第6節 雄叫びが轟く

 葵は龍崎に向かって突っ込んだ。青白い光を纏い、電撃のような残像のみを残す、瞬間移動。


 だが、龍崎には葵の動きが見えていた。否、見えるというよりも、感じる。感覚が広がって、何から何まで察知できるのだ。

 そして、どう体を動かせばいいかも直観的に理解した。


 葵の攻撃をよけることも、攻撃を防御することも、無様に逃げ回る必要はない。涼香と同じ力を手にした龍崎は、ただ前に進むのみ。ただそれだけ。


「うおおおおおおおおお!」


 龍崎は雄叫びを上げ、右手を強く握り、解き放つ。

 突っ込んできた葵にカウンターを食わせるようにして拳を放ったのだ。

 だが葵は左手で龍崎の拳を弾く。

 お返しに、龍崎の頬に右拳を突き立てる。

 龍崎の視界が歪む。

 だがそんなことは関係ない。

 ようやく葵と渡り合えるだけの力を手に入れたのだ。だからこそ、絶対に倒れるわけにはいかない。何としてでも葵に打ち勝たなければいけない。


 それだけが葵から『カワイガリ』を討ち払う、唯一の方法なのだ。


 龍崎は頬に感じた衝撃をもろともせずに、今度は左腕を掲げて、放つ。ひたすらに放つ。

 しかし空を切るか、弾かれてしまうかの二択。

 それでも龍崎は前に出る。脚を前へと送り、腕を前へと送り、葵から離れようともしない。つねに距離を詰め、逃がさない。

 どんなに殴られても、前へ前へと進むのだ。


「——————いけるッッ」


 殴られるたびに口から血を吐く。

 体に攻撃を受ければ膝を折ってしまいそうになるが、それでも絶対に地面に伏すことはない。


「―――――いける‼‼」


 体重移動。

 足さばき。

 機転を利かせる。

 龍崎はそんな動きとは遠くかけ離れた攻撃をただ繰り出す。誰かと喧嘩したことなどなく、武術の心得などない。

 龍崎が打ち出す拳は、格闘技や喧嘩慣れした人間から見れば、それは酷いものだろう。

 だが、葵の動きが徐々に鈍くなっていく。どんなに重たい一撃を喰わらせても倒れない龍崎に、翻弄されているのかもしれない。


 葵は顔を歪め、口を大きく開いた。


「諦めが悪い!!」


 葵は自分の左腕を、龍崎の右腕に、蛇のような動きで絡め、固定した。

 右手を軽く握り、周囲に青白い閃光をまき散らす。

 涼香を竹刀ごと打ち抜いた拳、涼香の脇腹の肉をえぐり取った凶器。そして龍崎もその威力を知っている。

 だからこそ龍崎は、絶対にその攻撃を受けるわけにはいかないと、それを理解している。


 と、その時。

 葵の拳が放たれ、周囲に青白い閃光が沸き起こる。

 軌道が描く先にあるのは、龍崎の腹部。

 それが龍崎の腹部に当たれば、どうなるかわからない。

 だが龍崎は、それをわかっているからこそ体を前へ送り出した。逃げるでもなく、防御するでもなく、自ら相手の攻撃に当たりに行くのだ。


 龍崎が狙っているのは、相打ち覚悟の攻撃。

 右手に力を込め、葵の左頬へと放った。決して大きくない、最小限の小さなフック、のようなモノ。

 すると、葵の右拳から鋭さが消えた。

 龍崎の狂っているとしか思えない行動に動転でもしたのかもしれない。

 だからこそ龍崎の右拳は、葵の左頬へと突き刺さる。


「————————っぐ!」


 声が、出た。

 龍崎の口から。声が漏れた。右拳に衝撃を感じ、自分の妹を殴ってしまったことを心苦しく思ったのだ。こんな凶器のついた右拳で、葵の頬を殴ったのだ。


 だがそれでも力を抜くことなく、むしろ勢いと体重を乗せて、全力で右腕を振り切る。


「ごあぁぁぁ!」


 葵から悲鳴に似た声が発せられ、唾液が飛び散る。後方へ身体を向けるかのようにして、よろめいた。

 その隙を龍崎は見逃さない。

 葵と距離を詰める。

 左拳を腰の高さまで落とす。


「あああああああああああ!」


 龍崎が吠えた。

 左拳を下から突き上げるようにして葵の鳩尾に叩き込む。

 葵は口から舌を突き出し、よろよろと後退する。


「くっ‥‥‥ふっ‥‥‥」


 龍崎は泣いていた。

 嗚咽を漏らし、涙を流しているのだ。『カワイガリ』追い出すためとは言え、妹に拳を叩きこんでいるその事実に泣いているのだ。

 葵は口から出た血を袖で拭く。そして龍崎を睨みつけた。


「はっ‥‥‥お兄ちゃん。妹を殴るなんてサイテーだね」


 と、その言葉に龍崎は顔をしかめる。だが、そのまま黙ることなく、口を開く。


「……ああ、最低だ。人を殴ったり、脅したり、威圧するヤツはクソ野郎だよ」

「なんだ自覚してるじゃん。思わないの? お父さんってそういう人だったよね。アイツにそっくりだって。いい年していつまでも昔のヤンキー気質が抜けないで! 乱暴で! 人の迷惑考えないで!」


