(5)「おやすみ、吸血鬼」

 汗で滑りそうになる手を、そっと握り直す。記憶の中の少女に、そっと呼びかけた。

「大丈夫だ、俺にはお前がついてる」


 ――そうだろう、テディ。


 イズキの一喝に応えるように、夜が揺れる。夜がざわめく。

 ゆらりと眼前に人影が現れた。瞬間、

 イズキは地を蹴った。

 相手が人間であれば、あっさりとイズキの勝利で終わっただろう。それほど躊躇いなく、殺意の乗った踏み込みだった。

 地を這うように、イズキは駆ける。地と平行に刀を振るう。

「――っらぁ!」

 裂帛の気合いとともに、イズキは最後の一歩を詰めた。

 確かに吸血鬼の足を捉えたはずの刀にはしかし、手応えがない。吸血鬼の姿がかき消えて、イズキは舌打ちした。

 あまりキットから離れるわけにはいかない。踏み込んだ半分ほどの距離を戻って、青年は改めて魔器を構えた。

 その、正面に――。

 一人の男が立っていた。見た目の年はイズキより一回りほど上だろう。がっしりとした体躯に、顔は影になって見えない。

光あれシャンデーラ

 口の中で小さく唱えた。暗がりに沈んでいた視界が一気に明るくなる。

 数度、視界を馴染ませるために瞬いて、イズキは言った。どこか哀れむように。

「――あんた、堕ちかけか」

 フーッ、と吐息で吸血鬼は応えた。

 瞳は正気と狂気の境を彷徨っている。血に狂って化け物になり果てようとする己を、最後の理性が止めているのだ。

 中途半端で、――だからこそ、頭が回る。助けを求めるために獲物が逃げ出さないように、あらかじめ帰路を惑わせる程度には。

「しかも魔術も使えるってか。厄介だな」

 言って、イズキは好戦的に笑った。

 自分が人間だろうが、パートナーがいなかろうが、相手が魔術を使える吸血鬼だろうが。青年に、負ける気はなかった。

 ――イズキを守って命を落とした、パートナーの名にかけて。

「来いよ、吸血鬼。自分の墓穴を掘らせてやるぜ」



 薄らと開いた吸血鬼の口が、急速に裂けた。

 歯をむき出して、手をだらりと前に垂らす。二本足の獣めいた姿になって、ゆらりと体が揺れる。

 吸血鬼が足を踏み出す。足音で小石が爆ぜる音を、イズキは確かに聞いた。

 男が右腕を振りかぶる。男の手の先が、月の光を弾く。

「――短剣!」

 ぎりぎりで、イズキは吸血鬼の攻撃を刃で受けた。力を受け流せずに吹き飛ばされる。

 人間と吸血鬼では、圧倒的な膂力の差がある。真正面からやり合っては勝負にならないのだ。

「いってェな、クソッたれ!」

 毒づいて、起き上がる。真っ先にキットに視線を向けた。

 少年は、吸血鬼を目前にして反応できずに立ち尽くしているようだった。当たり前だ、吸血鬼を相手に普通の人間はなす術がない。

「馬鹿かなに突っ立ってんだ、さっさと逃げろ!」

 言いながら、走り出す。足は動く。腕にも不自由はない。

 ――自分は、やれる。

いや増せアンプラート!」

 瞬間的に増した筋力で地を蹴った。キットに襲いかかろうとしている吸血鬼に、後ろから斬りかかる。

 刃が触れた途端、吸血鬼の姿がかき消えた。キットが眼を見開き、イズキは荒々しく唇を歪める。

「――知ってるっつの」

 

 姿を見せない吸血鬼の文字通りの足がかり。足音だけを頼りに、青年は刀をあらぬ方へ振り切った。

「そう何度も同じ手にかかって堪るかよ、バーカ」

「あ、あ、あ、ぁ、……」

 消えていた吸血鬼が、肩口を裂かれた姿を見せる。よろりとよろめいて乱れた髪が顔を隠し、

 幾筋もの髪の間から、赤く染まった眼がぎょろりと剥いた。

 ――あぁ、ダメだ。

「キット、に、」

 げろ、と言葉は続かなかった。

 吸血鬼の傷口から滴る血が、硬化して襲いかかってくる。何かを考えるよりも早く、イズキは強引に身を捩った。

 キットを胸に抱え込んで、地に伏せる。幾らかの攻撃が体を掠めて、飛び散った血が少年の頬を汚した。

 息をつく間もないまま、振り向いて刃を翳す。吸血鬼の短剣とイズキの日本刀が、鈍い音を立てて打ち合わされた。

 地面に転がった状態のイズキでは吹き飛ばされることこそないが、しかし。

 押し負ける。判断して、青年は口上を唱えた。

いや増せアンプラート……!」

 じわじわと自分に近づいていた刃が、拮抗して止まる。イズキはぎりと歯を食いしばった。

 魔術の連続使用で、音を立てて血の気が下がっていく。少しでも休まなければ、後の負荷が大きくなる。

 ――けれど。

「イズキ……」

 色を失った子どもの声音が、青年の遠のきかけた意識をつなぎ止めた。自分の後ろには、力を持たない少年が座り込んでいる。

 自分が負ければ、キットは死ぬ。

 ふは、とイズキは笑った。自分を鼓舞するための笑いだった。

「……ハンターなんざ、ただの金稼ぎだ。死ぬなんざ割に合わねーし、正義を語って死んでいくやつは勝手に死んで行けって思う、けどなあ!」

 カタカタと刃が鳴る。月の光を受けて、青く輝く。

 青く、青く、青い、

 ――イズキのパートナーの、色だ。


 青い刃にかけて、イズキは吸血鬼には負けられない。


「ガキが殺されるのは胸くそわりーんだよ!」

 ――いや増せアンプラート


 三度の強化に、全身が悲鳴を上げる。構わない。

 瞬間的に増幅した腕力で、イズキは吸血鬼を吹き飛ばした。木に叩きつけられた男に肉薄する。

「なあ、」

 痛みで一瞬、正気が戻ったのだろうか。

 はたりと夢から醒めたような顔をした吸血鬼の顔を、イズキは覗き込んだ。

「あんたもそう思うだろ、オッサン」

「あぁ……」

 吸血鬼が、瞬く。正気と狂気の狭間で。現実と夢の境で。

 イズキの首に伸びかけた腕が、ずるりと落ちる。

「確かに、そうだな――」

 眼を伏せた、男の心臓を――、

「おやすみ、吸血鬼」


 青い刃が一つの苦痛もなく、正確に貫いた。

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