第3節 だから私はエセヒーロー

「クッソ……警察の世話になったらどうしてくれんだ。あの女」


 龍崎りょうざき一ノ瀬いちのせとヤンキー中学生から逃げ、念には念を入れて適当に歩き回った結果、元居た場所からずいぶんと離れた場所に辿り着いた。


 龍崎はフェンスに背中を預け、額に浮かんだ汗を拭うと、カシャリと音が鳴った。肘がフェンスに当たったのだ。肩越しに後ろを見ると、そこにあるのは巨大な用水路。底まで約3メートル、幅は10メートルはあろうかという巨大な用水路。ポイ捨てされたペットボトルや空き缶、片方だけの軍手や靴、果ては不法投棄された家電製品や、さび付いた工具のようものが、用水路の川底に点在している。異臭はしない。ただ、川底に溜まった雨水は、酷く汚れている。


 ここ深津ふかつ市郊外は用水路が異常に多い。近年、その用水路事故の多さがメディアにとりだたされ、行政が落下防止用のフェンスが設置することになったのだ。

 龍崎は自分の住む地域のそんなことを思い出す。怖い人からの逃亡し続けているために、深津ふかつし市の地理に大変詳しい。

 と、龍崎はパッと顔を前に向ける。


「まあいい。一ノ瀬、お前のことは忘れねえぜ」


 龍崎は適当な方角に向かって両手を合わせ、米粒ほどの罪悪感を消し去った。一瞬だけ一ノ瀬のその後案じてはみたが「まあ、ええわ」と直ぐに忘れてしまうことにしたのだ。女の子を見捨てるという行為は非常に心苦しい。だが、だからと言って自分を責める必要はない、そう思ったのである。


 龍崎はフェンスから背中をパッと離れ、歩き始める。しかしすぐさま周囲を警戒するべく視線を巡らせた。いま現在いるこの場所。使われなくなった巨大な用水路は、夜になる怖い人達が集会所として使用することで有名。今はまだ昼間であったがそれでも警戒を怠れない。絡まれた体質にとって、これほど危険な場所はない。

 と、その時。


「――だぁか――俺た――あそ」


 そんな声を聴いた龍崎は素早く振り帰り、後方にある曲がり角に眼を向ける。なんとなく、その声に嫌な予感を覚えたのだ。


「――――ええ――――――じゃあ―――――だろ!」


 その声は荒く粗暴で、日常会話からかけ離れた声色をしていた。まくし立てるような興奮しているような、少なくとも聞いていて気分が良い声色ではないと龍崎は感じたのだ。


「あ、そうなん――か! へえ、スゴイです――ね!」


 と、そこで新たな声を龍崎は聞き取る。高く、明るい、今まで聞こえてきた声とは違った声色である。

(――――女か)

 瞬間、龍崎の頭の中に男に囲まれている女の映像が浮かび上がった。


『やっ‥‥‥やめてください!』

『ぐへへっ! ねーちゃん。俺達と遊びに行こうぜ! いつ帰れるか分かねーけどな!』

『そんな誰か助けて!』


 了。


 と、そこで龍崎は、


「俺らと遊びに行こうーや。ちょっとだけじゃけえ。えーがな!」


 という声を鮮明に聞き取った。つまりこれは、自分の元へ向かって、怖い人たちと、怖い人に絡まれている女が近づいて来たということである。


「クソ! また女が絡まれてやがるっっ!」


 事態を察知した龍崎は反射的に拳を握り込み、頭を回転させる。

 第1に、絡まれている女を助けること放棄する。これは常識である。

 第2に、逃走経路を確認した。今すぐクラウチングスタートでも切れば、怖い人達の視界に入ることなく逃げ切ることなど余裕。

 第3に『いきなり彼女から電話が掛かってきて、別れ話を切り出された高校生』をいう設定を創り出し、自分の中に落とし込んだ。最悪、捕まった際に見逃してもらうための言い訳のである。怖い人達の世界は『女と煙草と酒と車』で回っており、それらをこよなく愛している。つまり同情を誘える。


 ――――――この間、わずか2秒。


「俺はなぁ!怖い人とデゥンデゥン音を鳴らして走る車が大嫌いなんだよ!」


 龍崎は、まだ見ぬ彼女へとの復縁を果たすべく携帯電話を握り絞めた。腰を低く落とし、脚に力を込め、前傾姿勢を取る。一気にトップスピードに乗るための予備動作。より早く、絡まれている女と怖い人をその場に置き去りにするための、誓いの姿勢。筋肉が唸りをあげ、駆け出すべく、足先に力を込めた。


 と、その時。予想外の事態が起こる。

 龍崎がパッと視線を前に向けた瞬間、逃走経路上に3人の人影を捉えた。一人はブレザー制服に身を包み、肩まで伸ばした髪をなびかせ先頭を駆けている女。残りの2人はハンドルを上向きにした自転車に跨り、蛇行運転を繰り返しその女の後を追っている。


「‥‥‥なんだありゃ」


 龍崎は目を細める。だが、その間にも3人との距離は近くなる。


「―――あ」


 と、龍崎は先頭を走っている女が一ノ瀬詩織いちのせしおりであることを理解した。そして追手はあのヤンキー中学生の2人であることを理解した。


「やっべ! 逃げな!」


 龍崎はすかさず体を反転させ駆け出そうとした。が、身体がその場でピタリと止まる。前方からは少し前にまいた不良、後方の曲がり角からは今からまく予定の不良。つまり挟み撃ちのような形になってしまったのだ。

