そんな感じに頑張る李永蘭

「君のお父ちゃんが帰りに本家に寄るって言ってたんだけどさあ……会食ついでにどう」

「私も?」

「ああ勿論、別に強制じゃないし、いつも通り気が向いたらで。色々おっさんの付き合いに悪いでしょ」

「いいえ、私からも」

「おっ、予約しちゃうけど良いかい?」

「桜庭さんのご飯、いつも美味しいところ選ぶじゃないですか。たまには良いかなって」

「見ない内に狡いこと考えよるな~」

「それにずっと父さん機嫌が悪そうなので」

「それは言えてるしなあ、いやでも可愛いんだけどね」


 そうして、その後、一言二言軽口と会話を。待つのは嬉しいが、校門前に停めるのは恥ずかしい、年甲斐もなくつい急いてしまった、等と。電話越しに聞こえる男の声色は、どうやら上機嫌だ。安定した商売の為の、父親との示談なのが円滑に進められるのは言うまでもないが、食事もなのだろう。日本国内に在住する華僑に対する治安維持と経済支援を行う、首都圏の百零。同じ国内でありながら、莫大な経済圏を隈なく支える「桜庭」。双璧かつ、関係性から商売敵としても見られがちだが、親交は長い。

 昔から、桜庭は何一つ変わっていない。人の世として、一度グループから席を立ったとはいえ、当代の名を借りて経営に乗り出しているケースも少なくはない。それだけ、隠居するには向かない性格なのだろうが、伴って部外者とも言えるこちら側にも友好的なのだ。それ故に、背丈もああまで大きくなるのだろうか。


 そう思いながら、周囲を見回す。

 床、血だまりは、まだ凝固すらされていない。ただあふれ出たそれらが、街灯に艶めかせるが生気はなにも感じない赤だ。だが濃さもまた鮮血か。赤が、自分をどこか覗き込んでいる。お前が全部やった。お前が血を迸らせて、何もかも斬りやがった、と。その声、四方に飛び散られた脂肪の持ち主は何といったかは覚えていない。ただ、殺意に満ちていた何かを叫んでいた気がする。何故餓鬼が生きて、自分が消えるのだ、と。もう意味はなさないが、似た言葉が脳裡に掠めては離れない。よほど鼓膜が堪えてしまったらしい。

 不意に靴で血塗られば、未だに波紋を起こす。鏡面として、自分の顔を映さぬように後退って廃ビルに残された入り口を確認する。非常用の蛍光はないのだが、運よく一つは特に汚れていない。このまま汚れずに済む、と安堵した。戦う間は頓着しないが、付き人も困るのだからこれ以上服や車を汚すのも御免被りたい。


「痛っ……」


 とは言え、まだ帰れる場合ではない。

 アドレナリンか、エンドルフィンか、脳内麻薬の分泌が制されたかあちこちが痺れて構わない。彼が、早くに連絡をしたのが幸いだろう。自分の足音すら、妙に重なって聞こえては居心地が悪い。彼は、不自然に折れ曲がった生娘の足など知らなかっただろう。その生娘の血の匂いも、女が握りつぶした心臓も。せいぜい、あの聴覚では静かな部屋にいる女の子、というところだろうか。学校に帰り、夕食も済ませて束の間の、そんな平和な時間に彼は電話した。

「大丈夫」

 なら、何も問題はないのだ。そういう事で良いのだ。そうでならければならないのだ。


 息を少し吐けば、また口から吹き零れる。これで何回目だろうか、ただ痛みが、胸部ではなく鳩尾辺りなのだから喀血ではなく吐血なのだろう。尚更、彼には教えられなかった。

 一歩と、幸いに血濡れていない方へと歩く。帰るにも、この外傷では直ぐに入院を余儀なくされる。下手して父達の耳に届くまでに、意識を保つべきか。浮遊。スマートフォンを手にしていたはずが、どこか腕の感触がないようで静かにそれを下した。壊したくない。日本刀よりも脆いが、肉よりも固い。硬くて、それでいて気が紛れてしまうのだ。所定のところまで進めば、意識が混濁しないうちに、大腿のホルスターに納めていた拳銃を取り出す。父親か、彼からの餞別かは、忘れた。けれど決まって「身を守る為」に自分に与えるのだろう。だから、自分もこれで殺すことはない。安全装置を外して、こめかみに銃口を向ける。

 その瞬間、その重さは、怖さは未だに慣れていない。その重さだけで、自分の命が奪われる。ついぞの化物のような、重量感のある手足よりも余程……だが、自分はその怪物を刀で屠った。それと同じことなのだろう。

 同じ事なのだから。


 ──今週


 不意に、約束したことを思い出した。

 これが終わって、その数日後には食事に行く。きっと父達は同じ場所で食事を取ることになるだろう。きっと


 ──あれ


 思い出せない。

 誰が握ってくれた手も、その温度が暖かいかも。鮮血、赤が、脳内に押して表情が不確かか。彼の確かな笑みもか。好いていた店が、笑みを絶やさなかった誰かが、時折本家で手伝ってくれた誰かが、彼が……


 ──誰だっけ


 自分を握っていた手は、一体誰かも。守ってやると背負ってくれた人は誰かと。

 分かるのは、確かに守るために貰っていた銃が、酷く冷たいだけか。思い出すものもなく、そのまま笑うが我ながら腑抜けている。本当に視覚がない、彼の目の前に理想が出来るのだから、幸いなほかもない。

 表情を失うまでに、確かに引き金を弾いた。この音だけが、悪い夢だと教えてくれる、そんな気がするからだ。

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