5 真紅の疼痛 Twinge of a Sin


 少女と手を繋いで駆けている。

 教会の中庭で笑っている。

 他の子供達を追いかけ回したり、逆に追いかけられたり……何をするでもなくただ走り回っているだけなのに、とても胸が温かい。

 一緒に手を繋いでいる少女も同じことを考えていたのか、こちらに屈託ない笑顔を向けた。

 こちらも笑いかけて気持ちを共有する。

 心の底から楽しく、幸せだった。

 だからこそこの幸福は無際限に続いていくと、そう思って――、

「どうして?」

 無機質な声に振り向くと、つい先程まで一緒に笑っていた少女が、顔を蒼白にさせて首を傾けていた。

 少女の首には何者かに食い千切られたような傷があり、そこから漏れ出したおびただしい量の血液が、腕を伝ってこちらの手にぬるりとした感触を与えた。

 知っている。この感触を、臭いを、温度を。

「どうして? 教えてよ。どうしてわたしは死んじゃったの? 誰のせい? わたしが死んだのは誰のせいなの?」

 ……やめてくれ。

 手を振り払おうとするが、小さな掌のどこにそんな力があるのか、強く握られたまま詰問される。

 やめてくれ。

「ねぇ、どうして? どうして? どうして?」

 逃げることはおろか、顔を背けることすらできない。

 やめてくれ!

 渾身の力で手を振り払う。

 血塗れの少女は、虚を突かれたように目を丸くした。

 ぼとり、と振り払われた腕が地面に落ちる。

 肩口からも流れ出す血に気を留めることもなく、少女はこちらに歩み寄る。

 歩み寄る。

 目と鼻の先にまで、顔を近付けられる。

 少女は耳元に口を寄せて、囁く。

「――――」


 ……ひどく、血なまぐさい。

 何かを啜るような音が聞こえる。

 手や口の周りに温かい感触がする。

 甘くて苦くて蕩けるような味がする。

 瑞々しく新鮮で真っ赤な臓腑ぞうふが見える。


「…………は?」

 椋路むくみち柘榴ざくろは、血溜まりの中心で、腹を切り開かれ顔を潰された全裸の女性にひざまずいていた。

 夥しい量の血液と、それに塗れた自らの手。せ返るような鉄の臭い。口の中に残る粘ついた何かの欠片。

 頭が痛い。ずきずきと鋭い痛みが脳髄を直接襲う。万力で頭部を締めつけられているかのようだ。ゲイン最大のアンプを頭の中に設置したのかと考えてしまうほどに、激しい耳鳴りがする。

 視線は剥き出された内臓に釘付けられる。今も尚滔々とうとうと流れ続ける血に釘付けられる。

 重なる。目の前の人間に、首を食い千切られた少女が重なる。

「……い」

 尻餅をついて後退る。

 自分でも何故離れようとしたのか分からない。

 ただ、一刻も早く、少しでも遠くに、離れたかった。

「……なさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 背中に瓦礫が当たり、これ以上退がれない。

 椋路は譫語うわごとのように謝罪の言葉を繰り返す。その姿に普段の意気軒昂とした面影は見られない。

 手で耳を塞ぎ、固く閉じられた瞼からは滂沱ぼうだの如く涙を流し、まるでいとけない幼女のようにうずくまる。

 何に対して、誰に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。だが椋路は、そうしなければならないという強迫観念に囚われて、苛まれていた。

 鮮烈な血の記憶が椋路を逃避に駆り立てる。彼女自身も半ば忘却していた、消えることのないとがの証が蘇る。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


