矢山行人 十五歳 夏32

「うわぁ」


 陽子がこけそうになって、わたわたと両手を振り回していた。

 何度かたたらを踏むようにして、バランスを取って陽子は僕を見た。


「ここが、朝子の」


「うん」


 正確にはここから見えるもの、聴こえるものが朝子の神様だけれど、僕はそれを言わなかった。いずれ分かることだから。


「綺麗だね」陽子が町の光を見て言う。


 そうだね、と頷いた後、

「陽子、もうあの中二病みたいな、変な男口調で喋るの、やめたの?」と訊ねた。


 陽子は僕を見て、薄く笑った。

「うん。あれは、朝子の為にやっていたことだから」


「どういうこと?」


「朝子の病気に病名はなかったの。ただ一つ法則があって、私が触れると朝子はひどく苦しんだんだ。両親が触れても、看護婦でも、友達でも大丈夫だったんだけど、私だけが駄目だったの」


「なんで?」


「分かんない。

 けど、私が近づいたら朝子は苦しむってことだけは分かった。それでもお互いがお互いを大切にしているって、伝え合う方法なんて幾らでもあるし、何とでもなるって思った」


 僕は小さく相槌を打った。


「だけど、果物の一部が腐れば、それが全体に広がるように私たちは触れ合えない。その事実一つで私たちの関係は容易く崩壊した」


 僕は何も言えなかった。


「何が悪かったんだと思う?」


「分からない」

 と僕は答えた。


「私は、分からないことが悪いんだと思った。

 私の何かが朝子を傷つけている。だから、私は私というものを変えてしまおうと決めた。呼吸のリズム、歩くスピード、喋り方、そういうものを徹底的に変えてみたんだ。煙草もその一つ。お母さんが煙草吸ってたしね。

 でも、さすがに社会的な、他人が見て思い描く私を変えることには躊躇があって、だから学校では普段通りの優等生な自分、外では以前とは異なった自分に分けてみたんだ。意味なんてない。

 ただ、朝子の為に何かをしていると思わないと辛かった」


 でも、じゃあ、それは。


「そんな時に、朝子が金曜日の深夜に抜け出すようになった。分からないことに私はもう疲れていた。毎日、目を覚ます度に、後悔するんだ。夢の中にもっと居たかったって。夢の中なら、分からないことに怯えなくて良かったから」


 怖い夢を見るんだ、と陽子は言っていた。

 それは嘘だったのか?

 いや、それも本当なのだろう。

 現実も夢も陽子からすれば怖いものだった。


「少しでも分からないものを減らしたかった。何か行動をし続けたかった。だから、行人くんに朝子の尾行を頼んだんだ。こんなところに朝子は来てたんだね」


「うん。ここでさ、未来予想図の話をしたんだ」

 と僕は言った。朝子の返答は夢の中で聞いた。あれを夢だとするのは簡単で、だけれど時間が経つにつれて夢は現実だった。僕はそうとしか思えなくなっていた。


「行人くんの未来予想図って?」


「好きな女を毎晩抱いて眠ること」


「うわぁ」


「おい、朝子と同じ反応してんじゃねぇーよ」


「いやいや、行人くん。それはキモいよ」


「何でだよ! 一途じゃん?」


「だって、その好きな女って、秋穂のことでしょ?」


 僕は黙る。


「沈黙は肯定の証だよ」


「うるせぇ。で、朝子の未来予想図を聞いたんだよ」


「なに?」


「お姉ちゃんと手を繋いで外を歩くこと、だってさ」

 次は陽子が黙った。


 僕も口は開かず、夜の町を眺めていた。

 遠くで車のエンジン音が聞こえた。


 あ、来る、


 と思った瞬間には、エンジン音は獣の唸り声ように響く。音はすぐさま爆音となって、歌のようなリズムを刻む。


「これ、なに?」

 と、陽子が言った。


「歌ってる、みたいだろ?」


「歌? これが朝子の神様?」


 そういえば神様かどうか、と僕は朝子に訊ねなかったな、と今になって気付いた。


「MR2っていう車らしいよ」


「MR2……」

 爆音は続く。


 MR2は町中をのたうつように走る。

 確かな憤りを含んでいて、僕は運転手に思いを馳せる。男か、もしかすると女かも知れない、その運転手の感情だけを僕は確かに受け取る。世の中は窮屈で、鬱屈していて、詰まらない。

 けれど、そんな世界で僕たちは生きていかなければならない、憤り。


「うわぁあああああぁああぁああああ」


 陽子が叫んだ。


 釣られるようにして僕も叫ぶ。ありったけの力を混めて、窮屈な世界に対しての憤りと共に声を枯らす。

 爆音はそれに応えるようにリズムを変えた。

 そして、町から離れて行った。


 僕と陽子は互いに顔を見合って、小さく笑いあった後に、少しだけ泣いた。

 もういない朝子の為に僕たちは泣いた。

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