第二章 其れはやさしき心の憂鬱―3

 街には人が多い。当たり前のことだ。

 けれども何度来ても、“森に住む”少年アリムはめまいがする。

「……ぼく、こんなに弱かったかなあ」

 くらくらする頭に、アリムは苦笑した。

 そもそも川での一件より前にも、自分は寝込んでいたのだった。長い森での生活で体は鍛えられているつもりだったけれど。

 駄目だ。弱音を吐いては駄目だ――

 言い聞かせながら、人通りの多い道を歩く。

 足元がおぼつかなくて、彼は何度も人にぶつかっては謝るはめになった。

 冬の寒気が、なぜか森にいるときよりも強く感じる。他の季節であれば人々の熱気も暑苦しいほどなのに、この季節だけはなぜか、人の姿を見れば見るほど寒さを感じて仕方がない。

 森の家を出たのは、朝。

 今はもう昼下がり……

 ここまで、水の一滴さえ口にしていない。

 そんな状態でもアリムは、必死に足を前へ前へと押し出していた。

 向かう先は、伯母の家だった。ずっと昔に亡くなった父の、お姉さんだと言う。生前の母とも仲が良く、街に滞在するときは必ずお世話になる家だ。

 “ゼルトザム・フェー”に行く前に、挨拶をしなくてはいけない。

 ……そもそも、その“ゼルトザム・フェー”がどこにある何の店なのかを、彼は知らなかった。

 教えてくれれば助かったのに、などという文句は言える立場にない。人に聞けば何とかなる、と少し自分を慰めるように考えながらアリムは黙って道を歩く。

 彼の住む森に一番近いゼーレの街。

 アリムがここ数年で学んだ話では、大陸の最東端の街らしい。大陸的視点ではそれほど大きいわけでもないが、かなり活性化している街のひとつだそうだ。

 というのも、大陸でも大きな学問のひとつ――“精霊学”の研究が活発な二つの国の間に挟まれた、唯一の街だからである。

 より東――海を渡ると、島国メガロセィアが。

 より西――内陸部に入ると、ベルティストンが。

(……精霊学の最高峰……)

 その言葉が胸に浮かぶたび、アリムは憧憬の年を抱く。いつか、行ってみたいと。

 だが今の彼は、このゼーレを歩くのが精一杯だった。

 ――二つの国の橋渡しをするゼーレは、そのせいかどうかやたら道が多い。

 街中で一番大きい中央道や商店道を通れば一番近道だ。だが、同時にたくさんの人間の波をくぐりぬけなくてはならなくなる。そんなわけでいつもは脇道を選ぶのだが、そうすると何だか寒々しい道を通ることになったりもする。

 そして今回アリムは、近道をとった。

 早く着かなければ倒れるような気がしていたのだ。

 けれど、何度も人にぶつかっているうちに、どんどん目的地が遠くなっていくような錯覚に襲われた。

(……脇道にしとけばよかった……)

 もう後戻りできない場所まできて、とうとうアリムはそれを認めた。途方に暮れた思いとともに。

 今更どうしようもない。自分のいる位置をたしかめようと、アリムは道の途中で立ち止まる。

 街の中央を走る、その名も中央道センターライン

 いったいどこへ向かっているのか、人々がせわしなく―あるいはのんびりと行き交っている。

 中央道は広い。どれだけたくさんの人間が歩いていても、窮屈にはならない。むしろゆとりがある。

 それでもアリムは人にぶつかりまくった。つまり、

(……そんなにフラフラしてたのか、ぼく……)

 今更ながら自覚して、自分が情けなくなった。

 他の人の邪魔にならないよう道の端にまで寄る。ただそれだけでも、けっこうな距離を歩くことになってしまった。

 行き交う人の、世間話がちらと聞こえる。

「今日は風がないねえ。この季節に、珍しいことだわ……」

 風がない。

(そう言えば……)

 歩いているときには気にしなかったが、立ち止まると分かる。寒気は相変わらずなのに風がない。

 そう言えば……森を出てからずっと。

(ぼくもこんな日、初めてかもしれない……)

 けれど天候の気まぐれさと神秘については、彼はまったく知識がなかった。たまにはこんな日もあるのだろうと気を取り直して辺りを見渡す。

 中央道の両脇には、運良く土地を手にした商店もちらほらあるが、基本的には公共施設が並んでいる。学校や、図書館などだ。

 中でも一番目を引く建物が、今アリムの目にも映っている。

 それほど離れていない場所。

 街のちょうど中心にあたる場所に陣どった、荘厳な建物。

 その建物のあちらこちらに施されている装飾――そしてその建物の周囲に並ぶ像が、やがてアリムの目にはっきり留まる。

 生き物をかたどっていた。

 人に似ていながら、羽があるもの。

 人を圧縮したような、ずんぐりむっくりの不思議な小人。

 あるいはまた、人の姿をしていながら足のないもの――

(精霊)