 ――――瞬間、龍崎は背中に冷たいモノが這いずるのを感じた。

 だが一ノ瀬は疾走を続ける。口を開けて大きく呼吸を繰り返し、額に玉のような汗を浮かべ、脚を前へと送り出している。そして龍崎の真横を通る瞬間、


「このクズ!!死ね!!」


 と、言葉を言い残し走り去って行った。すると次の瞬間。


「おい! さっきのヤツじゃがな!」


 龍崎は声を掛けられ、ギコチナイ挙動で顔を前に向ける。

 するとヤンキー中学生2人が自転車から下りて、眼の前に立ち塞がっていた。

 1人は襟足が異様に長いヤンキー中学生。通称、襟足異様。

 1人は金髪のトサカ頭のヤンキー中学生。通称、金髪トサカ。

 龍崎は一瞬だけ顔をしかめ、しかしすぐさま笑みを造った。こんなことで挫けることはない。今までありとあらゆる理不尽な絡まれ方と闘ってきたのだ。


「お久しぶりです。さっきの女、あっちに行きましたよ。しゃっす」


 と言って頭を下げる龍崎。下げた瞬間、苦虫を噛み潰したよう表情へと変貌する。

(あの女のことはどうなってもいいから俺を見逃してくれ!)

 と心の中で神様に対し、これからは良き人間として生きていくことを誓ったのである。

 だが、神様というのは見ているのかもしれない。


「――――マジで遊ぼーやぁ! ちょっとぐらいええがな!」

「あははっ、でもお兄さん。そんなこと言って絶対にエロいことするでしょ! もう!」」


 と、龍崎の後方で笑い混じりの声がした。下げていた頭を上げ、肩越しに後ろを見ると、曲がり角から3人の男女がぬっと姿を現す。

 1人の男は肩幅がやたら強調されるタンクトップを着た、通称、肩ンクトップ。

 1人の男はオールバックに黒ジャージ姿の、通称、オール黒ジャージ。

 そんな彼らが絡んでいるのはセーラー服姿の女子生徒。

 肩ントップとオール黒ジャージが、女子生徒を取り囲むようにして距離を詰める。だがその分だけ女子生徒は、龍崎に背中を向ける形で後ずさりをしていた。


「俺さぁ。一回だけでいいから赤高の女の子と遊んでみたかったよぉ」


 オール黒ジャージが下卑た目を女子生徒に向けると、その女子生徒は「えー?」と声を出してから、


「なんで赤高の女の子だからって遊んでみたいと思ったんですか! あはは! 変なの!」


 と、明朗快活。はっきりと、可愛らしい声色で喋っていた。 

 そして、そんな光景を目撃した龍崎は眼を細める。

 (……なんだこれ)

 女子生徒は怖い人に絡まれているにもかかわらず、その声に恐怖の色を感じさせることもなく、まるで友人とお喋りでもしているかのような声色だったのだ。それが龍崎にとっては不思議でたまらなかった。なぜ絡まれているのに、そんな態度と喋り方なのだと。


「あ! そう言えば私、食べたいものがあって! この間、新深津駅にできた―――」


 と、そこで。

 ―――とん、と軽い音がして、龍崎の背中に女子生徒の背中がぶつかった。女子生徒が後ずさりを続けたために、ちょうど背中合わせの状態になってしまったのだ。


 女子生徒は肩越しに後ろを振り向いた。振り向いて、龍崎の顔を見る。

 なれば龍崎も、なし崩しのようにして女子生徒の顔を見る形になった。

 瞬間、龍崎はスッと息を飲む。線の薄い顔立ち、桜色の唇、大きく見開かれた目。その眼は黒真珠のように魅惑的な輝きを放っていた。


 ――――見惚れてしまった、というより眼が逸らせなかった。

 だが龍崎はそこで疑問を抱く。どうにもこの女子生徒が、さきほどまで明るい声で喋っていた女子生徒と、同一人物ではないような気がしたのだ。顔の印象に対してあの喋りが伴わない。喋り方に対して顔の印象が合致しない。


(―――赤い)

 しかし龍崎は別のことにも注意がいく。その女子生徒が赤い眼をしていたのだ。充血しているという意味ではなく。眼の虹彩の淵が紅色に染まっていたのだ。虹彩の周りをぐるっと一周。赤い細い筋が走っている。


 と、女子生徒はあっけに取られた表情をしていたが、パッと一瞬でえくぼのある笑みを浮かべた。愛嬌のある、話しかけやすそうな顔になる。眼の奥にはある種の妖艶さが見え隠れする。愛嬌があり、話しかけやすそうで、妖艶である。先ほど喋り方にぴったりの顔。そして同時にあの赤い眼も消え去ってしまった。

 そして女子生徒はパッと顔を前に持出した。


「で、そのパンケーキ屋さんに行ってみたなーって思っていて! 京子ちゃんが『すっごく美味しい』って言ってたから私も行きたいなって……あ! ごめん! お兄さんはメグちゃんも京子ちゃんも知らないよね! あははは!」


 それに対し、肩ンクトップとオール黒ジャージはお互いにチラチラと目を見合わせる。困惑しているのかもしれない。

 そして龍崎は困惑した。天然なのかアホなのか、自分の陥っている状況を理解できないほどの馬鹿なのか。と、そこで彼は気が付く。

(こいつ……赤椿あかつばき高校か)

