(6)「――それに、罰なら過ぎるほど受けたでしょう」
「イズキが戻ってくるそうですね」
扉を開けるなり口火を切った部下に、ティモシーは視線を上げた。
軽い態度に、細い眼鏡。細身に長身の体躯。
イズキの同僚であり、学舎時代からの友人でもあるヒサメ・セガールだった。イズキの入学が異例に早かったから、イズキとは六つほど年が違う。
「耳が早いな」
驚いて、ティモシーはヒサメに問うた。ティモシー自身、たったいまイズキからことの顛末を聞いたばかりだった。
無意識に、デスクに置かれた電話を指先で撫でる。
「イズキから先に聞いたのか。全く、上司を差し置いて」
少しばかりわざとらしく嘆くと、ヒサメがくすくすと笑った。
それから彼は、少しばかり表情を改めた。物憂げに息を吐く。
「厄介な事件でしたね。テディが生きていたのは良いけれど、そのテディが事件を起こすだなんて」
言いながら、ずかずかと部屋に入り込んでくる。ティモシーの座るデスクの正面にある来客用のソファセットに、許可も取らずに腰を下ろす。
ヒサメは繊細げな見た目に反して、随分と図太い男なのだった。
不躾な部下の態度に、ティモシーは眼を眇めた。ぎしりと椅子にもたれてペンを投げ出す。
「サボりに来たのか、臨時講師」
「次の講義まであと三十分はありますよ」
飄々と返すヒサメを横目に、一息つこうとティモシーは立ち上がった。部屋の隅に備わったごく小さな給湯室に足を向ける。
「あぁ、僕はコーヒーで」
「……」
背中にかけられた声を、ティモシーはきっぱりと無視した。
コーヒーではなく紅茶を二人分用意して、ヒサメの向かいに座る。革張りのソファが、疲れ切った体を受け止めた。
ヒサメが礼を言ってカップを引き寄せる。図々しいが、非礼ではないのがヒサメらしかった。
「あなたも、」
かけられた声に、ティモシーはヒサメに視線を向けた。ヒサメはカップの水面を見下ろしている。
「――いえ、」
何かを言いかけて、口を閉ざす。ヒサメの姿に、ティモシーは直感した。
ヒサメは知っているのだ。
ティモシーのパートナーであるラリーが、イズキを殺そうとしたことを。返り討ちにあって命を落としたことを。
僅か、沈黙が落ちた。ややあって、ヒサメがカップを置く。
かちゃりと小さな音を合図にしたように、ヒサメは言った。
「一年前、イズキは瀕死の重傷を負いました」
脈絡なく始まった話に、ティモシーはわずかに眉を上げた。無言は、続きの催促だ。
ティモシーに止める気がないことを判っているかのように、ヒサメが淡々と続ける。
「イズキを庇ったテディが死んで――死んで、イズキも殺されかけた。イズキを助けたのはあなただ。当時から、あなたとラリーが別の作戦に入るのは珍しくなかったから、不自然なことじゃない」
「何が言いたい、ヒサメ?」
少しだけ、ティモシーの声が低くなった。互いに張り詰めた空気の中で、ヒサメは些かも揺らがなかった。
ヒサメは言う。淡々と、書物の文字を読み上げるように。
「気を失っていたイズキの代わりに、テディの死を確認したのはあなたでしたね。イズキに、テディの遺品として魔器を手渡したのも」
間違いようもなく、それは断罪だった。
ヒサメの表情に激したものはなく。声音は変わらずに静かだった。
ただ、瞳だけが激しい。彼のパートナーの気性のように。
「そういえば、ペギーはどうした」
「使いに行ってますよ」
事もなげに返されて、僅か、言葉を失った。ティモシーの脳裏にある可能性が浮かぶ。
ヒサメは随分と、村で起こった出来事に詳しいようだった。
「……アーシュリーか」
「ええ。随分とド田舎に向かわされたと拗ねてしまっていたから、帰ってきたら機嫌を取ってやらなくちゃ」
ペギーのことを語る瞬間、ヒサメの声が一気に熱を増した。他のハンターと同様に。
テディを語るイズキのように、ラリーを語るティモシーのように。
「あなたの魔力を知っていれば判ります。魔器にひびが入った瞬間、漏れ出したのはあなたの魔力でしたよ」
まるで自分で確認したことかのように、ヒサメは言った。ペギーの言葉に、偽りも誤りも何一つありえないというように。
平坦な口調で、ヒサメは言った。当然の帰結と言うように。
ふわり、と笑う。場違いに。
上司に平然と注文をつけて、出されたものに礼を言って無防備に飲んだ、口で。
「テディが生き延びたことを隠蔽して、テディを唆して、魔術で誘導して。――テディを凶行に走らせたのは、あなたですね。ティモシー・カークランド」
ヒサメ・セガールは、事実を読み上げるように言った。
つかの間、ティモシーは沈黙する。沈黙が答えであることは、二人にとって明らかだった。
「……忘れていた。イズキの圧倒的な才能を上回って、お前は面倒な男だったな」
「あれ、それって褒めてくださってます? ありがとうございます」
会話をしているようで、ヒサメの物言いは一方的だった。それに気づきながら、ティモシーも会話の真似事をする。
