(6)「おはよう、わたしのイズキ。あなたは今日も素敵だし、わたしはもっと素敵ね。最高の朝だわ」

 イズキのパートナーは、小さなお姫様だった。


「イズキ! イズキ・ローウェル!」

 呼びかけとともに、眠っていたイズキの腹に何かが勢いよくのしかかった。

「ぐふっ」

 お世辞にも上品とは言えない呻きを上げて、イズキがのろのろと眼を開ける。自分の腹に視線を向けて、彼はそのまままた眼を閉じた。

「ちょっと、何をまた眠ろうとしてるのよ!」

 ばしばしっ、と遠慮なく胸を叩かれる。イズキは強引に寝返りを打って、腹の上にいる生き物を転がした。

「きゃあっ!」

 悲鳴が上がって、ベッドの横にころりと落ちる。ベッドに細い手をついて、一人の少女が身を起こす。

 イズキに振り落とされたテディは眉をつり上げた。

 人間で言えば、年の頃は十かそこらだろう。青い髪の、愛らしい少女だった。

 鮮やかな橙の瞳が怒りを孕んで煌めく。艶やかなピンクの唇が綻ぶ。

 テディは己の契約者の胸あたりに指を這わせて、わざとらしくそっと呟いた。

貫き通サブルー――」

「いやいやいや」

 少女の言葉が終わるよりも早く、イズキが飛び起きた。ぼさぼさの髪をそのまま、テディの手を掴む。

「契約者の体に穴を開けようとしてんじゃねーぞ、このじゃじゃ馬娘!」

 半眼のイズキに、テディは悪びれた様子もない。

「あら、わたしがわたしのものを好きにして何が悪いの」

「殺す気か!」

「馬鹿ね、死ぬ前に治すに決まってるじゃない」

 どこまでも勝手な物言いで、テディはツンと顎を上げた。それこそ、高飛車なお姫様のように。

「それよりも」

 ことりと、無邪気に首を傾げる。当たり前のように、少女は望みを口にした。

「朝のご挨拶は? イズキ」

「お前な……」

 堪えきれないというように、イズキが笑う。魔術を止めるために捉えた少女の手を優しく掴み直して、少年は小さな甲にそっと唇を落とした。

「おはよう、俺のテディ。良い朝だな」

 満足そうに頷いて、言葉を返す。

「おはよう、わたしのイズキ。あなたは今日も素敵だし、わたしはもっと素敵ね。最高の朝だわ」

 にっこりと天使めいて、少女は微笑んだ。



「――って、もっと早く起こせ馬鹿!」

「何回も起こしたわよ! 自分の寝汚さを反省なさい!」

 同日、二人は駅までの道を全力で走っていた。

 《黒百合》から汽車に乗るには、森を抜けてリズノワールの中心街に行かなければならない。大小の影が街の中心地を駆け抜ける。

「諦めて次の汽車にしねえ!?」

 イズキはちらりと、通りの店にかかった時計に眼を向けた。出発時間まであと十五分。

「もう無理これは無理絶対無理。汽車たぶん遅れてるって歩こう! 諦めよう!」

「諦めるのか諦めないのかどっちよ!」

 ほとんど叫ぶように言い合う。それに、とテディは唇を尖らせた。

「停車駅でヒサメたちと合流するのよ、遅れるだなんて、」

「あーそうだった相手ヒサメじゃん、二時間くらい待たせとこうぜ。どうせペギーといちゃついてんだから気づきゃしねえ――」

「わたしのプライドが納得しないわ!」

「……さいですか」

 吸血鬼は押し並べてプライドが高い。表に出す者も出さない者もいるが、混血貴族種であるテディは特に傾向が強かった。

 イズキはハンターであって、通常の人間の何倍も鍛えている。それでも住居である《黒百合》の寮からほとんど走りっぱなしはさすがに疲れた様子で、愚痴っぽくぼやいた。

「やっぱり馬を借りるべきだったか……」

「何て言って借りるの? 寝坊して汽車に遅れそうだから貸してくださいって? あなた、馬鹿みたいよ」

 誰よりもイズキに甘いテディは、同じくらい誰よりもイズキに容赦がなかった。

 諦めて、イズキは黙々と足を動かした。途中で再度時計を横目で確認する。

 汽車の出発時刻まであと十分。駅までも走れば同程度。

 ここまで来れば、車掌に声を上げれば乗せて貰えるだろう。

 考えてイズキがほんの少しだけ気を緩めた、そのときだった。少年の視界に、不穏なものが過ぎった。

「……ん、」

 テディに声をかけるか、迷った。

 迷う必要はなかった。イズキが足を緩めたときにはすでに、テディは完全に足を止めていた。

「おい、テディ」

「待ち合わせは遅刻ね。ヒサメに後で連絡しなくちゃ」

 イズキと同じものを、テディも見たのだ。彼女の言葉で、イズキは理解した。

 イズキが見たのは、男に抱えられてどこかに連れ去られる少女の姿だった。男が消えたのは治安の悪い路地裏で、少女を家に送るといった様子ではなかった。

 厄介ごとだ。イズキの直感が告げている。

「行くわよ、イズキ」

「待て」

 迷いなく男を追おうとした少女の腕を、イズキは掴んだ。テディはイズキを睨み上げる。

「なんで止めるのよ!」

「腕に前科の刺青があった。ありゃ人間だ」

 一目で判るように、人間と人間以外の生き物では刺青の形が違うのだ。

「だから何」

「俺たちは吸血鬼ハンターで、人間の犯罪は責任範囲外だぜ」

「だから、それが何って言ってるの!」

 イズキの手を振り払って、少女は、

 イズキ・ローウェルが誰よりも愛し、信頼し、命を預けるテディは吠えた。


「わたしたちは戦えるのよ! 力を持つ意味を勘違いしないで!」


 一つの迷いも、疑いもない言葉だった。

「助けられる命を助けて、何が悪いの。手が届く命を救って、何が悪いの。眼の前で力尽きそうになっている体を抱きしめて、何が悪いの」

 正しく、テディはプライドが高かった。己のプライドの高さを自覚し、自らのプライドに沿って選ぶ行動には躊躇いがなかった。

「力の使い方を間違わないで、わたしの愛しいイズキ・ローウェル!」

 年長者として年下を窘める視線で、テディはイズキを見上げた。

 幼い姿があまりに眩しくて、イズキはそっと眼を細めた。大切な糸をより合わせるように、言葉を紡ぐ。

「悪かった。俺が間違ってたよ」

「イズキ、あなたには未熟なところも沢山あるけれど」

 十四歳でハンター資格を取得して、一年が経ったころだった。ハンターになる前からついてくれていたテディに、イズキは頭が上がらない。

「それでも、わたしはあなたが大好きよ」

 母のように、

 姉のように、

 幼い少女の吸血鬼は言った。

「俺もお前が好きだぜ、テディ」

「当たり前よ」

 イズキの手を取って、テディが口づける。ちょうど、朝イズキがテディにしたように。

 直前までの落ち着いた雰囲気など簡単に消し去って、悪戯盛りの少女の顔でテディは笑った。

「だからあなたは、わたしを手伝うのよ!」

「……しゃーねえなあ」

 苦笑して、イズキは頷いた。妹のわがままに付き合う兄の表情で。

 くるりくるりと一瞬ごとに二人の関係性は変わった。彼らは互いに、自分たちの関係性に満足していた。

 母のように、

 姉のように、

 けれど何よりも、

「付き合ってやるよ、相棒」

 大切にするべきパートナーに、イズキは言った。

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