 つい先ほども観た、セーラー服。歩道橋で見かけた女も着ていたあの制服。だからこそ龍崎はその女子生徒に気を取られてしまった。アホのようで馬鹿みたいなその女子生徒が、天下の赤椿高校の制服を着ていることに。

 だが、それも一瞬。龍崎がハッと我に返ると、示し合わせたかのようにして肩越しに肩ントップと眼が合った。


「……やっべ」


 龍崎はすぐさま視線を逸らそうとしたが、先に肩ンクトップは視線をツツツと横に移動させ、少しばかり驚いた顔をして口を開く。


「おお!ケンゴやんけ!どうしたんなぁオメェら!」

「おぁ! ショウタ先輩! おしゃす!」


 龍崎はなにごとかと視線を前に戻せば、眼の前にいる金髪トサカが喋っていた。瞬間、龍崎は顔をしかめる。恐らく、ヤンキー中学生2人組と女子生徒に絡んでいた2人組は先輩と後輩の間柄。同じヤンキー同士なあばり争いを始め、お互いに潰し合ってくれるという希望が消えた。

 すると肩ンクトップの横に居たオール黒ジャージが首を傾げた。


「あ?てか何でここにおるんなら」


 すると金髪トサカの横に居た襟足異様がこう答える。


「女に絡んでいたら逃げられたんすよ。コイツのせいで。あ、でもコイツあれっすわ。ガン飛ばしたら女見捨てて見捨て逃げたんすわ」


 瞬間、龍崎に視線が突き刺さる。それも4つ。彼は腹の底から沸き起こる嫌な感覚を覚えた。

 龍崎と女性生徒は背中合わせ。龍崎の前には金髪トサカと襟足異様。女性生徒の前にはオール黒ジャージと肩ンクトップ。逃げ場などない。

(……仕方ねえ)

 と、そこで龍崎はゆっくりと首を巡らせ始める。眼の前にいる金髪トサカと襟足異様……後方にいる肩ンクトップ……オール黒ジャージの顔を見てピタリと顔を止めた。

(この群れのボスだ)

 龍崎はオール黒ジャージに向かってゆっくりと立ち直り、ゆっくりと膝を地面につけ、ゆっくりと両手も地面につけた。ちょうど女子生徒と同じ方向を向いた形になる。


「女はどうなってもいい!煮るなり焼くなり好きにしろ!ただし!俺だけは助けてくれ‼」


 龍崎は額を地面に擦りつける。助かるためなら手段は選べない。

 すると一斉に、男4人の笑い声が上がる。甲高い笑い声だった。

 笑いが引くと肩ンクトップが龍崎の頭の側に立つ。


「お兄さん、目の前で女が絡まれとっても助けんのんか?」

「‥‥‥‥いやなんと言いますか。助けてくれとも言われてませんし。それに助けてもメリットないというか……」

「オメェ自分の女がさらわれそうになったらどうすんじゃ」

「いや彼女とか興味ないんで。あ、よかったら紹介してくださいよぉ。へへ」


 龍崎は苦笑いを浮かべつつ顔を上げた。あくまで媚へつらうつもりでいるのだ。

 すると肩ンクトップの眉間にシワが寄り始める。


「‥‥‥きっしょいのぉ。媚びとりゃどうにかなる思よーる。俺はオメェみたないヤツが一番嫌いなんじゃ」


 肩ンクトップは左手を龍崎の頬に伸ばし、鷲掴みにしたのちに、そのまま引き起こそうとした。


「あでででっ!いや~パないっすわ!マジまねぇっす!流石っすね。なんかマジぱねえ!」


 肩ンクトップの手によって、龍崎は土下座の状態から立ち上がらされる。必死に言葉を紡ぎ出すが、頬を鷲掴みにされているために、どんな言葉でも、ふざけているような声にしかならない。

 すると肩ンクトップの眉間にシワが寄った。


「オメェふざけとんか! 女ぐぇ助けられんでどーすんねぇ!」

「え? ええ?いや、助けるもなにもアンタらが絡まなかったら――――」

「ああ? なんじゃオイ! 言いてぇことがあるならハッキリ言えや!」


 肩ンクトップの口からツバが飛び、龍崎の顔にかかる。と、そこで龍崎の頬がピクリと動いた。

(……なんでこんな奴らに説教されているだ)

 女を守れないだとか、先ほどまで女に絡んでいた連中に言われなければならないのだと。そもそも左隣にいる女は自分になんの関係もない。それになによりこの世の中で一番嫌いな人種に説教を受けていることが気に食わない。

 だからこそ龍崎は口を開く。


「うっせえよ……。俺はお前らみたいな不良が大っ嫌いなんだ。更生すれば褒められる、おばあちゃん助けりゃ褒められる。ふざけてんのか。お前らみたいなのは中州でBBQして流されちまえよ」


 すると肩ンクトップは眉間に深くシワを寄せ、睨みを利かせた。


「ハァ? オメエおちょくっとるんか。ああっ?」


 だが龍崎は食い下がらない。ここまでくれば逃げられない。自ら逃げられなくしてしまった。ならば警察沙汰にして眼の前の連中を豚箱に送ってやろうと思ったのだ。


「おちょくってるよ。 不良は腐った蜜柑じゃありません? ウソに決まってんだろ。 腐ったヤツは腐ってないヤツを腐らせるし、周りの人間からしたら溜まったもんじゃねえだろ。アンタも自覚してだろ。同類の人間以外には煙たがられるってのがよ……あとなぁ俺は自分が大切なんだ! 自分を犠牲にして誰かを助けるなんて冗談じゃね!」


