ささやかな、そして大いなる計画

不立雷葉

ささやかな、そして大いなる計画

 ブラインドの隙間から差し込む光が穏やかな橙色に変化していることに気づいた。天井に取り付けられた空調から流れる風も弱まっているようだ、外気温が下がり始めているのだろう。


 作業のためキーボードを打つ手を緩めることなく、ディスプレイの端に表示されている時計に視線を向けた。時刻は一七時三〇分、そんなことはあり得ないと分かっていながら壁掛け時計にも目を向ける。間違いない、今の時間は一七時三〇分。


 つまり、終業時刻まで残り三〇分。サイトウは両頬を手で叩き、曲がり掛けていた背筋を伸ばしエクセルの画面と向き合った。


 大きな野望であると共にささやかな希望がサイトウにはあるのだ。それを実行し、叶えるために朝の九時に出社した時から慢心していたのである。


 その願いとは、終業時刻である一八時に帰ること。定時で上がることであった。


 始業時刻に出社し終業時刻に帰宅する、それは当たり前のことであるが徹底するのが難しいことでもある。これはサイトウの勤める久我E&M社だけの話ではなく、日本の企業そして官公庁全体の問題であった。


 入社して間もない頃に定時で帰ることは諦めていた。だからといって納得できるわけではない、残業するのも仕方がないと考えていても不満はある。一番の、そして唯一の理由は残業代である。


 というのもサイトウの職種は営業で、労働時間の半分以上は社内ではなく社外にいることも多い。客先に直行し、直帰することもあり月三〇時間分のみなし残業代が給与に含まれていた。


 みなし残業自体は納得してはいるが、問題はその額である。サイトウが定時に上がることは稀で、毎日最低一時間、平均すれば二時間以上は残業を行っている。月の残業時間は大体四〇時間といったところ、つまり……毎月一〇時間分の残業代は支払われていないということになる。


 履歴書を送る時点でみなし残業のことは理解していたつもりだった。しかし、いざ働いてみると納得がいかない。割が合わない。なのでサイトウは、残業を決してしないと心に決めたのである。


 そのためには終業時刻までに与えられた業務をこなしておく必要がある。外回りに出ていると、客先の都合に振り回されることもあり定時上がりは難しい。


 しかし、しかし今日は違う。客先に出向く予定は無く、一日中内勤で溜まっていた伝票の整理。それももうすぐ終わる。それとなく課長のデスクに目を向ける。年配の課長は真剣な眼差しでディスプレイを見ていたが、課の人員はこういう時の課長が仕事をしていないことを知っていた。


 おそらくネットサーフィンでもしてこっそり動画サイトでも見ているのだろう、彼の片耳にはイヤホンが差し込まれていたしキーボードやマウスを操作している様子はない。今、課長は仕事を持っていない。それは唐突に仕事が振ることがない、ということでもあった。


 サイトウだけでなく課の全員が課長の様子に気づくと、皆一様に安心感を胸に抱いた。どこか張り詰めていたオフィスの空気が穏やかなものへと変わり、心なしか時間の流れまでもが遅くなったような錯覚すら抱く。


 この空気に当てられて作業の手が遅くなりそうだったが、気を引き締めてキーボードを叩く手を緩めない。


「唐揚げ、ビール、野球…」


 三つの単語を呪文のように呟き続けた。帰宅したならその途中、お気に入りの弁当屋で唐揚げ弁当を買うのだ。奮発して唐揚げは増量しよう、一個じゃない二個だ。そしてビールも第三のビールや発泡酒ではない、本物のビールを買うのだ。


 そして今日は贔屓にしているチームのナイター中継が放映される。電車の乗り継ぎや途中で店に寄ることも考えると開始には間に合わないかもしれない、けれどいつもみたいにスポーツニュースで結果を確認するだけという悲しいことにはならない、はず。


 座椅子に座り、唐揚げをつまみにビールを飲み、観戦し経過に一喜一憂する。この楽しみがサイトウのエンジンをより一層回転させ、あれよあれよという間に仕事は終わり、日報を記入するだけとなった。


 オフィスの電話も、支給されている社用の携帯にも電話がかかってくる気配はない。再び課長のデスクへと視線を向けた、彼は変わらずイヤホンを付けたまま画面に釘付けとなっていた。この分ならば問題ない、帰宅後のことを想像するとサイトウの頬は緩む。


