四章:交錯 4
ロンドン郊外。
周囲は小高い丘と広大な農園に囲まれた風景の中に、その屋敷はあった。錆びた門扉を開けて中に入る。
野ざらしになった中庭は荒れ果てており、もう何年も人の手が加えられていないのが一目で判る有様だった。
「随分と寂れてるのね……勿体ない」
「俺はむしろ、どうしてアンタが俺と一緒にいるのかが不思議だ」
九角は隣に立つ姫宮を見上げて溜息を零した。どういう理由かこの男――いやオネェは、九角が海外行の
そして挙句の果てに此処までついてきた次第だ。まったく以て理解しがたい行動力には舌を巻く。
九角の愚痴に「気にしたら負けよ、負け。一度ロンドンって来てみたかったの」と笑う姫宮に、最早何も言うまいと自分に言い聞かせ、九角は真っ直ぐと屋敷の玄関へと向かう。扉に近づくと、《電脳視界》越しで扉の前に立体型の入力画面が表示された。
九角は電脳キィを打ち込む。七六桁の暗証番号を打ち込むと、電子音と共に扉のロックが解除される。
その様子を見て姫宮が「なんて長い暗証番号なのよ……」と辟易した様子で呟いていたが、無視して九角は玄関をくぐった。姫宮もそれに続く。
中は外見とは裏腹に、そこまで荒れ果ててはいなかった。埃の積もり具合から、結構な年月放置されていたのは判るが、それだけだった。他に変化らしい変化はない。九角の記憶の中の情景と、現在の情景に差異は殆どなかった。
「で、こんなところに来てなにをするつもりなのかしら」
「探し物だな……」
「それってどんなものなの?」
「判らん」
「貴方、頭大丈夫?」
「少なくともあんたよりはマシだよ」
軽口の応酬を切り上げて、九角は屋敷の中へと踏み入った。誇りまみれの屋敷に人の気配はなかった。だが、九角が踏み入った瞬間に空調システムが起動する。どうやら今もこの屋敷の機能は生きているらしい。
二人の足音を静かな屋敷の中に響かせる。やがて辿り着いたのは両開きの大扉だった。九角は無言でその扉を開ける。
中は巨大な書斎だった。部屋中に、現在では希少品となって久しい紙媒体の書籍が大量におさめられている。
その情景を見て、姫宮がぼそりと呟いた。
「ちょっとした宝の山ね……」
まったく以てその通りだった。同意を示すように一同首肯し、九角はその部屋の奥――大きな
この大量の書籍が収められている部屋では逆に不釣り合いな、複数の大型演算機関と連結している情報統制端末があった。
「――これ、何?」
端末を指さして、姫宮が振り返りながら訪ねてきた。九角は端末を見据え、静かに答える。
「電脳工学の第一人者――バルティ博士の専用端末だ」
刹那、姫宮の双眸が零れんばかりに見開かれる。
「――……バルティ……って、まさか!」
九角の口から零れた名を耳にした瞬間、姫宮は顔から血の気が引いたように青ざめる。
当然だろう。その名は現代において、ある種禁忌とされている名前だった。
姫宮が言葉を失う前で、九角はゆっくりと埃にまみれた端末に近づき、電源をオンにする。
そして端末のキィを叩きながら姫宮を見上げ、鷹揚に頷く。
「お察しの通り。五年前の電脳テロ『クローム襲撃』の主犯にして、唯一実名が判明していながら今なお行方知れずのサイバーテロリスト――ベアトリーチェ・バルティだ」
言いながら、カタカタとキィを叩く。
表示されるパスワードの入力画面。九角はその表示を前に、画面を見ることなくキィを軽やかに叩いてパスワードを入力し――
「――俺がかつて、師と仰いだ人物だ」
そして、エンターを押した。
真っ暗だった画面に明かりが点る。ホームメニューになった端末画面を前に、二人は互いを見据えて沈黙した。
――『クローム襲撃』。
それは電脳時代到来から初めて起きた、大規模の電脳テロの通称である。プログラム《ニューロマンサー》を用いて行われたこの電脳テロは、当時存在した第七電脳都市シティ・キャンベラを壊滅させた。そしてそれは電脳都市だけに留まらず、《ニューロマンサー》の影響によりキャンベラ市に設置していた中枢機関が暴走。市そのものを飲み込む大爆発を引き起こし、世界を震撼させた大事件――それが『クローム襲撃』。
そして『クローム襲撃』の主な原因となったプログラム《ニューロマンサー》の開発者にして首謀者。その名は――ベアトリーチェ・バルティ。
世界最悪のテロリストとして指名手配されながら、一切の消息が不明となっている人物である。