 そう龍崎が言い放った瞬間、肩ンクトップは右腕を振り上げた。

(――来る)

 龍崎は両腕を上げ顎の前に構える。来たる衝撃と痛みに耐える為の心構えを造り出す。人間、突発的な痛みは耐えがたいが、事前に分かっている痛みであればどうにか対処できる。受け身が取れるのだと経験則的に知っていた。


「へぇ。いいこと言うのね」


 澄んだ声がした。だがハッキリして力強い、そんな声質。

 そんな声を聴いたからだろうか。肩ンクトップの振りかざした右腕がピタリと止まる。


「誰かのために。たしかに、そんな理由で動くなんて冗談じゃないわね。自己犠牲ほど下らないものはないわ。だから……」


 龍崎はその声のしたほうを横目で見ていた。そこにいるのは赤椿高校の制服を着たあの女子生徒。その顔はさきほどとは違い、どこか冷めている。

 女子生徒は右手を眼前に構えた。その手には赤いテープがぐるっと一周、巻かれている。


「だから私は似非ヒーロー」


 瞬間、女子生徒の身体から紫色の焔が湧き立った。風になびく松明の炎の如く、紫色の焔が揺らめた。


「―――なっ」


 龍崎は困惑の色を顔に浮かべる。なにが起っているのかわからない。

 肩ンクトップが龍崎の元から一歩二歩後ずさりをした。オール黒ジャージも金髪トサカも襟足異様も、焔に包まれた女子生徒を眺めるばかりであった。


「見せてあげるわ、私の変身……なんてね」


 女子生徒は額の前に掲げていた右腕を、一気に振り下ろす。紫色の炎が四散し、彼女の周辺に火の粉が舞い散る。

 そして焔の中から異質な衣装をまとった女子生徒が姿を現した。今までは、赤椿高校のセーラー制服を着ていたにもかかわらず、今着ている制服のようなモノは、少なくとも赤椿高校の制服ではない。

 首元には赤色のスカーフ、夏用のセーラー服にの上に、前が開かれた冬用のセーラー服を、マントのようにして羽織っている。スカートは袴のような長さがあり、腰には銀色のチェーンがぶら下がっている。そして右手には竹刀。反りのある竹刀。湾曲した竹刀が握られていた。


 女子生徒と龍崎の正面には肩ンクトップとオーク黒ジャージが横並びに立ち、女子生徒と龍崎の後ろには金髪トサカと襟足異様が横並びに立っている。だが、誰も動かない。だれも声を上げない。だれも動けない。

 と、女子生徒が動いた。右腕を真っ直ぐに突き出し、湾曲した竹刀の先端が、肩ンクトップの鳩尾を襲う。フェンシングのように、全身を使った鋭い突きだった。


「―――ッッ」


 鳩尾に湾曲した竹刀を喰らい、肩ンクトップは崩れ落ちる。


「――――アナタではないのよ」


 女子生徒は湾曲した竹刀を引き戻し、後方に向かって身体を反転させた。

 湾曲した竹刀を振り挙げた女子生徒は、金髪トサカの頭に真上から叩き下ろす。頭の形に添って湾曲した竹刀が逆反りになった。

 声を出す間もなく白目を剥き、金髪トサカは膝から崩れ落ちる


「―――なにしとんじゃオメェあ!」


 襟足異様が動き、女子生徒の左頬に向けて右拳を放った。隣で崩れ落ちた金髪トサカを見てから行動であったが、十分に素早い動きであった。

 ―――ゴツリという音を立て、女子生徒の左頬に襟足異様の右拳が食い込む。しかし悲鳴は上げることなく、笑みすらこぼした。


「効かない。生身の人間ではね」


 女子生徒の湾曲した竹刀が、襟足異様の右脇腹に向かって、襲い掛かった。右斜め上に斬り上げたのだ。


「―――ぐッ!」


 襟足異様は湾曲した竹刀を右脇腹に喰らい、その場に崩れ落ちる

 女子生徒は素早く反転し、湾曲した竹刀の切っ先を、オール黒ジャージの眼前に突き立てた。


「‥‥‥狩らせてもらうわ。その『カワイガリ』を」


 女子生徒と龍崎は横並びになり、正面にはオール黒ジャージがいる。

 オール黒ジャージ睨み利かせ、犬歯がむき出しにするようにして口を開いた。


「犯すぞ!このクソ女!」


 オール黒ジャージは右手で湾曲した竹刀を払い除け、左の拳を放つ。ノーモーションから繰り出されたジャブであるが恐ろしく速い。

 女子生徒は頭を後ろに引き、鼻先すれすれで拳を避ける。女子生徒の髪が数本ちぎれ飛び、オール黒ジャージの拳の風圧が、女子生徒の髪を撫でた。


「無駄。アナタでは私に勝てない」


 女子生徒は右脚を上げ、オール黒ジャージの腹を蹴り上げる。爪先は天に向かって伸び切っていた。

 オール黒ジャージは身体を丸め、よろよろ一歩二歩と後退する。吐き気に襲われているのか、口から舌先を覗かせていた。

 女子生徒は右脚を勢いよく踏み下ろし、湾曲した竹刀をオール黒ジャージの左肩に叩き込む。

 女子生徒の右足が地面に接地した瞬間、アスファルトが飛び散る。

 湾曲した竹刀を左肩に喰らったオール黒ジャージは、押し潰されるようにして、うつ伏せに倒れ込んだ。


「所詮は『高2病』と言ったところね。まあでも、『カワイガリ』には変わりないけれど」


 女子生徒は残心の状態を崩し、日本刀についた血でも払うかのようにして、湾曲した竹刀を振った。

 そんな光景を龍崎は、口を半開きにしたまま眺めている。いきなり燃え出したかと思えば、目にもらぬ速さで不良4人を倒してしまった女子生徒。人間離れした――いや、人間の動きではない。


