帰省

帰省

 ―帰省―


家に帰ると夕食が準備されていた。時刻は21時を少し過ぎたところで、僕のテーブルの向かいには母親が座ってテレビを見ていた。夕食はキャベツとトマト、キュウリで作られたサラダと、豚肉を一枚塩コショウで焼いたもの、そして味噌汁だった。僕はそれを黙って食べながら、昨日食べたものは何だったかと考えた。思えばここ三日間、一度は実家で母親なり祖母なりが作った食べ物を食べていることになる。なんだかここに住んでいた頃のようだった。


昔は何かと出されたものに文句を言っていた。竹輪の入った炒飯だとか、カボチャの入ったカレーだとかにだ。あの頃は店で出されるような料理に憧れていたものだ。今ならそれらはすべて我が家独特のオリジナルメニューだと言うことができる。この家で出される料理は、どれだけお金を出そうとも京都の中華料理屋や、カレー屋では食べることができないのだ。それはどんな高級な料理よりも高級で、今の僕が求めるものだった。


「上手いね、この家の飯は」

僕は素直に言った。味噌汁をすすると、懐かしい甘みのある味噌の味がした。

「そう?ぱぱっと作っただけなんだけどね」

「いや、上手いよ」

そう言うと母は嬉しそうににやりとした。昔の僕はこんな簡単なことさえ言えなかったのだ。大切なことはいつもそれが失われた後で気付くものだ。僕はもう戻ることができない過去の自分に対して嫉妬さえしてしまいそうな気持ちになった。僕は大学を卒業したら恐らく京都で就職する。二度とこの家で同じ時を生きることはできないのだ。


「帰ってくるたびにさー、僕の歯ブラシがないことに悲しみを感じるんだよね」

僕はポツリとつぶやいた。キュウリをカリカリとかじる。

「そうなの?うちの人たちはどんどん歯ブラシ新しいの出すからね。片付けないといっぱいになっちゃうのよ」

「なんか、家族の一員じゃないような気になるんだよね」

僕がそう言うと、母はまたにやりと笑った。

「何、センチメンタルに浸っちゃうわけ?」

「うん、ちょっと」

「まぁねぇ…。あんたももう4年この家の外で生活してるわけだからねぇ…。でもなんでだろ、自然とあんまり遠くにいるような気がしないのよ。メールとかできるせいかしら」

そう言って母は携帯を手にとってパチリと開いて見せた。ついこの前変えたばかりだという携帯にはカメラがついていた。そういえば操作が慣れないと言って悪戦苦闘していたっけ。


「確かにね。いつもあっちで生活してるときには感じないんだよ。むしろ、僕が住んでる京都は、ここのすぐ隣にあって、帰ろうと思えばそれこそ晩御飯食べるためにでも帰ってこられるような気がするんだ。心理的な距離はかなり近い気がする。」

京都に出てきてからわかったことがある。それは、常に僕の意識は故郷にあるということだ。高校の頃は毎月恋人に会うために京都に通っていたが、その時には京都という街は都会に見えた。そこに住むことに一種の憧れさえ抱いたものだ。しかし実際に住んでみると、僕にとっての京都というものは、故郷という僕の絶対的な心理的守備空間を少し広げた先に小さくくっついているほどの価値しかなかった。すべての基準はあの恐ろしく平凡な、しかし壮大な地にあったのだ。おそらく、それが故郷というものなのだろう。どこに行っても、どこにいても、必ず自分の心の中枢にある風景。僕の根本を形作り、守ってきた場所。だから人は、いつかそこに帰っていこうとするのだ。


「家に帰ってもあんまり違和感はないんだ。あぁ、久しぶりに帰ってきたなぁとかっていう気もしないのね。なんかもうホントに、ちょっとその辺ブラブラしてきて、帰ってきたくらいの懐かしさしかない。」

そしてそれはもう、懐かしさともいえないほどのものだ。

「でもね、だからこそちょっとしたことが気になるんだよ。ちょっとしたズレが、僕の不在だった時間を再認識させるんだ。歯ブラシが無いこと。よく知ってるはずの料理の味を懐かしく感じること。家の畳が新しくなってること、なんかがね。」

母は黙ってその話を聞いていたが、部屋に誰も来ないことを確かめると、僕の煙草を一本とって火をつけた。この人は僕と父親の前でしか煙草を吸わない。妹や祖母には知られたくないらしい。彼女は煙を深く吸い込むと、しばらくの間をあけてからゆっくりと吐き出した。

「まぁ、いいんじゃない?どこにいたってあんたは結局私の息子なんだし、この家の家族なのは間違いないんだから。」

「まぁ、そうだね。離れたおかげでわかったこともあるしね。」

「母親の上手い料理とか?」

「まぁ、そんなとこ。」

僕たちは少し笑った。僕は残っていた豚肉一切れを口に運んで、その後に白米をかきこんだ。本当に上手いと思った。これなら嫌いな魚だって食べられるかもしれない。懐かしさは最高のスパイスだ。

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