 そう思った瞬間、心が急激に冷えた。アリムはとっさに目をそらし、そしてそのことに自分で驚いた。

 精霊学の本で何度も目にしたその姿。

 精霊の姿はこうやって、見ることがいくらでもできる。あるいは絵画で。あるいは彫像で。

 あれは本物ではない。

 それが分かっていても、いつもそれらから目が離せない。ずっとずっと憧れていた。日が暮れるまで見つめていたこともあった。触れることのできる彫像ならばすすんで触れた。意味のないことと分かっていても、どうしてもそうせずにいられなかったのだ。

 今までは。

 ――なのに今、自分はどうして拒絶した?

「―――」

 彼は頭を振って考えるのをやめようとした。

 めまいがさらにひどくなった。

 必死に耐えていた何かが一気に襲ってきて、地面に膝をついた。息が荒くなる。肩が大きく動いていた。

 どうして? 自分は今、この街では見慣れた像を見ただけだ。その答は見えない。ただひとつの単語が脳裏を巡る。

(精霊……精霊が……)

 そして思い出した。数日前、母を失って以来の感情を思い出してから、“精霊”が急に怖くなった自分を。

 精霊が信じられないと、思い始めた自分を。

 地面にへたりこんだまま、アリムは服の内を探る。胸元にあった母のお守りを、震える手で握りしめた。

「お母さん……お母さん……っ」

 かちかちと鳴る歯の奥から、しぼりだしたのはその名。

 広い大通りを行き交おうとしていた人々の視線が集まってくる。これほど心の中が混濁していたのに、周囲の気配は鮮明に感じ取れた。そのまま通り過ぎていく者が大半。中には、

「坊や、お母さんとはぐれたのかい?」

 と声をかけてくれた気配もあったが、それを聞いてますますアリムは混乱した。

「はぐれ……? 違う……! お母さんはもういなくて、もういないから、それでぼくはひとりで、ひとりで――」

 集まり始めていた野次馬が、ざわざわとさざめいていた。

 この子は誰だと、あちこちで声が飛び交う。どこに連絡する、病院へ、施設へ、待てその子には見覚えがある。その子はたしか、

 協会に出入りしている子じゃないのか――?

 協会に連絡しろ、そんな声が聞こえた。

「―――!」

 アリムはとっさに顔を上げ、声を張り上げた。「やめて! 協会には……!」

 精霊保護協会。精霊学を学ぶための場所。今まさに、彼を混乱に陥れた彫像を飾っているその建物。精霊。

 野次馬たちはとまらない。

 アリムは頭を抱えた。

 誰かとめて、流れをとめて、お願い助けて、お母さんはいないのにぼくは――

「……アー……ク……」

 なぜかその名が、口をついてでた。

「アーク、アークさん、どこにいるの……!」

 泣き叫ばんばかりの少年の絶叫に、周囲は驚いて一歩退いた。

 アークとは誰だと、戸惑ったような声が聴覚を埋めた。心が絶望に包まれる。―まさかそんな名の人間は、存在していないというのだろうか――

 と。

 ふと、周囲のざわめきが妙にばらついた。

「おどき、ちょっと通しなよあんたたち! あたしゃその子に用があるんだよっ!」

「あ、あんたエウティス――」

「アリム!」

 名前。

 長らく誰からも呼ばれていなかったその名を呼ばれ、アリムははっと顔を上げる。

 街人をかきわけて、ひとりの女性が彼の前に姿を現した。

「あ――」

 見上げるアリムの視界に、ころころと太った影が落ちる。

 呆然とその女性を見上げたアリムに、相手は険しい顔で一喝。

「しっかりおし、アリム!!」

「―――」

 その迫力におののいて退いたのは、街の人々だったという事実はさておき。

 アリムはようやく、混濁していた何かが晴れていくのを感じた。

「エウティス、伯母さん」

 街に出るようになってからしっかりと胸に刻み込まれていたその名前を呼ぶと、女性はにっこりと微笑んだ。

「……気がついたかい? アリム」

 バカだねえこんなところで、とその手が少年の頭に乗せられる。くしゃくしゃと茶の髪を乱された。

 少し冷えた、けれどぬくもりのある手……。

 アリムは笑みを浮かべた。泣きそうな笑顔。けれど嬉し涙を流す方法を知らず、彼はただエウティスにしがみつく。

 何も言えなかった少年を、エウティスはただ優しく抱きとめた。

「まったくもう。――大きくなったねえ、アリム」

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