「……あんた……いったい……」


 龍崎が囁くようにして喋ると、背を向けていた女子生徒の身体がピクリと動いた。それから少し間を置いて女子生はクルリと反転し、龍崎に身体を向ける。


「あ、キミ大丈夫? 殴られそうになったからスッゴイ怖かったでしょ! 体ビクってして! スゴイ面白い顔をしてたよ!あはは!」


 身体を龍崎に向けた女性生徒はそんなことを言って「あはは」と笑い出した。

 だが龍崎は笑えない。


「いや……お前。それ、その………」


 諸々の事態を呑み込めない龍崎であったが、それでも頭を働かせ、意識を女子生徒に向ける。と、そこで龍崎はあることに気が付く。

 女子生徒の纏っている衣装に見覚えがあったのだ。いつだかテレビで見た、何十年前の映像の中に映る、セーラー服に地面まで伸びたスカート丈を纏った女。その昔、女版の不良と呼ばれていた存在。そんな女がしていた恰好と、眼の前の女子生徒の恰好が似ているのだ。だからこそ龍崎は呟かずにはいられなかった。


「…………だせぇ」


 すると女子生徒は「っえ?」と顔を前に突き出した。


「だっさ‥‥‥え? 絶対ウソ! これ凄くカッコいい!?ほら!」


 女子生徒はスカートつまむようにして持ち上げ、クルり回ってみせた。袴のようなスカートが遠心力によって膨らみ、布地をふっくらと浮かび上がらせる


「ほらカッコいいでしょ?! 黒と赤の組み合わせ。どうかな?」

「……いや、ダサい。なんだその恰好。なにか?……お前も不良なのか?」

「不良? あはは! 変なこと言わないでしょ! 超可笑し! 私不良なんかじゃないよ~」


 女子生徒は極わずかに唇を尖らせる。ギリギリぶりっ子に見えない絶妙な匙加減であった。

 (…………やべぇ)

 瞬間、龍崎の身体がブルりと震える。色々と理解ができないことがあったが、眼の前の女子生徒と関わるべきではないと直観的に理解したのだ。女子生徒が見せた笑顔で確信した。怖い人ではなく危ない人。

 龍崎は熊に出会ったときのようにゆっくりと後ずさりを開始する。


「えっと‥‥‥ど、どこのお嬢さんか知りませんけど……」

 すると女子生徒も前身を始める。

「さっき絡まれていたのが私だってば! すぐに忘れるとか酷くない?!」

「いや、そりゃわかるんですけどね‥‥‥。てかなに?なんで近づいてくんの?」

「大丈夫だって。何かするつもりなんてないから。だからこっち来てよ。危なくないよ!」


 と言ってニコリと笑う女子生徒。

(あ、コイツはやべぇ女だ)

 背中を冷たいモノが駆け抜けるのを感じる龍崎。自分で自分の事を危なくないと言っている人間が、まともであった試しなどな一度もない。4人の男を一瞬で叩きのめし、昔の不良の服装をカッコイイと褒め、武器を持って「こっちにおいで」などと言う輩にロクな人間はいない。   

 むしろ、相手をボコボコにする、不良的な服をカッコイイと言う、武器を持っているという3点で考えれば、地面に転がっている男4人とどれ程の違いがあると言えるだろうか。

(違げぇねこいつは不良狩ってやつだ。ボンタンをかっぱらっていく輩だ)

 その間にも龍崎は後ずさりをして、女子生徒は前に進む。

「ああは!なんかスッゴい話しかけたくなる顔している!てか、地面に転がっている男と同じ匂いがするね! キミも不良なの?!」

「いや、いやいや!まったくそんなことはありません。俺は不良もヤンキーも大嫌いなんです。いや全くホントに!」

「でも男の子ってこういう服が好きでしょ!? 真っ黒で鎖がジャラジャラついてる感じ。中学生の憧れたでしょ? 黒歴史……って言うんだっけ?」

「あんた不良と中二病を混同してんだろ!」


 と、その時。龍崎の動きが止まった。パッと肩越しに振り向くと、そこにあったのは灰色をした民家の塀。後方を確認することなく後ずさりしたため、いつのまにか体が斜めに向いてしまい、堀がぶつかってしまったのだ。

(……やっべ)

