【短編3,412文字】匂い

江戸川台ルーペ

両眼の南、左耳の西

「うなぎ、食べなさい」

 母が言ったので、私は箸を持って、いただきますと声を発した。


 三年ぶりの実家は、どこかの原っぱに打ち捨てられた持ち主を待つ自転車を思わせる。私が使っていた机、秘密を隠した引き出し、埃を被ったままの本、置き去りにしたままの角度で、全てが私を向いている。しんとしたかつての自部屋は南からの光が、何百、何千、何万回と照らした部屋を変わらずに撫でる。


 仏壇がある部屋は、長い年月の間に何万本と線香をくゆらせた結果として、エアコンは真っ茶色に変色し、部屋全体から年季の入った線香と埃の匂いがする。かつて苦労して組み立てた私の身長程ある大きな本棚は、もう中身も覚えていない本や、遊び方も思い出せないボードゲームがギッシリと積みこまれ、その背表紙を変色させている。まるで記憶の棺桶のようにも見える。


 私は幽霊を見たのかも知れない。


 そう思ったのは、十八年前の夏だった。

 私の母はある宗教の熱心な信者であり、私も生まれて間もなくその宗教に入信させられた。物心が付く前から、毎日、毎朝毎晩、熱心にお経を唱える母を見ていた。ある時は同じような所作をやらされた事もあった。それは全くもって、疑い無く、人として正しい事として母から教わった事だった。


 当時の私にとって、それが正しいか、あるいは正しくないのか、その判断は出来なかった。ただ私がそこから見たのは、目に見えない何かを信じる人の姿だった。数珠を持った手を合せ、目を瞑って一心に祈る。口からは毎日繰り返した仏様への言葉が複雑なリズムと音調で流れ出る。父は特にそうした物事に興味を示さなかったが、熱心にお経をあげる母に対して文句を言っているところは見た事がなかった。


 私はある日、意を決してもうそのような事とは縁を切ると断言した。神や仏がいるのだったら、どうして我々はこのような悲しい目に合わなければならないのか。生きていく上で神や仏に頼っていく事はつまり、信者ではない他人の不幸を願い、「ほら見たことか」と指を指す準備であり、相対的に自らやその親族の幸せを獲得する為の弱さそのものなのではないか。


 上手く言葉に出来ないもどかしさもあって、激しい口論にもなった。だがそのお互いの主張は平行線のまま、決して交わる事はなかった。目に見えない何かについての議論は煙を掴むようなものだった。手を伸ばすと形を変え、消えていってしまう。預金通帳のように2か3で割り切れる数字が記載されていれば、まだ話は早かっただろう。


 でも、今になって思うことは、そこで重要だったことは、その宗教について、私は決して否定しないというスタンスを堅持した事だった。私はもう二十歳を超えていたし、その存在を否定する事は、幾ばくかの自分自身を否定する事に繋がっていることを意識しない訳にはいかなかった。記憶が人を作るとして、その記憶が積み重なる礎のようなものの一部を、私はその宗教に明け渡していた。未だ目が覚めぬ未明の内に、まるで最初からそこがお前の記憶の、魂の集積場所なんだよ、という風に。


 十八年前のその日、宗教の集会が実家で開かれて、大勢の信者が仏間に集まった。そう広くはない部屋ではあったが、ぎゅうぎゅう詰めになる程の盛況ぶりだった。私は既にそうした当たらず触らずのスタンスであったので昼過ぎに起き、トイレに行く途中、襖が開いていたところで中の人と目が合ってしまった。


「こんにちは」

「こんにちは」


 私はその集いの主催者の息子でありながら出席しないバツの悪さも手伝って、少し明るめに挨拶をした。中を覗くと、部屋中央に正座している中年の女性の両隣におかっぱの女の子が二人立っていて、私をじっと見ていた。私自身も、こうした年寄りの集いに子供として出席する辛さを経験していたので、特に印象に残った。でも、二人いるのなら遊んで時間が潰せるだろう。恐らく双子ではなかろうか。それから私は、「ごゆっくりしていって下さい」とか何とか適当な事を口走ると、隣のトイレに入って大きな音を立てて小便をし、自部屋に戻った。


