第5話 ありがとう。

 夏の日差しは肌を刺すようにぎらぎらと容赦なく真上から降り注いでくる。海は波を上げ、その度に潮のにおいがきつくなる。そんな真夏の海辺のこと。

 海を眺めながら、少女は海岸に立っていた。あの日と同じ青いワンピースを着て、シンプルなサンダルを履いている。


 夏休みに入り、海岸にはそれなりに人がいる。子供連れが目立つ。海の家に目をやれば、そこに献花台はもうない。

 そう、一か月が過ぎ事故のことは早くも、忘れ去られつつあった。それが、現実だった。

 結局彼女は、彼の家に参りには行けていない。勇気がなかった。だからお墓もどこにあるのか、彼女は知らなかった。

 傍から見れば彼と少女は学校の委員会が同じだけの関係で、仲がいいようには見えなかっただろう。だからこそ、少女にはそんな勇気が持てなかった。

 少女は足を一歩踏み出すと、海の中に手を入れた。チャポンっと小さく音がする。ぬるい水が指にまとわりつく。

 この中で、彼は死んだのだなと少女は改めて感じた。

 同じ委員会になって知り合って、彼の細やかな気遣いやそんな優しさにいつの間にかひかれていた。彼の真面目な横顔が思い出されてくる。

 だからこそ、彼が想いを伝えてくれた時にあまりにも嬉しくて驚いてしまいすぐには答えられなかった。曖昧なことを思わず口にしてしまった。


 しばらくそうして手を入れていたが、やがて彼女はゆっくりと立ち上がった。陸に向かって歩き出す。

 浜で遊ぶ人々の間をすり抜け、すたすたとそこから去っていく。

 その顔は憂いを帯びている。事故が起こった時その場にいなかった彼女にとって、はまだ受け入れがたい事実だったから。


「あの、すみません」


 不意に少女の後ろから声がした。彼女は平静な顔を作ると、そのまま振り返った。

 その先には、白い日傘を持ったおしとやかな少女――潮里しおりが立っていた。

 少女は目を見張った。先ほどまで潮里らしき人物など、海岸にはいなかったはずだった。

 周りの人が潮里に気づいた様子はなく、まるでそこにいないかのようにも感じられた。周囲から切り離されたように、潮里と少女の間を静寂が満たしている。


「あなたは……」


 少女の口から言葉が漏れた。


「驚かせてごめんなさい」


 潮里は小さく頭を下げた。


「でも、どうしても言わなければならないことがあって」

「私に?」


 人違いではないかと少女は思った。彼女は、潮里のことについて何一つ覚えがない。

 少女がそう言う前に、潮里が先に口を開いた。


「私、あなたのこと、前にも何度かここで見ました。いつも海に近づいて遠くを見ているみたいですけど」

「……」

「どうして、何度もここに来るのですか? 海に入るわけでもないのに」


 潮里に問われて、少女は地面に目を向けた。


「…………。事故あったでしょ? ここで。その人の、私……知り合いだったから」


 少女は小さな声で、言葉を紡いだ。


「だから来てるの。私にはもう、そんなことしかできないから」

「……そうですか」


 潮里は、小さくうなずいた。


「……それで、私に何を言いたいの?」


 少女は、潮里にきつい目を向けた。事故のことを訊かれたことが不快だったのだろう。

 潮里は、その視線をしっかりと受け止めると、口を開いた。


「……あなたが想いを受け取ってくれたこと、如月結人きさらぎゆいとさんは喜んでいました」

「……え?」


 少女の眼が見開かれた。なぜそのことを、という疑問が顔に出ている。


「……彼から真里奈まりなさんに伝言です」


 潮里は、柔らかな笑みを浮かべた。


「ありがとうって」


 その言葉を聞いた途端、真里奈の耳に何の音も入らなくなった。


「ありがとうって……、待って……」


 真里奈は涙を含んだ声で、潮里に言い募った。


「だって、私……彼に何も、それどころか」

「ここに来てくれて、想ってくれて、ありがとう。という意味だと思います」

「……!」


 真里奈は動きを止めた。


「……ねえ、あなたは……?」


 それはおそらく、ほとんど反射的に口から出た問いだろう。真里奈の顔には、恐れと困惑がない交ぜになった表情が浮かんでいる。

 潮里は、その問いに対して答えなかった。ただにっこりと笑うと、白い傘――彼女の想器そうきをくるりと回した。

 その瞬間、潮里はその場から消えせた。緑色の光を散らしながら。


 後に残された真里奈は、なぜ自分がこんなにも苦しい想いをしているのか、一瞬、わからなくなった。なぜ、今泣こうとしているのかわからなかった。

 ただ真里奈にわかったのは、感じられたのは、結人がありがとうと言ってくれたようなそんな予感だった。


「……私のこと、責めてないんだね?」


 あの日答えられなかった後悔。それがずっと胸に残っていた。

 だが彼女には、彼がそう想ってくれているように感じられて。それを信じようと思った。


「私こそありがとう。好きになってくれて」


 真里奈は海岸に立ったまま、彼にだけ聞こえるように小さく答えた。

 そんな真里奈のことを、海の家の屋根から潮里のワタリは見ていた。少したってから、真里奈が歩き出したのを確認すると、音もなくそこから飛びたった。


 次の瞬間には現世から消えて、影の世界に姿を現した。先に影の世界に戻っていた潮里の横に止まる。


「……伝わったようですね。あなたと会った記憶がなくなるので、うまくいくのかと思いましたが」

「はい。本当によかったです」


 そう答える潮里の声は、弾んでいる。


「でももしかしたら、私がしたことなんて大したことないのかもしれません」


 潮里はそう言うと、目を細めた。


「だって、本当に大切な想いなら消えはしないだろうから」


 潮里は真里奈から目を離すと、空に視線を移した。その先の冥界に目を向けると、こう言った。


「約束、果たしましたよ」


 と。




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