 龍崎がパッと顔を前に向けると、そこには女子生徒が立ち塞がっていた。


「ねえ! キミ名前なんて言うの? あ……そっか!自分から名乗るものだよね! 私の名前は浮舟涼香うきふね すずかって言うの! 涼香すずかでいいよ!」


 浮舟涼香うきふね すずかと名乗った女子生徒は、グイと龍崎の顔を覗き込む。

 すると龍崎の鼻をサボン系の香りがくすぐった。目の前には可愛らしい顔。どこまでの屈託のない笑顔。


「で? 名前はなんて言うの?」

「あ?あー……あー、……龍崎鉄五郎」

「うそつかないでよ! そんな古臭い名前、今時あるわけないじゃん! も~イジワルしないでよ~」


 涼香すずかが「あはは」と笑えば、龍崎りょうざきも「あ‥‥‥はは」を乾いた笑い声を出す。だが彼は名前など名乗りたくなかった。こんな状況でも自分の名前だけは名乗りたくなかった。名乗ったその後、なにが起こるか知っているからだ。


 が、そこで。龍崎は視界にあるものを捕らえ、息を飲む。涼香の背後。地面に伏していたオール黒ジャージがゆっくりと立ち上がり、涼香に向かってタックルをかますような姿勢になりつつあったのだ。

(この女を襲わせて逃げりゃいい)

 直後、龍崎は身体を投げ出すようにして真横へ転がる。その動きに迷いはない。逃げ続けてきた経験の賜物であった。しかし。


「げっ!」


 龍崎の足先が涼香のスカートの裾に引っかかり、そのままめくれ上がってしまったのだ。すらっとした生足が露わになり白い肌が露出する。


「ちょっと! もう変態!」


 涼香すずかはスカートに引っ張られるようにして、龍崎が転がり込んだ方向へ歩き出した。つまりオール黒ジャージの軌道上から涼香が逸れたのだ。


「あ!クッソ!この女!」


 龍崎が叫んでみるが遅かった。

 涼香の背後にいたオール黒ジャージは、タックルの勢いそのままに塀に激突する。そしてオール黒ジャージは塀を突き破ってしまった。


「――なっ」


 龍崎は体勢を立て直し、すぐさまオール黒ジャージに視線を向ける。

 塀から身体を抜いたオール黒ジャージは、ブルんと身体を揺らした。眼は血走り、頬の肉が裂けるかというほど口角を吊り上げ、涎を垂らしている。猛獣じみた、顔である。

 龍崎は全身が強張るのを感じた。人間がコンクリート製の堀に激突して、それを突き破る。そのあと何事も無かったかのようにして立ち上がる。そんなことあるはずがない。頭からコンクリ―トに突っ込めば無傷でいられるはずがない。

 龍崎はチラリと涼香に視線を向けると、顔色一つ変えることなく湾曲した竹刀を肩に担いでいた。


「あれ?浅かったのかしら」


 と、その瞬間。


「女に振られたんだよおおおおおお!」


 オール黒ジャージが駆け出し、涼香すずかの脇をすり抜ける。


「嘘だろ!」


 龍崎は突っ込んで来るオール黒ジャージを眼にする。そのスピードは人間が突発的に出せる速度ではない。


「くっそ!」


 龍崎はとっさに横方向に飛び、オール黒ジャージをスレスレで避けた。

 オール黒ジャージの右腕が塀をぶち抜き、ガラガラと音を立て崩れ、灰色の粉塵が舞い散る。

 龍崎はオール黒ジャージから距離を取るべく後ろへ飛ぼうとした。だが、強張った筋肉は言うことを聞かず、よたよたと後ろに下がるのが精一杯であった。理屈も常識も考える暇がなかった。ただ直観的に、オール黒ジャージの攻撃を受ければ、確実に大けがをすると感じ取ったのだ。

