私のおとぎ話

咲川音

私のおとぎ話

「最後に、少しだけ二人きりにしてもらえませんか?」

 そう尋ねれば、五分だけねという声を残して病室から人の気配が遠のいた。

「リヒト、どこ?」

 暗闇のなか手を伸ばすと、微かなモーター音とともに、硬い質感が私の手を包みこんだ。

「ここにいますよ、南」

 男とも女とも取れる平坦な声は、いつも私に優しい。

 数年前から盲導犬の代わりに導入されているAI搭載ロボット、「リヒト」。

 生まれつき目の見えない私にとって、十八年間「この人」は人生の一部だった。

「リヒト、あなたには随分世話になったわ。ありがとう」

「私は与えられた使命を全うしたまでのこと。礼には及びません」

「それでも言わせてほしいの。憐れみも偏見もなく、本当の意味で向き合ってくれたのは、あなただけだから」

 人前に出れば、私は誰かの美しいおとぎ話でしかなかった。リヒトの前でだけ、私は人間に戻れたのだ。

「ねえ、どうしてもお別れしなくちゃいけないの?」

「この手術が終わってあなたが光を取り戻せば、私の存在理由はなくなりますので」

「あなたはこの後どうなるの?」

「プライバシー保護のため記憶をリセットしてから、次のユーザーの元へ送られます」

 私は何も言えず、リヒトの胸にもたれかかる。頬に触れる冷たさが、今はただただ悲しかった。

「姿が見えないからかな、私にはあなたが、人間に思えるの。命がないから何よ、あなたはどんな人よりも綺麗で、純粋で、優しくて……」

「南、私はロボットです。人間とは違います」

「知的で、平等で――愛してるのよ! そうよ、これは愛だわ。私あなたを愛しているの」

 魂の宿らない手が私の髪を撫でる。駄々をこねて泣く私を、リヒトはいつもこうやって宥めてくれた。

「愛とはなんでしょうか、南。私には分かりません」

「愛はね、リヒト、愛っていうのはね……」

 ガラリ、と扉の開く音が私たちを遮る。

「お時間です。さあ、車椅子で手術室の前までお連れしますから」

 私は行き場をなくした言葉未満のもの達を、ギュッと唇の内に押し込めて立ち上がる。

 看護師の手を借りて車椅子に座ると、リヒトがいるであろう方向を見上げて言った。

「さようなら、リヒト。あなたに会うのはこれで最後にしたいの」

 リヒトとの思い出や抱いた感情が、ただの金属の塊になってしまうのが嫌だから。

「はい。さようなら、南」

 いつもの穏やかな声に背中を押されるように、車椅子が動き出す。

 愛とは一体何なのだろう。とうとう答えられなかった最後の質問を反芻する。

 誰かの美談になるのが嫌で逃げ回っていた私こそ、自分のためのおとぎ話にあの人を閉じ込めていたのかもしれない。この暗闇の中で、空っぽの愛を育てていたのかもしれない。

 心によぎった考えを認めたくなくて、私は言い訳のように、いつまでも涙を流し続けている。

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私のおとぎ話 咲川音 @sakikawa_oto

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