 これに気づいた隣のデスクに座る同僚のタナカは怪訝な表情を浮かべたのだが、すぐに彼も頬を緩ませた。彼もまたサイトウと同じく定時ダッシュを目論んでいたのだ、互いに視線を交わし同僚ではなく戦友として頷きあう。


 エンターキーを叩く手につい力が入った。開いていたウィンドウを一つ、また一つと閉じていく。後は終業を告げるチャイムが響くと共にシャットダウンさせるだけだ。


 タナカもほぼ同じタイミングで仕事を終えたようだ。二人は仕事をしている振りをするため、ディスプレイに目を向けキーボードに指を掛けているが動かすことはない。終業時刻まで、残り五分もなかった。


 また課長のデスクを伺う。彼もまた定時に帰るつもりなのだろう、しきりに壁掛け時計を気にしていた。絶対に定時に帰ることができるという確信がサイトウ、そしてタナカの中に生まれ二人は顔を見合わせサムズアップを交わす。


 終業時刻のチャイムが鳴り響く、それと同時に席を立つ者もいるが溜息を吐く同僚の方が多い。サイトウもいつもは溜息を吐く側であるが、今日は違うのだ。即座にPCをシャットダウンさせ、ビジネスバッグの取っ手を掴んで立ち上がる。


 後はタイムカードを切るだけだった。心は軽く背中に羽が生えたような気さえする。


 しかし、そこで電話が鳴り響いた。もちろんサイトウは受話器を取る気なんてない、タイムカードをまだ切っていないが今日の仕事は終わったのだ。残業が確定する誰かが取るだろうなんて考えながらオフィスを後にしようとしたのだが、その背中に視線が突き刺さる。


 嫌な予感に身を苛まされながら振り返ると、そこには受話器を耳に押し当てながらサイトウを見つめる課長の姿があった。彼も帰ろうとしていたところだったらしく、右手は受話器だったが左手は鞄を掴んでいる。


 他の誰かであってくれ、せめて電話で済む用件であってくれ。気づけばサイトウの姿勢は直立不動となっており、緊張で身は縮こまり唇は真一文字に結ばれていた。タナカはそんなサイトウが気になるのか、座ったまま帰り支度をしながらも不安げにサイトウを見上げている。


 課長の手が鞄を離す。


「はい、わかりました。すぐに」


 課長のデスクとサイトウとの間に距離はあったが、タイピング音が響くほどの静けさだ。課長の声は良く聞こえ、彼が受話器を置く音は審判の笛であった。


 課長の顔が上がり、サイトウを見据え、柔和な微笑を見せた。これは何事もなかったに違いない、そうだ定時に帰れるのだ。絶望の闇の中に落とされそうだったが、光はサイトウを見捨てはしないのかもしれない。


「サイトウ君、悪いけど君が担当してるマツイ工業に今すぐ行ってもらえるかな。この間納品したばかりの機材がトラブルを起こしたみたいだ、うちが悪いと決まったわけじゃないんだけど電話で話しても機材の状態がよく分からないんで実際に見てきてくれ」


「え、あの……ですけど、もう定時ですし……明日じゃ、ダメですかね?」


 精一杯の反抗を試みるが、通用しないことはサイトウ自身が良くわかっていた。


「まぁそうなんだけどね、マツイ工業さんは二四時間体制で動かしてるからね。明日だと、ちょっとねぇ……まだ向こうも操作に慣れてなくてミスしただけかもしれないし、そんな時間は掛からないはずだよ。どうなったかはメールで報告しといてくれたら直帰していいからさ、よろしくね」


「わかりました……」


 それ以外に口から出せる言葉はなく、項垂れそうになる彼を尻目に課長はデスクを離れてタイムカードを切ってしまった。部下に急な残業を命じながらも、自身は定時で帰るというこの態度に怒りを覚えるが、それ以上に空しさが強かった。


 タナカがサイトウの肩を叩く。


「ご愁傷様……」


 そう言いながらも彼の顔は明らかに笑っている。他人の不幸は蜜の味。


 足早に帰路に着くタナカに気づいた課長は、彼に声を掛けるとあろうことか飲みに誘っているではないか。サイトウは残業、しかも客先だ。少なく見積もっても二時間はかかるだろう、だというのに定時に上がったあの二人は居酒屋かと思うと泣きたくなる。


 しかしここは人目のあるオフィス。サイトウに出来るのは「ちっくしょう」と小さく呟くことだけだった。

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