 塀から右腕を抜き取ったオール黒ジャージが、龍崎を睨む。

 龍崎は歯を食いしばり、オール黒ジャージに視線を向ける。視線は反らすという選択さえない。

 と、そこで。


「あらスゴいのね。生身の人間でここまで反応できるなんて」


 涼香すずかはそう言いながらオール黒ジャージの背後に近付き、湾曲した竹刀を振り上げる。


「まあでも。『高2病』の『カワイガリ』であっても『スレイヤー』でなければ相手にならないの……っよ!」


 涼香は振り上げていた湾曲した竹刀を、オール黒ジャージの頭に打ち下ろす。


「ぐぶっ!」


 頭に湾曲した竹刀を喰らったオール黒ジャージは、よろよろと身体を反転させ、涼香に向かって突っ込む。


「女ああああああああ!」

「はいはい。そのうち素敵な出会いがあるわ」


 涼香すずかは回転するようにしてオール黒ジャージのタックルを躱す。遠心力をそのまま湾曲した竹刀に乗せ、横並びになったオール黒ジャージの背中に叩き込んだ。

 オール黒ジャージの背筋がピンとまっすぐに伸び切り、それから前方に1歩2歩と歩き、そうして地面に倒れ込んだ。


「‥‥‥お前」


 龍崎がそう言って涼香を見ると、涼香も視線を龍崎に向けた。


「あれは『カワイガリ』って呼ばれる化け物よ。それで……」


 倒れているオール黒ジャージの首元から、涼香はなにかを取り上げ、龍崎に見せる。

 涼香の手に握られたソレを見て、龍崎は息を飲む。ドロドロとした青色の流動体。ねばねばベトベトとした粘着質なソレ。何事に言い表しがたい難いソレ。

 涼香は手に持ったソレを何度か握り込み、もてあそぶ。その度に押しつぶされるようにして形を変えるが、加えられた力が無くなると、元の形へと戻っていく。


「これが『カワイガリ』の大本。で、そんな『カワイガリ』を狩るのが私たち『スレイヤー』と呼ばれる存在。ま、正義のミカタってほど良いものでは……あ」


 突如涼香はハっとした顔になり、眼を泳がせはじめる。


「……とでも……言うっていうか……そう私は正義の味方なの! ビックリしたでしょ!」


 と言って「あははは」と屈託なく笑う涼香。

 だが龍崎は眉を顰める。


「……いや、ん? なんだ? 色々訊きたいけどお前なんか口調が――」

「えー……え? ……口調? もうなに言ってるの龍崎くん! 変な人だね!」

 涼香は身振り手振りを繰り返す。

「とにかく私は正義のミカタみたいなもの!信じてくれた?」


 と明朗快活に喋り、嘆願するような視線を龍崎に送る。

 すると龍崎は涼香の顔をジッと見てから、


「……へっ」


 と、小馬鹿にするように笑った。この世の中には『カワイガリ』という化物がいて、『スレイヤー』とはそれを狩る存在である。目の前で起きた現実離れした現象。なーにが正義のミカタだ。というよりなんだその猫被りは。

 龍崎はそこまで考えてから一つの結論を出す。

(なるほど‥‥‥コイツは可哀そうなヤツなんだ。頭が)

 だからこそ適当に話を合わせて、頃合いを見て逃げてしまおうと龍崎は決めた。それにヘタをすればそのうち警察がやってきて、またしても赤楚の部屋にぶち込まれる可能性がある。だがそれだけは何としても避けたかった。自分の人生が掛かっているのだ。


「もういい。なにも言うな。分かったよ。『スレイヤー』とか『カワイガリ』とか全部わかった。あと。で、お前は猫被り。その外ズラの良さは鎧みたいなもんだろ。わかった。わかった」

「だからホントに違うってば! もう馬鹿にしてるの?!」

「……いや、そろそろ限界って気づけよ」 


 龍崎はそう言って可哀そうなものを見る眼を涼香に向けた。

 すると涼香はしばらくニコニコと笑みを浮かべていたが、なにかを諦めたかのようにスッと顔から笑みを消し、「ヘッ」と短く笑ってバツの悪そうな顔をした。


「そうね……私としたことがとんだヘマをやらかしたものね。別にアナタみたいな人間に私の本性を知られたところで問題は……ない、こともないけれど、まあいいわ」

「……そっちが本性なのな。お前」

「うるさい。これ着て闘った後は気が抜けるのよ。アナタには分からないでしょうけど」 


 涼香すずかは制服のような衣装の胸元を摘み、ちょいと持ち上げ、龍崎に誇示するようにして見せた。

 龍崎はヘンテコな制服のような衣装を見てから、ついでに涼香の胸元にも視線を向ける。

(つつましい胸だな)

 と、そこで涼香は小さき咳払いをする。


「まあいいわ。で、アナタの名前を教えてくれるかしら? 私、自分が払った対価と同じか、それ以上のものが手に入らないと気が済まないタチなの。ほら早く」

「……へぇ、はぁ。そうなんですか。で、名前……でしたっけ? あ、でも俺の名前は寿限無なみに長いから教えたらそれだけで一日が終わりますよ? まあそれでもいいですけど……あ、待った。駄目だ。ダメ。家で帰りを待っている妹がいるんですよね。いやこれがカワイイ妹でして。兄貴にベッタベタ、俺がいないとダメなんですわ。まあ名前を名乗るほどの者でもございませんし。それじゃ」


 龍崎はサラッと言ってからきびつを返しその場を後にしようとする。

 が、しかし。

 龍崎は脇腹に堅い感触を感じ、ピタリと身体を止め、首を動かして自分の脇腹を見る。そこにはあったのは湾曲した竹刀の切っ先。

 なれば龍崎は半笑いを浮かべ、ゆっくりと涼香の方向へと向き直る。脇腹に当てられた湾曲した竹刀が意味することだけは理解できた。

 すると涼香は眼が笑っていない笑みを浮かべる。


「兄妹仲が良いってのは羨ましいわね。ところでお名前は? と聞いているのだけれど。龍崎寿限無さん?」


 そんな涼香の言葉に溜息を吐き、覚悟を決める龍崎。逃げられないのだから仕方がない。


「‥‥‥あの…‥‥笑いませんか?」

「……笑う? いったい何の話をしているのかしら?」

「いや、だから俺の名前」

「そんなの当たり前でしょう。人の名前は笑っていいものではないわ。もし笑ったり、その名前を嫌ってもいいとしたら、それは自分だけのはずよ」


 涼香は唇を固く引き結んだ。

(まあコイツは…‥大丈夫だろ)

