六章:電脳の向こう側へ 2



「――ノスタルギアとは、広大になった電脳空間、ひいては肥大化した電脳ネットに対して、特定のコードを持つ《電脳義体》が、条件を満たすことで引き起こす空間干渉現象によって繋がった別次元に存在する都市のことだ」


 姫宮の運転する車の後部座席に並んで座っていた九角が、徐にそう話し始めた。


「別……次元」

「異世界。いや――透莉の話から照らし合わせれば、恐らくは俺たちの世界とは異なる歴史を歩んだ並行世界パラレルワールドというのが妥当だろう」

「一応聞くけど、貴方の脳内妄想フィクションの話じゃないのね?」

「残念ながら、希望に添えない」


 運転する姫宮の追及に、九角ははっきりと否と説く。


「それらはとある電脳学者が十年以上昔に発見していた。彼女が最初なのか、あるいは世界がそれをひた隠しにしているのかは不明だが、彼女はノスタルギアを行き来するための鍵となるコード――《バルティ・コード》を解析し、往復用のプログラムを開発したんだ」

「《バルティ・コード》……」


 耳慣れない言葉だが、どうしてだろか。何故かその言葉を耳にするのは初めてではないような気が、透莉にはした。むしろ懐かしさすら覚えることに、思わず窓の外に視線を映して悶々とする。


「そして――意識不明者は皆、この《バルティ・コード》の保有者ホルダーだった」

「――だった?」


 聞き返す姫宮の科白に、九角は鷹揚に頷く。

「そう。現在、完全意識不明者の《バルティ・コード》は消失ロストしている。まるですっぽりと抜け落ちた様にな。そして、《バルティ・コード》を調べていたことで、あんたの依頼とも繋がりがあることが判った」


 そう言って、九角が僅かに手元を動かした。恐らく自身の《電脳視界》に表示されている電脳情報を操作しているのだ。

 と同時に、透莉たちの《電脳視界》にメッセージがポップアップする。


「姫宮の依頼で調べていた電脳ドラッグ。これの用途が判った」

「貴方、前に解析したときは何の問題もないって言ったなかったかしら?」

「ああ。電脳ドラッグとしては何の問題もない。だが、それはこれがドラッグではなくウィルスだったからだ。しかも一見して悪性じゃないから、検知されない。実に巧妙だったよ」


 そう言う九角が、僅かに眉を潜めたのを見た。恐らく初見で見抜けなかったことが悔しかったのだろう。

 彼のそんな反応に微苦笑する透莉を余所に、九角は説明を続けた。


「これは《電脳義体》の構築コードを書き換えて、後天的に《バルティ・コード》を発生させるプログラムなんだ。勿論、成功率は低い。作った奴は、成功したら儲けもの程度に考えていたのかもな」

「……なるほど。だから電脳ドラッグとして売り捌いたのね。数を増やすために」

「あ……」


 此処に至って、透莉はようやく話の流れを理解した。どうして九角が唐突に電脳ドラッグの話をし出したのか。


「――そう。《バルティ・コード》の存在。透莉の言っていた、仮面の男が求めていた十二の贄の話。それらを聞いて、ようやく話は繋がった。仮面の男は、《バルティ・コード》の保有者を必要としていたんだ。そのために、この電脳ドラッグという名のウィルスを拡散した。成功すれば《バルティ・コード》保有者が誕生する。失敗しても損はない……デメリットはせいぜい成功率の低さだけだろう」


 なるほど。九角の説明は十分納得がいくものだった。だけど同時に、ひとつだけ疑問があった。


「でも待って。ノスタルギアは、蒸気機関の発展した世界だ。どうやったらこんな高度なプログラムを作れる?」

「……協力者がいる。それも、かなり電脳プログラムに精通した者がな」


 透莉の疑問に、九角は即応する。

 その言葉に、透莉はおろか、運転していた姫宮も驚愕に目を剥いた。そんなこと考えもしなかった透莉にとって、九角の話は衝撃的だった。

 確かに、言われてみればその通りだ。九角の話の通りであるならば、《バルティ・コード》さえあれば、こちら側の人間はある程度意識してノスタルギアに干渉することが出来るのだ。ならば、その逆も決して不可能とは言えないだろう。

そういった者たちが何らかの意図を持って邂逅し、双方にメリットを得られると考えたならば――相互協力という可能性は決してゼロではない。

 だから、


「だとしても、誰がそんなことをするのよ?」


 姫宮の問いに、透莉も頷く。

 それだ。

 協力者がいるとして、その人物は何者で、そして――何が、目的なのだろう。

 九角はそのことをどう考えているのか。彼の意見を求めるように、二人の視線が紅衣の青年に注目する。しかし、当の本人は小さく鼻を鳴らして首を横に振った。


「こればかりは見当もつかない。件の仮面の男の目的が判れば話は別だが……今は無視していいだろう。俺たちが今するべきことは別――完全意識不明者の回復だ。そのためには、どうしたってノスタルギアに行く必要がある」


