいつかは消えるのだろう。


 世界が終わりゆくそのさなかに。

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