『――ロートケプヒェン。ロートケプヒェン!』

 メアリーからの通信で、我に返った。

「メ、アリー……?」

 椋路はれた声で応答する。インカムに手を当てる際に、つんとした鉄錆の臭いが鼻をついた。

 当惑する椋路に対して、メアリーの方は相当切羽詰まっているようだった。

『グレーテルは! そこに病葉わくらば若葉わかばはいますかッ!』

 言われて辺りを見回すが、それらしき姿はない。

「い、いや、いない」

『では貴女は! 大事ありませんか!』

 珍しく声を荒らげるメアリーに驚きながらも、椋路は自身の身体を顧みる。

「特に、怪我らしい怪我はない、けど」

『そうですか、それはよかった』

 インカム越しにも安堵の息が聞こえる。

『ロートケプヒェン、ご自身に何が起こったか憶えていますか』

「あたしに……?」

 言われて記憶の糸を手繰り寄せようと試みるが、何をしていたか何が起こったのかを憶えていなかった。

 ノイズがかかったように頭痛が邪魔をして上手く思い出せない。夏の陽炎のように、輪郭がぼやけてしまう。

 それでも懸命に記憶と対面していると、それは徐々にはっきりとした姿を取って椋路の前に立ち現れる。

 そうだ。自分は眷属と戦闘をしていて、不意討ちを食らって、コアを破壊されて――それからどうなった? どうして自分は生きている?


 椋路は自分が憶えている限りのことをメアリーに伝えた。

『……そうですか。こちらでも貴女が仰った以上のことは分かりません』

 メアリーはそう言った。もう普段の淡々とした口調に戻っていた。

「それはおかしい。あたし達魔法少女のバイタルを常にチェックしてるなら、メアリー、あたしが分からないことも分かるはずだろ」

 現在御伽社おとぎしゃ(大阪支社に限定されるが)に所属する魔法少女の動向を、メアリーは全て把握している。なんでもコアの魔力を頼りに追跡しているらしいが、詳細は椋路は知らない。けれど言えることは、そんなメアリーが椋路に情報提供を求めているのは明らかに異常だということだ。

「それに、そうだ、グレーテル。どうしてグレーテルの安否をあたしに確認する必要がある? アイツは今日オフだって話のはずだ」

 椋路の言葉に、歯に衣着せぬ性格のメアリーは珍しく押し黙った。

 が、やがて、

『……隠す理由はありませんね。ロートケプヒェン。グレーテルは、貴女のバイタル消失と未確認生物出現による緊急出動要請に応じ、現在消息不明です』

 と言った。

「……オイオイ、するってェと、アレか、あたしがしくったからグレーテルは行方不明だってのか」

『それは違います、ロートケプヒェン。確かに貴女は失敗しましたが、それが原因で彼女が失敗したわけではありません。彼女の失敗は彼女のものです。努々、そこのところを履き違えないように』

 自嘲を込めた椋路の言葉を、メアリーは即座に否定した。椋路の失態それ自体は否定しなかったが。

「へいへい、励ましてくれてありがとよメアリー」

 素直に礼を述べると、通信越しにすましたように鼻を鳴らす音が聞こえる。メアリーはメアリーで椋路を気遣ってくれていたらしい。


「んで、この通りあたしはピンピンしてるわけだが、どうすりゃいい?」

 椋路は掌を開いたり閉じたりしながら指示を仰いだ。

『一度コアを破壊されたのです‪から、速やかな帰投と検診をと言いたいところですが……本当に何ともないのですか?』

「あァ。なんなら今ここでその辺のビルを綺麗に解体して――」

『結構です。ですが、そこまで仰るのならば重畳ちょうじょう。我々には調査しなければならないことが山積しています。貴女が交戦していた眷属の行方、グレーテルが交戦した未確認生物の行方、そしてグレーテルの行方。猫の手も借りたいほどです』

 はぁ、とメアリーが溜め息をつく。

「じゃあ今言ったの全部やるよ」

 事もなげに言ってのけた椋路に、メアリーが今度は息を呑んだ。

『全部、ですか?』

「おうよ。少なくともその三つは、全部ここで起きてる。しかもあたしはここにいる。だったらまとめてやった方が早えェだろ。どれか一つに関してでも重要なことが分かれば、すぐにそっちに報告に戻るさ」

