第二章 其れはやさしき心の憂鬱―2

「えーと、忘れもの……ないよね」

 ぶつぶつと独り言を言いながら、アリムは家の中を見渡した。

 家、とは言っても、小さな小さな小屋だ。森に出る出入り口の他に扉はひとつしかなく、それはアリムの寝室に通じている。

 かつて親子で使っていた部屋。

 その寝室と、この居間とを合わせたところで、小さいことにかわりはない。

 もっとも、アリムがこの家を“小さい”と認識したのは、街に出るようになってからだった。それまでは比べる対象がなかったから当たり前だ。

 そもそも、“小さい”ことは分かっても、だからと言って不満があるわけではなかった。生活用品が最低限、いや……充分に置ける家。

 ――まして一人きりで住むには、空しいくらいの“充分”さ。

 今、その家は綺麗に片付けられている。

「ん……と」

 手に持った大きな荷物袋を抱きしめたまま、何度も何度も家の様子をたしかめる。

 普段は毎日使うために適当に放ってある日用品も、今日は綺麗に隅っこにまとめた。家の中で干している服も、必要な分まとめて袋に詰め、今は自分で抱えている。必要のない分は寝室に片付けた。

 しばらく放っておくと不都合な食料も、今回はない。

 と言うより、食料も水も無くなってしまったので、アリムは今日、外に出ることにした。森の外へ。

 街へ。

 母がいなくなって以来、定期的に行ってきたことだが、今回は少し事情が違った。

「―――」

 アリムは、大切に服の中にしまっておいた紙きれを取り出す。

 紙は、森で生活するアリムにはあまり縁がなかった。ただしそれは母が亡くなるまでのことだ。

ひとりで街へ出るようになってからは、言葉の勉強――そして精霊の勉強のためによく使うようになった。

 けれど、今彼が手にしているのは勉強のためのものではない。

 あまり質のよくない紙に、アリムの知らない字で走り書き――


『数日分の食料と水は置いておくから食べなさい。んで、なくなっても絶対あの川の水は飲まないこと。なくなったらちょっとだるくても街に出てきたほうがいい。まあ多分、それぐらいの体力が回復するぐらいまではもつと思うから。

 ……仮にもたなくても、おれを恨まないよーに。

 街に出たら、ゼルトザム・フェーっていう店にいる、みどりいろの髪の二十歳くらいの男に会いにいくこと。それはおれじゃないけど、おれより目立つだろ、何たって髪みどりだから。

 自慢じゃないがおれほど目立たない人間はそういないぞ。

 そうそう、この手紙の横に守護石アミュレット置いていくから。その家を護るために置いてくから、間違っても家の外に出すんじゃないぞ?

 お前が街に来るときは、きっと精霊が護ってくれる――』


(精霊)

 ちくりと、胸に何かが刺さるような気がする。

 この手紙を置いていった人物――多分、あの川での折に助けてくれた亜麻色の髪の青年だろう――は、精霊が……見えているのだろうか。


『でもまあ、精霊にあんまり負担かけるのもアレだから、道中は急いできなさい。精霊は万能じゃないからな……

 じゃあ、また』


 そして文面の最後に、

 ――我が心、精霊とともに――

 そんな一文と、サインがあった。

(……アー……クって、読むの……かな?)

 サインというものは大体文字をくずしている。ただでさえ文字なるものを読むのが苦手なアリムには難解そのものだったが、その名前は比較的分かりやすかった。

 ……綴りが短かったのだ。

 アリムは目を上げて、寝室からこちらの部屋に持ってきた黒い石を見る。食卓の上にちょこんと乗せたそれは、手紙の主が置いていってくれたという“守護石アミュレット”だった。

 それが何と言う石か、アリムは知らない。知らないが――

 そっと自分の胸元から首に下げていた小瓶を取り出す。

 中に入っているのは、赤い石。

 母が、亡くなる前に“お守りだ”と言ってアリムに渡してくれたものだ。

(これと、同じようなものかな)

 見かけの違い以外、何も分からない。

 それでも、何となくほっとした。

 家は、きっと大丈夫――

 あの川での一件以来、漠然と抱えていた不安も、その石と手紙のおかげで大分和らいでいた。

 こんな手紙を残すだけ残して行ってしまった人間を、信用するのも変な話だけれど――

 ふと、湧き起こった気持ちにアリムは目を伏せる。

 ――すがりたいと、思った。

 そんな思いを、今は頭を振って否定する。

「……ダメだ。一人でも生きていけなきゃ……」

 川で襲われたときの記憶は、ほとんど思い出していた。あのときもけっきょく、自分は母に助けを求めていたのだ。

 母にばかりすがる自分。

 精霊を信じることも、本当は母の言葉だから――ただそれだけ。居るような気はしても、感じるような気はしても、やっぱり見えないし聞こえない。自分は、

 ――自分は、けっきょく一人きり――だ。

「……いつもどおり、勉強に行くんだよ。そうだよ――」

 誰に言うでもなく、呟く。

 応える声はやはりなく、

 ただ隙間風だけが……アリムの頬に触れていた。

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