 葵はさらに口を開く。


「お母さんもそう。なにがヤンママだ! ウチのは料理もしないし家事もしない。全部私がやってた全部私に押し付けて、ホント大嫌い!」


 葵はそう叫ぶが、眼には涙が浮かんでいた。

 今の葵の言葉は、彼女のこれまでの人生で溜め込んできた言葉なのかもしれない、そう龍崎には感じられた。


「……俺も嫌いだ。大嫌いだ。アイツらの子供に生まれたことを恨んですらいる」

「だったら分かるでしょ?アイツらの血が流れている以上、絶対にどこかでアイツらが足を引っ張る! ほんと邪魔!私は私が嫌い! 呪われてるんだ!私の血は!」

 葵は涙をこぼす。嗚咽を漏らす。

 だがそれでも葵は右の拳を引き、腰を落とした。

 そして龍崎は、そんな葵を見据える。


俺だって、嫌いだ。アイツらと同じ血が流れてるいと思うと吐き気がする」


 龍崎は言葉を区切り、右の拳を握った。


「でも葵。お前は別だ‥‥‥お前にだけは幸せになってほしい。アイツらのせいでお前の人生が無茶苦茶になるなんて耐えられない。俺はお前のためなら……お前に降りかかるどんなことからでも守ってやる……だからお前の苦しみがわかるって、俺にだけは言わせてろ」


 葵は犬歯を覗かせるようにして、龍崎に睨みつける。


「だからなんてない! 何様のつもりなんだ‼ お兄ちゃんは!」


 葵は叫び、龍崎に飛びかかった。

 葵が構えるのは右手の拳。鋭く、肉裂き骨砕く拳だ。どこまでも暴力的な拳。猛獣のような爪。


 龍崎が構えるのも右手の拳。鈍い輝きを放つ無骨な得物。メリケンサック。

 龍崎は腰を落とし、涙でもぼやけた視界で葵を捉える。


(なぜ、こんなことで苦しまなければいけないのか)


 その怒りを龍崎は拳に込める。

 痛いことも、怖い人も、デゥンデゥン音を鳴らす車も大嫌いだ。それは両親がそうであったからに他ならない。


 龍崎と葵の生活を滅茶苦茶にした両親。

 だがその両親は責任を果たせる状態にはない。にもかかわらず、まだ奴らの呪いともいえるモノが、結果的に葵を苦しませている。

 だからこそ龍崎は怒り、憤り、憤怒する。兄妹を取り巻く環境、環境のせいにすると偉そうに説教を垂れる連中、葵の苦しみに気が付いてやれなかった自分自身に。


(兄妹でもお互いの苦しみは分からない‥‥‥そうかもな。結局、俺が言っていることは……身勝手な押し付けだろう。ただな、それでも俺は、俺はお前の—————————)

 だから、龍崎は拳を放つ。

 全てを清算し、『カワイガリ』によって、彼女の人生に、影を落とさないために。


「俺はお前の兄貴なんだ‼ ちっとは兄ちゃんらしいことさせろおぉ! 葵!!!!」


 龍崎は叫び、右腕の拳を放つ。

 狙うのは飛び込んでくる葵。

 そんな葵の顎。

 龍崎に右手の指にはめているのは『カワイガリ』」を叩きだすための武器。


「ああああああああっ‼」


 龍崎は叫んだ。

 これ以上、葵を痛めつけないために、全身の力を込めて葵の顎を殴るのだ。この一発で葵の『カワイガリ』を葬るために。

 そして右拳が、葵の顎へと吸い込まれるようにして、叩き込まれ ―――――ガコン、と鈍い音がした。


「があああっつ」


 葵は悲鳴を上げ、口から血を吐き出す。

 だが、まだ止めない。

 それでも龍崎は勢いを止めない。確実に『カワイガリ』を狩り出すために右腕を振り切る。


「うおおおおおおおおおおおおッッ!!」


 雄叫びが轟く。

 絶叫が轟く。

 葵の身体は後方に吹っ飛んだ。

 土埃を巻き上げながら何度も跳ね、転がり、滑る。そして、ようやく止まる。

 葵はピクリとも動かない。だが、彼女のうなじ付近から、ドロドロと半透明のヒルのようなモノが這い出した。―――――『カワイガリ』


「…………これで、葵は……あおいは」


 龍崎は、そこまで見届けてから、崩れ落ちた。

 瞬間、身にまとっていたバンカラが四散し、血に染まったメリケンサックのみを残して、元の姿へと戻る。

 龍崎の意識はそこで途絶えた。

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