 龍崎はガラにもなくそんなことを思った。涼香がそんな考えを持っているのであれば、少なくとも笑われるようなことはないだろうと。


「じゃあ言いますけどね…‥‥あの、笑わないでださいね?」

「分かってるわよ。笑わない。それともアレなのかしら? 笑って欲しいというフリ? 爆笑すればいいのかしら?」


 涼香はクイと顎を動かした。

 龍崎は促されるようにして唾を呑み込み、唇を舐めてから、スッと息を吸い込み口を開く。


「‥‥‥ひゅどら、です」

「――――ん?」


 涼香の動きが止まった。顔も腕も足も、身体のどの部位も動きを見せない。

 むろん龍崎はその含みを持った涼香の「―――ん?」の意味は理解している。名前を聞き返されるなど頻繁に経験しているからだ。


「ひゅどらです‥‥‥ヒュドラ。龍崎ヒュドラ」

「そっ‥‥‥そう。ひゅっ、ひゅどらくんって言うの」


 涼香の口角が極わずかに動いた。


「えっと‥‥‥どんな漢字を書くのかしら」

「……難しいほうの漢字の『ひ』に」

「ほむらって読む『焔』に?」

「メスオスの『オス』を音読みにして『ゆう』」

「雌雄を決するとかの『雄』ね。はいはい」

「動物の『とら』」


 龍崎はそう言ってから涼香の顔ジッと見ると、頬をピクピクと動かしていることを知った。


「……それでヒュドラ?」

「はい‥‥‥それで焔雄虎ひゅどらです」


 そう龍崎が言った瞬間。涼香は笑い出した。背中を丸めるほどに笑い出した。目尻に大粒の涙を浮かべ、笑いが収まったかと思うと顔を上げ、龍崎の顔を見るなり噴き出す。


「え? え? ホントに! ほんとにヒュドラって名前なの? 焔雄虎なの? あはは! あー可笑しい! お腹痛い! 嘘でしょ!?」

「嘘ならもっとマトモな嘘をつくだろ。偽名にしてもわざわざヒュドラって名前をつけるか? つけねーだろ」

「あははは! やめてお腹痛いから! あはは! ほんとヤメテ! あははは!」

「……ひゅどら」


 龍崎が最後に自虐的にポツリと呟くと、涼香はついに笑い声を出せないほどに笑った。


 そんな彼女の姿を見た龍崎は思わず苦笑する。ここまで自分の名前を笑われたのは初めてあった。人に名前を名乗った場合、微妙な空気になる経験しかなかった。

 その後、涼香はいつまでも笑い続け、ようやく笑いが引いた辺りで涙をぬぐった。だが龍崎の顔を見ては吹き出しそうになっている。


「ごめんなさい。まさかそんな名前の人が実在するなんて……ふふっ……思ってもみなかったから。でも気にする必要なんてないわ。どんな名前でも自由なはずよ」

「……あれだけ笑っておいてよく言えるな。性格どうにかしてんぞマジで」

「ところでヒュドラくん‥‥‥なぜそんな愉快な名前なのかしら?」


 涼香の眼に好奇心半分からかい半分の感情が入り混じっているのを龍崎は見逃さない。だが、もうそんなことはどうでもよかった。適応に話を合わせ、この場から立ち去ってしまいたかったのだ。


「知らねーよ。親が適当に名付けだけだ。意味なんてねぇよ。‥‥‥てかヒュドラって呼ぶのやめろや」

「あら、いい名前じゃないヒュドラくん。ギリシャ神話に登場する怪物だったかしら? 最後には星になってしまうのよ。ウミヘビ座。知っていた?」

「だろうな、ゲームとかに登場する……おい、俺が死んじゃうみたいじゃねーか!」


 と、そこで涼香は顎に手を当て、ジッと龍崎を見据えた。

「つまりアレなのね。キラキラネーム……っていうものかしら。でもヒュドラくんにはどうしようもなかったことでしょ? だったら気にする必要もなんてないわ」

「いや気にするもなにも……まあそうだけどよ。つか、キラキラネームってつまりは―――」


 と言いかけて龍崎は言葉を飲む。ついつい、

 (あのクソ親の責任だよな)

 と言ってしまいそうになった。が、そんなことを言っても意味はないと龍崎は知っている。どうせそんな事を言えば「親を憎むなんて普通じゃない」などと言われるのがオチ。だから言わない。自分が抱えている痛みを他人に話したところで意味などない。


 すると涼香はそっと龍崎から視線を外し、どこを見るでもないような眼をした。


「―――というより気にするだけ無駄ね。どうしようもないもの。それにアナタの場合……言ってしまえば親御さん責任。まあこんなこと言ったら『親を憎むなんて』って言われるのがオチでしょけど。知っているからしら? どうしようないことで悩むと、化物が湧き出るのよ」


 涼香はそう言うとケタケタを笑い出し、左手に持っていたカワイガリを何度か握った。

 そんな涼香の姿に龍崎は眉をひそめる。涼香は笑っているにも関わらず、その顔が少し寂し気であるように見えてしかたなかった。

 と、そこで涼香はニコリと可愛らしい笑みを浮かべる。


「ところでヒュドラくん。さっき駆け抜けて行った女の子、知り合いなのよね?」

「ん?駆けて行った女‥‥‥誰だ?」


 龍崎は首を傾げて浮舟を見た。駆けて行った女など、記憶になかったのである。

 すると浮舟は小さく溜息ついてから、竹刀を肩に担いだ。


「だからさっきの女の子よ。ヤンキー中学生2人に追われてたあの子。『死ね!このクズ!』って言ったのもあの子でしょ?」

「死ねクズ‥‥‥あ! 一ノ瀬いちのせの野郎! 絶対に許さねえ!」


 龍崎りょうざきの心にメラメラと怒りの炎が湧き立った。人に見捨てられた程度で、見ず知らずの他人を罵倒するなど、なんてクズな女なのであろうと思ったのだ。おかげで酷い目にあったのだ。

 すると涼香すずかはなんとでもないような顔、なんとでもない口調で、こう言った。


「で、ヒュドラくんはその一ノ瀬さんを助けることになったのよ」

「……なに言ってんだお前」


 涼香は左手に握ったソレに眼をやる。


「あの子に『カワイガリ』が湧いている」

 龍崎にはますます意味が分からなかった。

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