流石にそんな大物と繋がりがあるとは夢にも思っていなかったのだろう。顔面を蒼白にして引き攣った笑みを浮かべる姫宮。
九角はそんな姫宮を無表情に見上げて、微かに失笑する。
「――驚いたか? 流石にあんたでも、そこまで俺の素性は把握してなかったみたいだな」
「あ、当たり前でしょう! 貴方の情報は、貴方に初めて依頼したときに徹底的に調べたわよ? でも、あのベアトリーチェ・バルティとの関係するものは一っ欠片も――」
素っ頓狂な声を上げる姫宮とは対照的に、九角はつまらなそうに肩を竦めた。
「そりゃまあ、当然だろう。ラースが情報統制している。見つけられるわけがない」
そう告げた瞬間――今度こそ姫宮の顔が凍り付いたのを九角は見た。あんぐりと間抜け面を浮かべる姫宮を見据え、九角はにやりと悪辣な笑みを浮かべる。
「あんたを絶句させることが出来たってだけでも、この情報を開示した価値があるな」
そう言うと、姫宮は信じられないものを見たとでもいう風に顰め面になった。
「……知りたくなかったわ、そんな情報。何よそれ。最重要機密レベルじゃない。てか、口にしただけで命狙われかねないわよ、貴方」
「はっ。知るかよ、イピカイエーだ」
姫宮の苦言に軽口を叩く。叩いてから、これはカウボーイの口上だから
そんなことを考えていた九角の隣で、姫宮は何かに気付いたように口を開く。
「でも待ちなさいよ。貴方があのバルティの関係者で、それをラースが秘匿してるってことは――」
どうやら今の僅かな情報で、姫宮は多くのことを悟ってしまったらしい。
流石だ。と思うと同時、こいつ阿呆だな。と九角は胸中で溜息を吐く。
「……あんた、知りたくないとか言いながら、気づかなくていいことに気づくのな」
「あ……」
指摘されて、自分の失態に気づいたのだろう。だが、それこそまさに後の祭りだった。
「今のなし! アタシは何も言わなかったわ!」
「後悔はいつだって先には来ないよな。ご愁傷様」
「あーもう! ついて来なければよかったかも」
「それこそまさに自業自得だろ。ついてきてくださいなんて、お願いした覚えはないぜ?」
「厭味ったらしい子ね!」
頬を膨らませてそっぽを向くおっさん――いや、オネェが一人。何度も言うが、この一見したらナイスガイという言葉がしっくりくるような人物がやっても、やはり微塵の可愛げもなかった。
「まあ、お気づきの通りだよ。『クローム襲撃』を引き起こしたのは、この電脳時代を築き上げたあのラースだ」
「……
「アンタ、少なくとも見た目は微塵も女じゃないから」
「心は乙女なの!」
全力で主張する一八八センチの巨漢。対して九角は肩を竦めて見せるだけ。
「奴らが何を企んでるのかは、俺たちも知らない。だが、今も『クローム襲撃』の日に起きたことは、奴らが徹底的に情報統制している。俺たちの企みも含めてな」
「貴方たちの企み? 『クローム襲撃』は、貴方たちがやったんでしょう?」
「その通りだが、少し違う。結果として『クローム襲撃』に繋がってしまったってだけだ」
言って、九角は口の端を釣り上げる。
「《ニューロマンサー》の基本工程は情報解析プログラムだ。あらゆる防御を排除し、攻性防壁すらもすり抜ける。もし破壊されても即時に周囲の電子情報を収集し、自己修復するから、実質防衛不可能な――世界最高レベルのハッキングツールだよ」
「……それだけ聞いた限りじゃ、あんな大災害が起きるような危険性はなさそうだけど」
「実際ないからな。もし同じことをしても『クローム襲撃』は決して起きない。それは断言できる」
九角ははっきりとそう断じた。何せ《ニューロマンサー》は、言った通り高度な情報解析プログラムなのだ。ハッキング対象に気づかれることなく侵入し情報を簒奪する、そのことに特化したプログラム。
ならば、何故あのような大惨事が引き起こされたのか。それは――
「――俺たちは、《ニューロマンサー》でシティ・キャンベラの中枢機関――マザーシステムへハッキングした。それに気づいたラースが、情報漏洩を阻止するためにキャンベラを道連れに自爆した――ってのが、俺たちの見解だよ」
「…………は?」
九角の言葉に、姫宮が間抜けな声を上げて絶句する。
実際、その胸中は推し量るに容易かった。何せ、九角の見解はあまりの荒唐無稽だからだ。大都市一つを犠牲にしてまで行われるほどの情報など、果たしてどんなものか想像もできない。
