雨樋

韮崎旭

雨樋

 昨日の晩は雨の音が絶えずに蒸し暑かった。足の甲に、自傷創で、特に切り傷であるものを持つ女性がサンダルというか、夏場によく履かれるパンプスのようなタイプのサンダルを履いていたら魅力的だなと思ったから信じがたいほど切れない刃物で自分の足の甲を切っていたが、普通に腱などの内部構造が皮膚の上からでも肉眼で観察できるので恐怖が充足した。右手の指で刃物を扱う傍らに拾い上げた血液は生温かくべたべたして塩辛い。塩辛いくせに微塵もおいしくない。塩辛い料理はおいしいのに、理不尽だと思う。

 床を汚すまでもなかった。それは腱などの内部構造が容易に皮膚の上からでも観察できる足の甲という箇所の特徴とでもいうか、こんな場所をそうそう執心して切らないし、腱などの内部構造に損傷を与える危惧から自然自身への傷害の手が緩む。

 

 ただ、残念ながら僕は女性ではないので、足に切り傷を持ってパンプスのような形状のサンダルを履いても別に魅力的だとは思えなかった。女性の足の甲にどういう関心があるのか今度電子レンジの作動している間にでも考えておこうなどと考えた。

 多分、緊張感がポイントなのだ。足の甲を、高さのある踵を持つ靴を履くことで不自然に歪める形で伸ばしたその緊張が傷の淡い悲惨と相まって彼女の足の甲を非常に美しく見せる。また、それ:静脈や腱などの内部構造が皮膚の上から視認できるような足の甲は、大抵は痩せた女性が持ちがちに思え、なおかつその有様から無防備な危うさを感じさせる。加えて、もしその女性が、摂食障害(特に、というか、主に、Anorexia Nervosa)を疑うような体形の持ち主だったら?

 実に素晴らしい話だ。傷は白い膚にえてして映えるが、それが、関節などで逐一骨が浮くような、ある種の病を纏ったような体形の人間の持ち物であるなら、この上なく、美しく彼女を見せる。もしくは彼女のありようが、傷や関節の骨をこの上なく美しく見せる。

 

 それは、死を思わせるから。

 

 だから、足の甲が見えるような、踵のやや高い靴(エナメル、黒。足の甲の膚の白さとの対比が素晴らしかった。)を履いた君に思わず声をかけたのはこちらとしては当然であったのだが、まさか知人のような関係になるとは思わなかった。不審そうな目で見られ(当然だし、実際に不審で、そして幾分危険ですらある)、疎遠になるかその時きりの会話しかないと思ったのだが、木下古栗の小説が好きだという共通点があったために(それがどの程度もっともらしいかは定かではないが)、君とは本の貸し借りを行う関係になった。ついでに言うと、親称で呼び合うことにもなった、「あなた」ではなく、「君」と。


 そういう訳で、僕は君から借りた『ポジティヴシンキングの末裔』を返そうと思い、待ち合わせの場所まで、徒歩で出かけることにした。やたら暑い日で、しかも雨上がりときて湿度も高い。なぜ公共交通機関を使わないのかと、徒歩を選んだ自分を呪ったが、人間が嫌いだからだろうよ、おそらくは。それは生物が嫌いとも言い、自己嫌悪でもあり、種のレベルの自己嫌悪だとかほざく。

 なんだかわからない音の混合物で耳と、神経が奇声を上げて発狂しそうになる炎天下を歩いていると、自分の、死に向ける感情がいかようだったのかわからなくなる。もとより何もわからないけれど。

 

 いずれにせよ、君は自殺が似合いそうな人間に見えるな、と回想する。そういうたぐいの人間が僕は非常に好きだし、ある眠れない午前4時などには、君が死んだ部屋で暮らすことを考えたりもした。所謂事故物件。君の死体が腐っていた空間で暮らすことを夢想した。新しく張り替えた床は、ラッカー塗料か何かのにおいがすることだろうが、そこ、というか、その部屋を数週前まで支配していたのは、たんぱく質や脂肪が嫌気的または好気的に分解される甘ったるく、胸が悪くなるような、特有の腐臭だった。それは君の最後の、何かとの会話だったのか? そこに書かれた内容を僕は読み出せるだろうか? いや、読みだす必要はない。鑑賞するだけだ。結局、君の美しさとのかかわりはそのような様式であるのだから。

 

 君はまだ自殺していない。

 どちらが先に自殺するか、見ものだね。今度、そう、会話の際に何げなく言ってみよう。そんなことを考えつつ歩きながら、この気温と湿度なら僕は自殺するまでもなく今日あたり死亡するな、それが不本意なのかもわからないままに、とも思う。

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雨樋 韮崎旭 @nakaimaizumi

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