狭間の時刻

土御門 響

第1話

 それぞれの季節を司る者がいる。

 中でも彼女は、春の精と呼ばれていた。


「蒸すようになってきたわね……」


 日増しに強くなる日光。

 じっとりと肌に絡みつく湿気の強い空気。

 春らしい桜色の髪を腰まで垂らしているせいか、蒸すと暑くて仕方ない。長い髪をかきあげて、パタパタと細い手で扇ぐも大した風にならなかった。


「そろそろ春も終わりかしら……」


 今年の春は異様に短かった。

 郷の人間達が春の訪れを祝って、毎年桜が満開になる頃に祭りを開く。だが、今年は祭りの日には既に桜が散って、桜の木々には青々と緑が繁っていたのだ。

 今日だって、まだ卯月の半ばだ。それなのに、生い茂る緑を日除けにして暑さを凌ぐ始末。


「おかしいわね……」


 あまりの早急な暑さに耐えかねたのか、郷の人々が自分に祈りを捧げているらしい。胸の奥に直接響く人々の悲痛な訴えと願いが迫っても、春の精は正直何もしてやれない。人々が哀れで仕方なかった。

 春の精といっても、自然に直接介入できるほど万能ではない。草木の育ちを多少手助けして、風の流れを少し正す程度のことしかできない。

 何とかしてやりたいと思ったとしても、どうしようもないのである。


「それに……」


 木の幹に体を預けて身動ぎすると、薄いヴェールのような布地の衣に皺が寄った。蒸し暑い風に揺れる衣装の飾りを眺める。

 その飾りは人間の衣についているような布や紐ではない。春を象徴する草花が、紐のような束になって体躯に絡んでいるのだ。髪飾りとして右耳の上あたりに着けている大輪のアネモネを筆頭に、アイリスやアザレア、スミレにタイムなどなどが腰紐のように、春の精の体躯を彩っている。

 初夏を思わせる春の日。そうやって春の精は倦怠感に身を任せて指に触れたスミレの茎で手遊びをしていた。

 そのとき、不意に風が凪いだ。

 瞬きして目線をあげると、木々の向こうにある岩場に見たことのない風貌の少女が腰掛けていた。

 思わず身を起こして、その少女を見る。そして、悟った。


「あの子……」


 私と、同じだわ。


 ***


 まだ少し湿気が足りないような気がする。

 生まれ落ちたばかりの夏の精は、岩場に腰掛けて目を擦っていた。色鮮やかな夏の花々の模様が美しい深緑色の着物を纏い、手には紫陽花色の鞠を持っている。夏の暑さに適応しているのか、毛先に少し癖のある黒髪を旋毛で結い上げて、器用に簪で留めていた。