「どうしてわたしだと思った」
「まさか、最初から判っていたわけがないじゃないですか。テディが死んだときの状況に気づいたのは、魔器の件があってからの後付けです」
ただ、と指先を振る。自分の吐き出す音をなぞるように。
「最初から、《黒百合》に敵がいることは可能性として考えていました。先日、街の子どもが吸血鬼に襲われましたけど」
くるり、くるり、と円を描くように。
「そもそも《黒百合》のお膝元で、滅多に起こることじゃありませんしね。しかもイズキがちょうど通りかかるなんて」
すい、と指が――、ティモシーを示す。
「イズキの上司であるあなたなら、イズキの予定を把握していたはずだ。ねえ、一つ訊いて良いですか」
ヒサメの声音が、色を変えた。部屋に入ってきて初めてティモシーに向けたのは、単純な興味と好奇心だった。
「なんで、こんなことをしたんです?」
「……――、」
ティモシーは沈黙で返した。沈黙は、イズキをさんざんに傷つけたティモシーが彼にできる唯一の気遣いだった。
ティモシーが答えないことを悟ったのだろう。
ヒサメが視線を逸らして、同時に興味も失ったのを感じた。自分の内側からはじき出された相手にはとことん冷淡なのが、ヒサメという男だった。
半分ほど残ったカップをそのまま、ヒサメは立ち上がった。もう用などないというように部屋を出ようとするヒサメに、ティモシーが声をかける。
「わたしを拘束しないのか」
「はい?」
呆れた声音で、ヒサメが振り返った。些か面食らったティモシーに、苦笑する。
先ほどまでの会話など忘れたような、気安げな表情だった。
「拘束したって、釈放されちゃうでしょう。一介のハンターでしかない僕と功績を積み上げているあなたと、相反する主張をしたらどちらが信頼されるかなんて考えるまでもない」
説明することも面倒臭いというように。すでに半ばほど扉の外に意識を向けて。
「魔器は灰になったから証拠はないし、テディは逃げちゃいました。イズキと行動をともにしていた吸血鬼はあなたの魔力を知らないし、」
何より、とぽつりと。
「イズキはあなたとテディが繋がっていたことに気づいていません。魔器にひびが入ったとき、イズキは暴走した魔力に振り回されて意識が飛んでいた」
イズキの名前が出た一瞬だけ、カップを持つティモシーの手が揺れた。既に完全に扉に向き直っていたヒサメは、ティモシーの様子には気づかなかった。
「あなたが何を考えてこんな真似をしたか、僕には判りませんけどね。ただ、僕は知っています。お忘れなく」
最後にひらりと手を振って、ヒサメが扉の向こうに消える。その、一瞬。
「――それに、罰なら過ぎるほど受けたでしょう」
向けられた言葉は確かに、パートナーを失った同僚への悼みだった。
ヒサメが姿を消した室内で、ティモシーは嘆息した。ヒサメの言葉を反芻する。
罰は、受けた。
それは確かに、その通りだった。ティモシーはラリーを永遠に失ったのだ。
ラリーは、ティモシーの思惑には関与していなかった。テディが、己の妹がイズキを守って亡くなったのだと信じていた。
ティモシーの奸計にラリーを巻き込まなかったのは、ティモシーのエゴだった。ラリーの前でティモシーは常に、高潔なハンターで在りたかった。
欲に負けた自分の姿など、ラリーに知られたくはなかったのだ。
イズキの奥に眠る、東洋狼の力を手に入れたいという願望。己に負けた愚かな男の姿を、大切なパートナーにだけは知られたくなかった。
ラリーに向けるティモシーの思いは確かに叶った。誰よりも心を預けたラリーの死によって。
ふと、馬鹿なことを思う。
ラリーに事実を告げていたら、何かが変わっていただろうか。テディの生をラリーが知っていたら、少なくともラリーがイズキを殺そうとすることはなかっただろう。
考えて、すぐに打ち消した。ティモシーがラリーの誇りを汚すなど、それこそあり得ない仮定だった。
結果として、ティモシーはラリーを失った。己の欲望に負けて、己のエゴばかりを貫いたその先で、ティモシーは最も失ってはならないものを失ったのだ。
座っていられなくなって、ティモシーはカップをやや乱暴に置くと立ち上がった。窓に近寄る。
高台に聳える《黒百合》本部からは、遠くに都市リズノワールが見下ろせた。街並みに、ひとびとが息づいている。
彼らの生活を守ることこそが、ティモシーの大切な役割だった。あまりに簡単な答えを、眼の前に転がる強大な力を前に見失った。
「……はっ、」
ティモシーは笑った。自分の愚かさに向けた笑みだった。
なるほど、と思う。
イズキを追い詰めて、人狼として無理矢理に覚醒させようとした。最終的に、ラリーを失った。
あれが悪因で、これが悪果なら、
――なるほど確かに、因果は巡るのだろう。
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