第四章 其れは憤りという名の―6

 アリムの部屋にはひとつ、大きな窓がある。

 窓ガラス越しに見える月は、今夜はまんまるに近かった。

(きれいだな……)

 月の形をはっきりと見ることができるようになったのは、森を出るようになってからだ。あの常緑樹の森は、葉が豊かすぎて空の様子はよく分からないから。

 代わりに、「木漏れ日」的な陽光や月光の美しさを、アリムは誰よりもよく知っている。

(どっちがいいってわけじゃないもん……ね)

 どちらも知っている自分が、少しだけ贅沢に思えて、アリムはひそかに微笑んだ。

 まるでそれに応えるかのように、月がますます輝いて見える。

 と――

「……?」

 ――月の輪郭が、ぐにゃりとゆがむ。

 まるで大きな手で押しつぶされたかのような変化。はっと起き上がったアリムが窓ガラスに張りついてよく見ると、それは月だけの変化ではなかった。

 空だ。

 星も、暗くてよく見えないがかすかにある雲も。すべてがぐにゃぐにゃにゆがんでいる。

 見つめているうちに、アリムはふっと意識が遠くなった。

 まるで目の前の景色に吸いこまれていくかのように――

「何かが来る――」

 囁くような声は背後から。そしてその声の主が、窓に張りついていたアリムを後ろから、抱きこむように引っ張った。

「俺の傍から離れるな」

 耳元で、鋭くトリバーの声。張りつめた青年の気配に、アリムは遠くへ飛んでいくような意識から我に返った。

 ぴしっ――

 目の前の窓ガラスにヒビが入り、そして、

 バン!

 弾けるように砕けた。

 冷たすぎる夜風が、一気に吹き込んできた。アリムは身を縮めた。トリバーの体温がひどくありがたかった。

 しかし、窓が割れてもそこには誰もいない。ゆらゆらと揺れる夜闇が見えるのみ――

『やはり……精霊術士マギサが護衛か』

 その声は、どこからともなく響いてきた。

 トリバーが舌打ちする。そして、「目を閉じろ!」と鋭くアリムに命じた。

 アリムは今回も、何が何だか分からないまま従った。ぎゅっとつむった瞼の奥で思う――声の言う、マギサとはトリバーのことだろうか。

『しかし無用心だな……肝心の『背く者』がいないとは』

 声は、のどの奥で笑うような気配を見せた。

『――あれでなければ、私には勝てぬだろうに』

 背く者?

 ――誰のこと?

「なめられたもんだな……」

 トリバーがつぶやく。しかし、その声に緊張感がある。

『おや、マギサ・ニクテリス……君をなめたつもりはない。君はマギサとしては間違いなくトップクラスの術士だろう。現に今、すぐ目を閉じたことは正しい判断。私の幻術に惑わされぬためには、それしか方法はない』

 幻術の法を即座に見破るその眼力はたしかなものだ、と声は褒め言葉には思えないトーンで言った。

『しかし……私には勝てぬ。それが分からぬほど愚かでもない』

「―――」

 目を閉じたまま何も見えない。トリバーは一体何をしたのだろうか――

 ごうっ! と聞き覚えのある音がした。風の渦が巻き起こる音。

 続いて、バリンと何かが割れた。

 部屋の中の空気が大きく動いた。

『ほう……』

 声は初めて、心から感心するような気配を見せた。

『私の位置を正確につかみとったか。思った以上の力だ、マギサ』

 しかし当たらなかったな、と声はまた笑う。

 アリムは目を開きかけた。とたんに、「開けるな!」とトリバーの鋭い声。

 しかし、目を閉じたままでいると、あの妙な『声』はひどく精神を圧迫する。

 開いては幻。閉じては圧迫。どちらも恐怖。

 しがみついているトリバーの腕だけが、たしかな安心の証。

『悪いが、お前の相手をしている暇はない――マギサ』

 せめてもうひとりいるべきだったな。声はよく分からないことを言った。

 けれど、その意味はすぐ知れた――

『この家にはもうひとり無防備な人物がいる……そちらから干渉してもいいのだぞ?』

 言葉とともに。

 パタン、と部屋の扉が開く、いつもの音がした。

 続いて、足音。

「アリム……」

 名を呼ぶ声に、アリムはびくりと震えた。

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