「まだ夏ってほどじゃない気が」


 半分寝惚けた頭で呟く。

 虫の声が聞こえないし、草木の緑もまだまだ薄い。

 と思っても、生まれてしまったからには夏に向けて動くしかない。季節を司る者として、生まれたからには責務を全うしなければ。

 覚醒し切っていない体を叱咤して、立ち上がろうと足に力を込める。

 そのとき、背後にひとつの気配が舞い降りた。


「貴女、もしかして……?」


 夏の精は振り返って瞠目した。

 声の主も目を丸くして呆然と佇んでいる。

 二人は本来、決してまみえることはない。だが、この異常な気候が、あるはずのない対面を叶えたのだ。


「春の、精……?」

「そういう貴女は夏の精でしょう?」


 突然の出会い。

 有り得ない遭遇。

 あまりの事態に二人とも言葉を失う。

 お互いを目にするのは初めてだ。


「えっと、何て言えばいいのかしら……」

「そうね……じゃあ、取り敢えず」


 春の精よりも幾分か幼い見た目の夏の精は、真夏の日差しのように明るく笑った。


「私の鞠で遊びましょ?」


 ***


 無邪気な少女たちの笑い声が山の中に響き渡る。よく跳ねる鞠をついているだけなのに、不思議と笑顔がこぼれる。

 何故だろう、と二人の少女は思った。

 そして、すぐに思い当たった。

 二人だからだ。

 いつも、自分たちは一人。誰にも干渉されることなく、淡々と生まれ、淡々と義務を全うし、淡々と……

 そうだ。こうやって誰かと話し、誰かと笑うことなんて、本来はないのだ。

 自然の声、動物の声、人々の声。それらを聞き、気まぐれに応じることはあっても、こうやって確固たる意思を持って誰かと接することは初めてだった。

 だから、楽しい。

 楽しくて、楽しくて仕方ない。

 ずっと続けばいい。そう願ってしまうほど、他者の存在はかけがえのないものになっていた。

 鞠に飽きたら、川で遊んだ。水に濡れたら、丘で日向ぼっこをした。

 とても楽しく、愛しい時間だった。


「……楽しいって、こんな気持ちなのね。知らなかった」


 草原に仰向けで寝転んだ夏の精が笑う。

 乱れた着物も、ところどころほつれた髪も、楽しさの代償だと思えばどうってことない。

 隣に寝転んでいるはずの春の精を見ようと首を巡らせる。夏の精の予想に反して、春の精は身を起こしていた。

 上体だけ起こして、夕焼けを眺めている。


「どうしたの?」

「綺麗な空だなと、思ったのよ」


 春の精がどこか寂しげに笑う。

 胸がズキンと痛んで、夏の精は思わず着物の袷を掴んだ。

 嫌な感じがする。何だか、怖い。


「お春……?」

「ねぇ、夏」


 お互いを親しげな呼び名で呼ぶほどになった。僅か、一日の交流で。

 春の精が寝転んだままの夏の精を振り返った。

 夏の精は、ハッとした。

 夕陽を受ける春の精の顔。優しげで、大人っぽい顔が、


「お春!」

「そうよ」


 夏の精が泣き出しそうな叫びを上げる。

 春の精はそれを静かに受け止めた。

 二人はよく知っている。

 季節の務めを終えた者が、どうなるのか。


「嫌、嫌よ、お春……!」

「夏、仕方ないわ。これは運命さだめ。貴女だって、今まで何回も経験してきたでしょう?」


 泣きつく夏の精の背を撫でる春の精。その姿は徐々に透けていっている。夏の精の泣き顔を、透けゆく春の精越しに夕陽が照らす。


「また次の春に会いましょう、なんて言えないから辛いわね」


 だって、春に貴女はいないもの。

 夏である、貴女は。


「行かないで、消えないで」

「夏」


 務めを終えた者は次の務めまで無に帰する。消滅する。その運命を当たり前に捉えていたのに、今は抗いたくて仕方ない。

 その気持ちは、春の精も抱いている。けれど、抗いようがない。だから、夏の精を強く抱き締めた。せめて、温もりを残してあげたかった。


「……ありがとう」


 それを最期に、春の精は消えた。

 そして、夏の精は泣いた。

 独りになってしまった。また、独りに。

 春の精が残した最期の温もりを抱いて、夏の精は泣きじゃくる。日が暮れるまで、泣き続けた。

 夜の静けさが降りてから、夏の精は涙を止めた。厳密に言えば、涙が枯れた。

 ぽっかりと胸に穴が空いたようだった。


「お春……」


 その小さな呟きは、夜闇に呑まれて消える。

 胸の痛みがひどい。ずきずきと鈍痛が止まらない。

 痛い。痛い。そう思って、胸に手を当てた。

 すると、かさりと小さな音がした。


「何だろう……」


 着物の袷に何かが挟まっている。

 引き抜いてみると、それは小さなスミレの花だった。

 特殊な力の波動に包まれていて、枯れる様子はまるでない。瑞々しい花だった。


「お、お春……」


 これは春の精が身につけていた草花のひとつだ。きっと抱き締めてくれたときに引っかかったのだろう。

 春の精の波動に守られているから、きっとすぐに枯れてしまう。けれど、自分の波動を注げば枯れないはず。

 夏の精はスミレを耳の辺りに差した。

 これでいい。これなら、まるで彼女が傍にいるようだ。

 泣き腫らした顔で、夏の精は小さく微笑んだ。

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