 メアリーは暫くぶつぶつと独り言を漏らした後、椋路の提案を承諾した。

『……分かりました。ですがこれだけは肝に銘じてください。貴女は一度コアを破壊された身です。現状が現状なので後回しにしていますが、本来ならば今すぐにでも検診を受けさせねばなりません。ですから、もしも眷属や未確認生物に遭遇すれば、一切の逡巡しゅんじゅんなく離脱してください。いいですね?』

「えェ~、場合によっちゃ、ブッ殺した方が早――」

『い・い・で・す・ね?』

「…………ハイ」

『よろしい。では、指令オーダー、蛸型眷属の痕跡調査、及び未確認生物の痕跡調査、及び魔法少女グレーテルの捜索、発令します』

「了解。リリカル、マジカル、キルゼ――」

『リリカルマジカルゲットアウェイ、復唱』

「……リリカル、マジカル、ゲットアウェイ」

 何やら満足げなメアリーの鼻息を最後に、通信は切断された。


「さて、と」

 ロートケプヒェンはフードを被って立ち上がり、辺りを見回す。

 倒壊したビルや隆起や陥没だらけの道路など、街は見るに堪えない惨状だったが、まず否応にも目につくのは、ロートケプヒェンが気が付いた時に目の前にあった、何者かの亡骸だった。

 メアリーとの会話のおかげか、もう平静を乱すことはない。ロートケプヒェンは顔を潰されはらわたを晒されたそれに近付き、何かのヒントになるかもしれないとつぶさに観察する。

 顔は潰されているので個人の特定は現時点では不可能だ。身体つきから二十代の女性であることは判断できるが、それ以上のことは彼女には分からない。薔薇の花弁をちりばめめたように切り開かれた腹は、時間が経って止血している。何故服を着ていないのかは不明だ。

「……ん?」

 そこでロートケプヒェンは、妙な感覚に囚われた。

 何かが、おかしい。

 何がおかしいのだろうか。

 ひとまず状況を整理する。

 ここは大阪市中央区。先日と同じ場所に眷属が出現して、自分が出動した。

 眷属との交戦中、メアリーからの通信により、民間人が一人見つかり、保護の為に時間を稼ぐよう言われた。

 不意を突かれ自分はコアを撃ち抜かれ、それとほぼ同時に民間人の保護と撤収が完了した。


 ――では、今目の前にある人の屍体だと思っているものは、何だ?


 民間人の屍体ではない。あの時瓦礫に脚を挟まれ動けなくなっていた少年を除き、民間人は皆とうに避難しているはずだ。

 加えてこの地域には立入り規制が敷かれ、特別な許可がなければ指一本入ることはできない。

 ……そうだ。ロートケプヒェンが意識を失った後、もう一人この場に立ち入った者がいた。

 グレーテルだ。

 彼女は未確認生物の出現に際し出動した。

 未確認生物と接触し、交戦していたグレーテルの行方は、今となってはようとして知れず――、否。


 この屍体だと思しきものは、グレーテルではないのか?


「――ッ、オイ! グレーテル!」

 ロートケプヒェンは懐から緑色の液体で満たされた注射器を取り出し、屍体の腕の血管に注射した。これは各魔法少女に支給される、緊急用高濃度魔力剤、要するに魔法少女専用の栄養剤だ。尋常の負傷であれば瞬時に恢復かいふくする魔法少女が、何故ここまで遅々として完治しないのかは分からないが、どんな傷であれ魔力さえ補給できれば治るはずだ。

 その見込み通り、潰された顔も、切り開かれた腹も、徐々に細胞が再生して傷口を覆っていく。

 動画を巻き戻しているようにして傷痕一つも残さず元通りになったのは、最早屍体ではなく、確かにロートケプヒェンもよく知る人物、グレーテルであった。

 意識はまだ戻らないが、脈はある。

 ロートケプヒェンはすぐさまメアリーに連絡し、彼女を背負って御伽社に戻った。

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