【部長×???】養子の実母に求婚をしていた話

【前書き】

以前書いたSSのテキスト化


「結婚しよう」

 彼女の視線が、漸くこちらを向いた。ろくに耳を貸さず、胸乳のみを過剰に見せつけんとする錯乱にしては、大分動揺しているだろうか。不意に、襟を掛けた指先が外れる。弛んだTシャツの襟が、そのまま汗ばんだ肌に張り付いた。彼女はそれに、濡れてしまっただのと蠱惑にも誘わない。彼女の双眸もぎこちなく、呆気そのもので薄い汗が額から滴るのも厭わない。ただ暑がりだと扇風機は付けながら、彼女の髪を靡かせる。酷い日焼けにはなっていないが、パート帰りか袖下が赤く腫れていた。

「所得、このままじゃ心許ないだろう」

「随分気に掛けるわね」

 無理もない。そもそも彼女とは恋仲、というよりももっと離れる。御目付役、子と産み落としてしまった母胎の監視と後見。子の別離を拒んだ彼女に対する措置として派遣された立場が自分。ここには何も偽りはない。

「君を愛している訳じゃない」

 何も、偽りも余剰もない。人間の婚姻として前提条件に「性愛感情を持つこと」がある。あくまでもそれは目的がパートナーとしての契約に近く、自分の行動はこれに属さない。生活困難である対象者に対して最低限の衣食住を提供するもの。

 極度の精神不安に陥っている彼女は、社会復帰は殆ど難しいと考えている。彼女自体、直す意思はあっても脳の髄まで不信が染みついて止めようがない。裏切られる苦しみを避けて通る最悪の手段として、往々にしてその手口がとられる。人の良心を否定する、それ故に裏切られる悲しみはない。だから手を出さないと約束した男を誘惑し始める。

 その点で言うならば、彼女を愛しているわけがない。その時点で、彼女の自傷に関わることと同義なのだから。

――なあ

 だが二人の為の邸宅を構えた。このアパートに来る途中、後部座席からほんの一瞬羨ましそうに見つめていた、あれと似たような物。一生掛かっても使いこなせなさそうな、夢物語の物だ。それを手に入れること自体、造作もない。こちらの日銭には満たない彼女の所得を埋め合わせられる副次。雨風凌げるかどうか、等を心配する必要もない贅。加えて多忙な世帯主との顔を合わせる義務もない。

 二人だけの物、母子家庭として都合のいい

「いらない」

 然し、だった。かぶりを振って、自分と距離を取ろうとする。小さい顔によく収まった目が歪んで、こちらを睥睨した。

「そういうのは、好きな人とやるものね」

「私が?」

「知らないけど、いないの?」

 そんなもの聞いても喜べやしないくせに、言いかけて、しかしと閉口した。

 いる訳がない。目の前の彼女と宜しく、人間は約束を守れるほど整った有機体ではない。愛していると宣うも考えるも、夜を死と考えている臆病者のせいにすぎない。だから、だ。この話の為に今まで手を付けなかった訳ではなかったが、少なくとも彼女は同じ裏切りに合うことはない。その相手は、自分はその土俵すら立っていない。

「じゃ探してきて、いつかは見ておきたいもの」

 なら、何故断るか。出来もしない、ことを口走るか、咎める前に扉の近くから少年が顔を覗かせている。昼寝から起きたばかりか、どこか眠たげで紫紺の色彩も見えるかどうかも危うい。支えるにも心許ない手足が、閾に躓きやしないかと心配だろうか、そのまま彼女は立ち上がった。

「それで……お互い一人になったらいいかもね」

 心にもないことをと。言おうとしたが噤んだ。

 息子のいる時間を邪魔するなとも、彼女と約束していたのだから。


「結婚しよう」

「所得、このままじゃ心許ないだろう」

「随分気に掛けるわね」

「丁度、籍が空いていたんだ」

――なあ

「そういうのは、好きな人とやるものね」

「私が?」

「知らないけど、いないの?」

「じゃ探してきて、金だけ与えるって私に失礼だと思わない?」

「いつかは見ておきたいもの、子供に手が回らないってやつれてる姿とか」

 それ、まだ捨ててなかったんだ。

 お前が思うほど僕が何にも知らないわけないでしょ。ただ君ならそんな物、もう興味もないと思ってた。

 それに……どうせお前はこれを彼女にあげれたとしても言うだろうね。質屋にでも入れておけば金になるだのとか。結局渡すにしても、その指輪はそういう価値でしかないだろうに。お前は、本当に僕が思う以上に面倒くさい。

 そもそもしたくても出来ないやつがいるんだけどね、僕が、目の前の僕に失礼だと思わない? 別に好きでもない人に結婚しようって言って持ち掛けて、まあまあそういう設定だろうが一人一人にも選ぶ権利はある。そしてその人がお前を愛してはいるが恋ではないから断った、のなら、お前もこれ以上良い話はないでしょ。「好きでもない男とそういった関係になる」と望まなかったのはお前だ。

――だとしても、あやめは私を嫌っていただろう

 僕もお前みたいなの大嫌い。人間として御縁があっても結構だ。

――なら、利用すれば良かったのにな

 ……そういうところが、本当に虫唾が走るよ。

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