 そういうと、九角は唐突に何かを投げてきた。透莉は慌ててそれを受け取る。

 手の内に収まったのは、小さな情報端末だった。


「中に、ノスタルギアに接続するためのプログラムが入っている。インストールしておけ」


 淡々と告げられた言葉に、思わず頷きそうになり――一瞬ののち、半眼になって九角に問う。


「あれ……僕が行くの?」

「他に誰がいる?」


 さも当然という風に九角が言った。透莉は慌ててかぶりを振る。


「いやいやいや。九角は? 君は行かないの!」

「適材適所。この状況下において、まさか何もしないなんて言うつもりはないだろう? となれば、すでに何度もノスタルギアに赴いているお前が適任だろう」


 愕然とする透莉を余所に「ホント、お前が病院に来てくれて助かったよ」と、九角は悪辣に微笑んで見せた。

 ミラー越しにこちらを見ていた姫宮が「うわ、悪党……」と呟いたのが聞こえた。本当に、心の底からその通りだと、透莉も胸中で同意する。

 だが正直なところ、九角の話は渡りに船だ。

 嫌そうに言ったものの、実のところ断る気持ちは微塵もなかった。響の状況を聞いた瞬間、透莉はもう一度ノスタルギアに行くつもりでいたのだから。


「……でも、九角そんなものいつの間に作ったの?」

「俺が作ったわけじゃない。俺の師、ベアトリーチェ・バルティが作ったものだ。最初は興味本位で。その後は娘を救うためにな……それをサルベージして、俺が少しばかりアレンジした」

「ベアトリーチェ・バルティ……それって」


 電脳技術に携わる者。そうでないものであっても、誰もが一度は耳にしたことがあるであろう名前だ。

 天才電脳学者であり、透莉たちハッカーが使う解体術式を生み出した天才技術者にして、電脳時代始まって以来の大罪人。

 電脳テロ『クローム襲撃』の主犯とされる人物の名前。

 そんな人と、九角が知り合い――師弟の関係にあった?

 なんて、考えていた時である。

 

 ――なんという幸運。なんという好機。万全を尽くすために私自ら赴いてみれば……まさか、再び出会えるとは夢にも思わなかったぞ、バルティの娘よ!


 不意に、仮面の男の言葉が脳裏を過った。

 あの時、仮面の男は言った。確かにそう言ったはずだ。


 ――バルティの娘、と。


そう、言った。そう呼んだ。彼女を――アゼレアを!

ぞっと、背中を冷たいものが駆け抜けた。

どうして、このタイミングで思い出したのだろうか。

いや、判っている。

 今さっき、彼が――九角が口にした言葉のせいだ。


 ――ベアトリーチェ・バルティが作ったものだ。最初は興味本位で。その後は娘を救うために。


 娘を、救う。

(その娘って、まさか……っ)

 偶然、だろうか。

 名が――同じなんてことはあるのか。この時、この場所で? そんなことって、有り得るのか。

――どうか、勘違いであってほしい。縋るような気持ちで、透莉は九角を振り向いた。だが、隣の席に腰かける彼は、冷淡とも思えるような眼差しで迎えた。

(ああ……くそっ)