 その夜、食卓で母と兄弟で晩御飯を食べる時に、

「ああいう集いにさ、小さい子供がいると、本当に気の毒になるよね」

 と何気なく呟くと、

「子供?」

 と母と兄がキョトンとした顔をした。


「子供なんかいなかったぞ?」

 と兄が言い、母も真剣な顔をして

「どんな子供だった?」

 と聞いてきた。


「いや、よく似た顔をした女の子で、おかっぱで、小学校に入るちょっと前くらいの……」


「それ、絶対幽霊だよ」

 と兄が笑いながら言った。

「良かったな、珍しいの見れて」

「ちょっと、怖い事言うのやめなさいよ。どうせ寝ぼけてたんでしょう?」

 母がたしなめる。

「それよりあんた、なんであんな大きな音立てておしっこするの。恥ずかしいったらありゃしなかったわよ、まったく」


 そうだったかな?、等ととぼけながら、幽霊という言葉についてしばらく考えた。あれは本当に私が見たものだったのか? それとも、前日の徹夜の疲れから、何かしらの白昼夢を彷徨っていただけだったのではなかったか?


 記憶はいつも不分明で不明瞭だ。

 でも、目を閉じて思い出してみても、やはり二人の女の子が一人の正座をしている女性を挟んで立ち、一人は肩に手を置いて、もう一人はその隣でただあどけなく僕を仰ぎ見ていた。少しはにかんでいたようにも思えるし、日本人形のような切れ長の無表情であったようにも思える。無表情だったら、無愛想な子だなと記憶に残る筈だから、恐らくうっすらと微笑んでいたのだろうと思う。だって、退屈だったら私の部屋にあるゲームで遊んでもいいよ、と言ってあげたくなる程だったのだ。敵意は無かったように思える。


 鰻を食べる。

「本年度の鰻の漁獲量は昨年比百分の一と低位に推移し、やがて絶滅危惧種として認定される日がやって来るかもしれません」

 そんなニュースを思い出しながら、柔らかなふっくらとした身に箸を入れ、大切に一口ずつ運んでいく。壁には甥が描いた絵や、姪が折った折り紙が貼ってある。来るたびにその数が増えていく。ビールを飲みながら、そういう家族の話や、思い出話をする。幽霊の話はしない。すると、アルコールが回って、いささか眠たくなって来る。


「ちょっと寝て行きなさいよ」

 母が眠そうにしている私に向かって言う。

「兄はしょっちゅう甥と姪を連れてきて、自分はとっとと二階の部屋で寝てんのよ。本当にあたしに全部おまかせしちゃってさ」

 嬉しそうな愚痴だ。


 私は一瞬誘惑に駆られるが、思い留まる。兄と同じベッドで寝るのもどうも気が進まない。


「いや、帰るよ。明日も仕事だし、こう暑いと体力がもたない」

「年寄りみたいなこと言って」

「もう歳だよ。四十だぜ、よんじゅー」

 それからまたしばらく、雑談に興じた。我々は長い年月を掛け、ある部分では和解したのだ。


 時計が夕方に近い三時を回って、駅までのバスの時刻を調べた。

「じゃあ、そろそろ行くわ」

「気を付けてね。また連絡するから」

 ん、わかった、等といつものやりとりをして、バス停に一人で向かった。別れの際は、いつもぎこちなくなる。手を振って、曲がり角の先にあるバス停に向かう。


 時間通りの、夕暮れの時間帯のバスは実家の脇を走る。私はバスの窓際に座って、何気なく自宅を眺める。ちょうどバスが通る大通りに仏壇の部屋の窓が向いている。そこは日陰になっている。


 窓が少し開いている。

 おかっぱの女の子二人が重なるようにして、その隙間の暗闇から無表情に私をじっと見下ろしている。その下で、家の前まで見送りに出た母が微笑んで私に手を振っている。バスはスピードを上げてそのまま信号を左折する。夕日が窓に差し込んで、私は眩しさに目を細め、声も出せないまま、重たいバスのモーターの唸りでその終点に運ばれて行くことを知る。



 埃と線香の煙、それらを強く結びつけた南からの光が、ずっと私の鼻腔を捉えて離さない。実家の匂い。もしかしたらこのままこびりついて、一生元通りにならないかも知れない。呼吸をする度、脳裏に浮かぶのは幽霊と、未明の内に魂の場所を明け渡していた私自身。あまりにも匂いが不快で、レーザーで鼻の粘膜を焼き切るイメージをする。二度と匂いを感じられないように。


 どこかに放置された、真夏日の光線に照り尽くされる哀れな自転車の事を思う。どうしてそんな事ばかり考えてしまうのだろう。私はいつか、それを迎えに行かなくてはいけない。



(終わり)




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