そしてそれを行ったのが、電脳技術の頂点に君臨するラースそのものなどと言われたら――
「……それが真実だとしたら、今の世界基盤が揺らぐわね」
「まあ、間違いなく世界を巻き込んでの論争になるだろうな。まあ、そうなる前に情報操作が行われてしまうのは、火を見るよりも明らかだが」
『クローム襲撃』後のラースの対応は早かった。事件のあらましは一日もせずに全世界に公表され、事件の首謀者となったベアトリーチェ・バルティの国際指名手配されるまで要した時間は三日もかからず、彼女の研究はすべて凍結され、彼女に関するあらゆる情報は第一級極秘事項指定された。
そうして気づけば、九角を始め《ニューロマンサー》実験に関わっていた面々はなす術もなく、ベアトリーチェの足跡を調べることは叶わなかった。
そう――この前までは。
九角は電脳端子の接続ケーブルを取り出して、それをデバイスと
「貴方、何してるの?」
「見ての通りだ。この端末から
「そんなのとっくに誰かがやっているでしょう? 件のラースとかが」
「まあ、その通りだが……ってか、実際五年前に俺もやっている」
師が事件後行方知れずになったと知ったと同時、九角はまっさきに此処に来て、師の行方に繋がる僅かな情報でも逃さないように、徹底して調べ上げた。
丸一日電脳に潜り、この端末に封じられていたあらゆるファイルに目を通した覚えがある。
だが、それは彼女の行先に繋がりそうな――という限定されていたものだ。
今回は違う。目的のものは全く異なる。
電脳端末を通じて、九角は一〇〇パーセント意識を電脳空間に没入させた。現実の肉体をバランス制御プログラムに預け、九角は《電脳義体》となってあらゆる情報窓を重複させ、自作の探索プログラムを起動。
検索キーワードを入力する。
キーワードは――『
あの異形の都市で遭遇した、バルティを名乗る少女の名前だ。
新たな何かを発見できる可能性があるとすれば、これだ。
そのために、その真偽を確かめるために、この地を訪れたのである。
検索プログラムが一斉に動き出す。
無数に展開していた情報窓に、膨大な量の電子情報が濁流の如く下から上へと駆け抜けていく。
[――キーワードに関連するファイルを、一件発見しました]
――それを見つけ出す。
そのファイルを即座にダウンロード。外部からの干渉を
一時的に電脳ネットとの接続を切断。自分の《電脳義体》をネット上から切り離し――漸く一息ついた。
作業にかけた時間はそれほど長くはないが、その作業の間にかかった精神的重圧は相当なものである。
何せ探っていたのは世界的にも最重要人物にして最上級危険人物認定されているベアトリーチェ・バルティの保有していたデータだ。彼女のことは、あらゆる政府や組織が徹底的に
そんな彼女の――しかも個人保有の端末から情報を引き出した。もし発覚したら即座に全世界指名手配レベルの危険行動である。
だが、その
あった、はずだ。
九角は《電脳視界》で保存ファイルを確認する。ファイルを開き、中身を閲覧。
開いたファイルにはただ『A』というファイル名が施されており、内容は暗号化されていて読むことはできなかった。
(――まあ、簡単に読ませてくれるとは思ってないさ)
九角は自作の暗号解読ソフトを起動し、ファイル『A』の解析を始めた。暗号の解読にはしばらく時間がかかる。
「姫宮、帰るぞ」
「え? もう?」
「用はすんだからな」
「結局何しに来たのよ。しかも帰るの? 日本に? 観光は? ロンドン塔とかテムズ川とかは?」
……どうやらターミナルで待ち構えていた際の「行ってみたかった」冗談ではなかったらしい。実に呑気なことを言う姫宮に、九角は大きく肩を落として溜息を零した。
「……そんなの体感映像で我慢しろ」
「実物を見てこその観光でしょう!」
「そもそも観光に来たんじゃねーよ!」
信じられないという風に叫ぶ姫宮に向けて怒号しながら、九角は颯爽と踵を返し屋敷の玄関に向かって歩き出す。
《電脳視界》で確認すると、暗号解読プログラムが遅々とだがしっかりと解析を進めていた。
さて――解析が完了した暁には、何が判るのか。このファイルがもたらす情報は何か。
それは、師の胸中を知ることが出来る可能性を秘めているのか。
それとも。
開けてはならない、
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