その目を見た瞬間、透莉は直感する。

 嫌な予感というものほど、よく当たるとは言ったものだ。


「師ベアトリーチェが救おうとしていた娘の名前は、アゼレア・バルティ。透莉――聞き覚えは?」

「……」


 その問いに、透莉は答えに窮してしまう。

 勿論、答えなかったところで意味はない。多分だが、透莉の質問は『問い』ではなく『確認』の意味合いのほうが強いのだろう。


「……透莉」


 名を呼ばれた。

 答えを促されている。僅かに強まった語気に込められた有無を言わせぬ気配に、渋々だが口を開いた。


「……あるよ。最初に、向こうに迷い込んだ時、僕は……彼女に助けられたから」

「ちょっと、グレンデル。それってどういうことよ? どうしてあのベアトリーチェ・バルティの娘が、異世界に居るの?」

「お前……本当は知りたいのか知りたくないのか、どっちなんだ」

「知りたくはないわよ。でも人間の好奇心って、駄目だって思うことほど知りたくなるものでしょ?」


 さもこの世の心理だとでも語る様子でそう答えた姫宮の様子に、九角は呆れて溜息を吐く。同時に、《電脳視界》にメッセージが再び届いた。


「そいつに目を通しておけ。少なくとも、その疑問の答えは判る」


 言われて、透莉は着信メールの添付ファイルを開いた。

 メッセージタイトルは『バルティ文書』と記されていて、ファイルの中にはテキストデータがあった。

 一瞬、透莉はそれを読むべきか悩んだ。

 脳裏に、何処か人を食ったような微笑を浮かべる、金髪黒衣の少女の姿が過ぎる。

 出会った回数は僅かに二回。

 だけどその出会いの最中、何度――思ったことだろう。

 何度、訪ねようと思ったことだろう。

 ――アゼレア。

異形都市に生きる女の子。

 その胸中に、輝く心臓を持つ少女。

 僕を、何度も助けてくれた黒衣の少女。


 ――君は一体、何者なんだい?


 それは、彼女の前で口にすることを憚られていた言葉だ。

 本来ならば、出会って最初に口にするべき言葉である。機会を逸した後も、訊ねる機会は幾度かあった。結局、実行することはなかったけど。

(訊いておけば、よかったのかな……)

 なんて風に考えもするが、それはあり得ないことだ。すでに、事態はその段階を疾うに超えている。

 もう一度、《電脳視界》に表示されるテキストデータを見据えた。

 胸の内で燻る逡巡を振り払い、透莉は意識操作を開始。

 テキストデータを開く。文章が表示される。

 透莉は真剣な面持ちで、そこに記されている文章の一文字一文字を刻むような気持ちで、目を通し始めた。


      ◇◇◇


 ――そして。

「用意はいいか?」

「大丈夫」

 九角の問いに、はっきりと応じる。

 電脳接続用の寝台に仰向けになって、薄暗い天井を見上げながら優先ケーブルを自分の電脳端子に繋いだ。

 場所は九角の自宅――その地下にある、彼個人の保有する電脳施設である。


「インと同時に、さっきインストールしたプログラムを起動させればいい。そうすれば、ノスタルギアに飛べるはずだ――理論上は」

「なにその保険みたいな言い方」

「実際、試験テストもなにもしてないものだからな。つまりはぶっつけ本番だ。幸運を祈る」

「……貴方、わりといい加減なのね」


 九角の無責任な言葉に、隣に立っていた姫宮が呆れた様子でそう言った。透莉もまったく同意見だった。嬉しくないけど……。

 二人揃って溜息を吐くが、諸悪の根源は無視して話を続けた。


「透莉。優先するべきは完全意識不明者たちの救出。あるいは回復にこぎつけるための手段を見つけることだ。で、それよりも優先するべきはお前の安全だ。他のことは二の次程度に考えておけ」

「りょーかい」


 透莉の忠告に対して、おざなりな返事を返す。すると、今度は九角が溜息を吐く番だった。彼は困ったように眉を潜めながら言う。


「お前、人の話聞いてないだろ?」

「聞こえてはいるよ? 聞く耳は持ってないけど」

「それじゃ意味ないだろう……」


 わざとらしく肩を竦め、おどけた調子でそう答えると、九角は辟易とした様子で天井を仰いだ。

 小さく失笑しながら、透莉は意識を電脳に傾け始めた――その、意識の片隅で考える。

 あの文書を見た。

 電脳史最大のテロリスト、ベアトリーチェ・バルティの手記を。

 そこに書かれていた文書は、透莉にとっては青天の霹靂に等しいものだった。

 ――もしも。

 この文書の内容が本当だとして。

 ――もしも。

 ベアトリーチェの娘と、自分の知るアゼレアが同一人物だとして。

 そうだとして――果たして、自分に何ができるのだろうか。

 文書を読んでから此処に来るまで、ずっとそれを考えていた。文書を目にしてから、ずっと何か、胸の中に引っ掛かっているものがあった。

 その何かが判らない。何かというのは判っているのに、その何かが思い出せない。いや、むしろ……忘れている?

 疑問が浮き上がる。まるで目の前に文字が浮き上がるような感覚。

(僕は……何か忘却わすれてる?)

 首を傾げる。何故そう思ったのかが判らなかった。


「――透莉、そろそろ始めるぞ」

「あ、うん!」


 降ってわいたような疑問に首を傾げていると、九角がそう言ったので慌てて返事をした。

 気にはなったが、今はそれを気に掛けるときではないと自分に言い聞かせて、透莉は意識を集中する。

 そして――。


[――電脳接続を確認しました]

[ミスター・トーリ。ようこそ、電脳都市(メガ・バース)シティ・キョウトへ]


 電脳接続を確認し、同時に透莉――トーリはインストールしたプログラムを起動させた。

 その瞬間。


世界が砕けた――


――ような、気がした。


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